燃え尽きたアイデンティティ 映画「バーニング 劇場版」によせて
STAFF
監督:イ・チャンドン
脚本:オ・ジョンミ、イ・チャンドン
撮影:ホン・ギョンピョ
照明:キム・チャンホ
衣装:イ・チュンヨン
音楽:Mowg
CAST
ユ・アイン(イ・ジョンス)
スティーブン・ユァン(ベン)
チョン・ジョンソ(シン・ヘミ)
いまにも眠りに落ちそうな表情を浮かべながら、半分だけ開いた眼でこの世の不条理や不可解というものをどこまでも見つめようとする強い眼差し。不運な境遇にあって、父の故郷である農村でひとり暮らすイ・ジョンスという少年からは、村上春樹の小説の語り部に特有な超然とした感覚というものがまるで無いかのような印象を受ける。
ジョンスは始まりこそ、その表情に喜怒哀楽の感情を浮かべないが、彼が恋心を抱くヘミが行方をくらまして以降のその行動からは、不安や焦りや怒りというものが如実に高まっていく心理が伝わってくる。監督であるイ・チャンドンは前作『ポエトリー アグネスの詩』(2010)以降、自身が悩んできたテーマを本作に投影していると語っているが、それは「若者たちが抱えている怒り」であるという。『バーニング』は現代韓国の若者たちを取り巻く社会的な構造を俯瞰してみせ、そこに奇妙なまでの抽象的なメタファーを重ねることで、韓国のみならずより広く世界に通じる普遍的な物語へと昇華してみせた。
グローバリズムの台頭とともに、一国家の予算を上回るほどの経済的規模を誇る企業が誕生し、資本主義は止まることなく富を増大していくが、その陰で貧富の格差もまた増大していく。本作で言えばヘミがアフリカから連れ帰ってきたベンと名乗る男がまさに富を持つものの象徴であり、ジョンスやヘミはその対極に位置する存在である。
そうした関係は彼らが暮らしている地域の特性からもみてとれるだろう。ジョンスが暮らすパジュ(坡州)という町は、むかしは伝統的な農村ではあったが、いまでは倉庫や工場として使われ、農村としてのアイデンティティが失われている。ベンの家があるカンナム(江南)は、彼と同じように裕福な身分の人間が暮らし、都会的で豊かな街だ。そしてヘミが住むナムサン(南山)という地域は高台にあり、パジュほど田舎ではないが、カンナムほど豊かでもなく、ヘミのような都会での暮らしを望むが経済的に厳しい環境にある人々も暮らしているような街だとも言われている。彼が暮らす地域が、そのまま彼らのアイデンティティとも直結しているのだと、イ・チャンドンも答えている。
本作が思考する若者たちの怒りの根源にあるものとは、そうした背景に起因する経済的格差や就職難、地方の過疎化、女性のカードローン破産などであり、映画はこうしたピースを重層的なミステリを解くパズルのヒントのように拡散していくのだ。
映画版の『バーニング』の舞台は、村上春樹の原作『納屋を焼く』に書かれている1980年代の日本から、2017年の韓国に移し替えられている。誰もがインターネットに接続し、膨大な情報を取捨選択できる時代だ。高精細なマップサービスを利用すれば、まるで世界の果てなど無いかのように、この地球を俯瞰で捉えることができる。それにもかかわらず、ジョンスは目には見えない何かに怯えている。世界には未だ自分の知らない領分があり、そこでは自分の知らないまったく別の論理が働いている。そうした見ることのできないものへの不安、知ることができないものへの不安が、漠然とした“世界”というものに対する不条理さ、不可解さを拡散させていく。ベンという男は自身が同時存在であると語るように、まさにこの世の“よく分からないもの”の象徴として存在しているのだ。
ヘミがジョンスに対してみせるパントマイムが、本作を取り巻くメタファーの象徴として機能しているように、あらゆる事象は現実のメタファーとして捉え直すことができる。だが、ひとつひとつの伏線を読み解いていった先にあるものが二人の男のぶつかり合いであり、抱え込んできた怒りの発露として破壊的な衝動に打って出るというのは何とも悲しい結末でもある。しかしそれ自体もまたひとつのメタファーとして機能するのであろう。
ヘミというひとりの女性を軸に対照的に描かれているジョンスとベンが、ともに満たされないものを抱えている人間であるのに対し、ヘミだけが彼らとは反対に生命感や躍動感にあふれ、自分の実人生というものに対し、はっきりとした目的意識を持った人物として描かれているのも特徴のひとつだろう。彼女のパーソナリティというものが韓国社会を覆う様々な事象と絡み合いながら、ひとつまたひとつと解かれていくとき、ヘミの失踪とは文字通りの失踪事件としてではなく、韓国の若い女性のアイデンティティを象徴させるものが、まるでビニールハウスを燃やすがのごとく消失してしまったのだというふうにも見ることができる。『バーニング』とは、この複雑怪奇な現代社会のミステリアスな構造をあぶりだしていく大火のようだ。
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