水の中をただよう

有給を取ってアクアリウムの掃除をした。

少し前から水草の葉裏などにべたりとした黒っぽい苔が付くようになっていて、いつもどおりの掃除をしていてもだんだん汚くなるのを止められなくなってきていた。アクアリウムを立ち上げてから一年半ほどになるので、おそらく水底の土が古くなったのが原因だろうと見当はついていた。アクアリウムの底は土と砂利の二層になっていたのだけど、これを機に土は交換するのではなくてむしろ撤去することにした。砂利のみの方が管理は楽になるし、黒い苔が増殖するサイクルを止められるだろう。

全てを取り出して底の土だけを取り除き、また全てを元通りに入れ直すという作業は、頭の中でイメージした時点では、まるで4コマまんがのように単純だった。しかしまあ実際やってみたらけっこう大変で、魚とエビを捕まえてよけておき、いくつかのバケツに飼育水をできるだけ取り出し、水草をだいじに傷つけずかつ根こそぎむしりとり、配置された石を集め砂利もすくいとり、底に溜まった土を庭に捨てる。土というより泥なので、砂利をすくう際に入ってきてしまった。砂利の中にも浄化サイクルを担っている微生物がいるので、本来はそのまま生かしておきたかったけど、泥まじりの状態ではカルキばりばりの水道水でざぶざぶと遠慮なく洗うしかなかった。からっぽになったアクアリウムも水で洗った。常にたっぷりの水と草と魚たちをたたえていたものが、ただの透明な空箱になり、それはいかにも無機質にがらんとしていて奇妙だった。

しかしうすら悲しい気持ちでぼうっとそれを眺める間もなく、てきぱきと砂利を戻し、水草の根をトリミングしてから植え直し、石を配置し直してから飼育水を戻す。この作業をたらたらやっていると、よけておいた魚とエビが酸欠になりかねないから。そして、わざわざ休みをとってまでやったこの一大作業を終えてみると、一見まるで何事もなかったかのような元の状態にほぼ戻った。これぞリセット、やったことが見た目で分からないなら分からないほどそれはむしろ成功だった。疲れたが気分はよかった。まあでもこれでめでたしと終われるわけではない。

水の中でも陸の上でも同じなのだけど、植物は環境が変わると落ちてしまう葉があったりする。別の環境に植え替えるとき、もしくは新しい個体をお迎えしたとき、驚かせたらすまないが今からここが君の場所なんで、とりあえずがんばっておくれ、お気に召すといいんだが、と思いながら根をうずめる。何日間かはそれで何事も起こらないことがほとんどなのだけど、しばらく1週間くらいすると葉の色が褪せてきたり、明らかに元気のない様子になったりする。そこで株全体がぐずぐずになって死んでしまうか、持ち直して新しい葉を出してくるかはその個体の体力しだいなので、こちらとしては多少の調整は試みるものの、基本的には見守るより他ない。若い苗だと、根を傷つけなければまあ大丈夫。そもそも成長過程の真っ最中なので、自分の変化も環境の変化も、元気さえ良ければすんなり乗り越える。今回は一度根こそぎむしられた古株のネジリモも、リセット後に導入した新入りのカボンバも、古い葉を捨てて新しい葉を伸ばしてくれた。まあアナカリスはそもそも丈夫なので心配してなかったけど、リセット後にてきめんに調子が良くなって新芽がたくさん出てきた。

水中ジャングル


作業BGMは石橋英子が音楽を担当した映画「ドライブ・マイ・カー」のサントラ。この日の前日に家で観た。映画館の良さがあるのはもちろん知ってるけど、深夜の自宅で観たのはわたしとしては正解だったかな。

この映画、3時間という長丁場だったけど、そんなに長くは感じなかったかも。でも、すごくよかったかと言うと、うーむ、どうだろうね、という感じ。

日本にいないことを考えると割と奇跡的なのだけど、この映画の原作のひとつである村上春樹の短編(木野)を読んだことがある。ぐうぜんこの短編が連載されていた文藝春秋が誰かから回ってきたのだ。「女のいない男たち」で読んだのではなく、連載中の雑誌のその「号」がたまたま手に入ったというのも巡り合わせだし、読後に感じた不思議な余韻も印象に残った。

映画ではあの短編が解体され、要となる木野の「正しく傷つくべきだった」という言葉は生かされていたものの、他の要素と混ぜられていたのでほとんど原型は留めていないし、3時間の中で何かしら薄められてしまった感じがある。そもそも短編のコンパクトにぎゅっとまとめられた世界観を、この映画に同じように求めちゃいかんのだろうな。素人の勝手な言い分として、木野にいろいろ付け加えたにしても、あれとこれがなければ2時間にまとめられて、もっとすっきりしてむしろよかったのでは、わたしはなんだかちょっと気が散ってしまったので、などと野暮なことを思ったりもするけど、それでも石橋英子のサントラは素晴らしくて、今でもときどき作業や仕事をしながら聴いている。

多くの人たちが言っていたように、この映画の素晴らしかったところのひとつとして、三浦透子がとても印象に残った。彼女が自然に持っている演技とは別の次元の存在感は、北野武の映画に出てくるある種の役者たちを思い出させた。映っているたたずまいだけで、多くを語らず、見ているこちらの内側にざわざわするものを呼びさます人。

もうひとつは、高槻の車内での独白のシーンがなにしろすごかった。話していくうちに、まるで彼の何かがどんどん透き通っていくような感じがして、文字通り釘づけになってしまった。あれはなんだったんだろう。この場面の最後の方、彼の目が涙でうるんできらきら光っていて、そこにはほんとうに純度の高い澄んだなにかがあって、3時間かけた映画が終わった後、あの場面に戻って2回くりかえして見たほどだ。サントラとこのシーンだけでも、この3時間の映画を見た価値は間違いなくあった。

あの人は岡田将生という俳優さんらしいが、あの場面のことを思い出す時、岡田将生というよりも、あれは「高槻」だ、と思う。何かが1秒ごとにクリアになっていく一方で、演じ手と役の境目がじわっとぼやけてゆき、みるみる融合して交差していくような奇妙で美しい場面だった。三浦透子は「三浦透子」として印象に残ったのと対照的だ。

でも、三浦透子だって、あのたたずまいが演技ではないと誰が言い切れるんだろう?「演技」ってそもそもなんだ?

だんだん分からなくなってくるな。でも、分からなくても別にいいか。強く感じるものがあった、それ以上に大切なことはないだろうし。



夏になって、夜に街を散策するのが楽しい。久しぶりに旧市街に出て、気のおけない女友だち3人と待ち合わせてざっくばらんなベトナム料理屋で夕食を取った。定期的に会っている人たちなのだけど、だいたい誰かの家で持ち寄りの夕ご飯を共にすることがお決まりのパターンなので、街で外食をするのは新鮮だった。わたしは旦那 + 子供持ち、ひとりは事実婚10年くらいの相手がいて子供は持たない主義、ひとりは子持ちシングルマザー、ひとりは独身で彼氏募集中、それぞれプロフィールが違う。年齢も近いけれどほどよくバラけている。4人のうち3人が共有する話題があるが、1人はあまり興味がない、みたいな感じで、全員に共通する話題は、実はあるようでない。それでも物事の見方や、生きていく姿勢みたいな部分で共感しているから、関係が続くのかもしれない。

もともとは、もう1人の友人がいて、女5人の集まりだった。その彼女が逝ってしまって5年がたつ。最近は、集まるたびに彼女の話をするわけでもなくなってきた。でも、彼女の死 - そこに至るまでの時間もふくめた全てを共に経験したことは、わたしたちをつないでいる重要な要素のひとつではある。そういうことは、忘れたようでいても無くなるわけではない。

さんざん喋り散らかした後で夜の街を散策する。仕事だったり、恋愛だったり、家族関係だったり、それぞれの悩みがあるなあ、と思いながら、心地いい夜の外気を吸いながら歩く。こういう気候にようやくなってからまだ間もないけど、夏至はあと数週間のところまで来ている。

この土地に暮らしていると、夏はいつも足りない。夏はもういいです、お腹いっぱいじゅうぶんです、うんざりですさようなら、と思うことは一度もなくて、突然8月の半ばに言いようのない秋の気配を感じて、そんなばかな、夏よまだ行かないでおくれ、と愕然とする。夏の終わりがあまりにも悲しいので、夏が始まるはずの夏至がもうすでに悲しい。北米の夏、時おりかなりエグく暑いが、基本的には明るい光のあふれる気持ちの良い季節、好きな季節なのに、終わりのことを考えると常にうすら悲しい。でも、目の前のことを楽しむしかないのだ。悲しむ暇もない。たぶんそれはみんな知っている。だから、この街の夏はいろんなイベントが次から次へと行われる。この日は、街の中に水槽があって、その中でただよっている男女がいた。

このGIF、すごく短い上に、あんまりそのままの雰囲気が出なかったんだけど、noteにあげるのはこれが精いっぱいです。


街中にいながら、ふわぁんとしたアンビエントっぽい音楽に合わせて水中をくるくるとただようふたりを、女4人でぼんやり眺める。もっとそのムードにまかせて頭をからっぽにして見ていればいいものを、どうしてもいろいろ考えてしまう自分がいた。何を示唆しているんだろう、とか、この動きはもしや、とか、ただのつまらない邪推にすぎないと自分でも分かっているのに、思考が自動的に回転して、なんだか疲れてしまった。

ふと気づいたのだけど、これと似たようなことは、日頃アクアリウムでやっているし、魚やえびを見ているほうがずっとリラックスできるのだ。彼らはほんとうの「無」だから。彼らにあるのは、純粋で、しかも妥協なしの生命力だけ。そのシンプルな美しさにあまりにも慣れすぎていて、服を着た人間が水の中で動いているのは、ヴィジュアル的にシックで素敵ではあるのだが、わたしにとってあまりにツッコミどころが多すぎる。

時計を見るともうすぐ22時になろうとしていた。このイベントは22時までだったので、もう終わりなのだと思うと少しほっとした。もう家に帰りたいし。…でもこれ、どうやって終わるんだろう?わたしはそのふたりがずぶぬれになりながら、いやーどうもどうも、みたいに水槽から出てくるのを想像して、すごく見たくないな、と思った。それは理由もなくぐわっと湧き上がってくるかなり強い気持ちだったので、友だちに正直に話した。

ねえ、あのさー、なんかこのふたりがびしょびしょで出てくるの、なんか雰囲気が台無しになりそうで見たくないんだよね。終わる前にここから立ち去りたいんだけど。

友だちはみんな笑って、わたしの申し出を受け入れてくれて立ち上がり、女4人で夜の街をまた歩き出した。しばらくするとわたしたちの後ろで拍手喝采が始まった。あのふたりがずぶ濡れになりながら受けているにちがいない。わたしたちはまた笑ったけれど、誰も後ろを振り返らなかった。

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