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良いか悪いか?正しいか正しくないか?で考えて自分を制限していたこと

以前の自分は全て、良いか悪いか?正しいか正しくないか?で物事を判断していた。

自分に対して何かを言われると、それって良いこと?悪いこと?とよく考えていた。

例えば、「賢吾は爽やかだよね。」と言われると良いこととして捉えるが、
「賢吾は周りのことをよく見ながら、相手を見て発言してるよね。」

と言われると、これは良いことなのか?悪いことなのか?正しいのか、正しくないのか?と判断に困ってよく聞いていた。
相手は観察をしたことをそのまま伝えてくれただけに関わらず。

最近ひとつ分かったことがある。


それは、自分自身を常に良い悪いで評価すると、他人に対しても良い悪いで評価をしてしまっているということ。むしろ、他人自身を良い悪い、正しい正しくないで評価をしているからこそ、自分自身を良い悪いで評価をしてしまっており、無意識的に正しさというものを持って、その正しさに合うか合わないかを判断しており、正しくないと思ったらその行動を止めてしまっていたということ。

実際、正しいもの、正しくないものなんてあるのか?


もちろん、法律的に見ればある。
人を殺めてはいけないし、強盗をしてもいけない。

ただ、戦争下では人を殺めるのは良いこととされてしまっている。
ということは状況により、正しいもの、良いとされるものは変わるのである。

だとすると、今の社会の価値観の中で、他人との価値観の中で、良い悪いなんて存在するのか?と考えると、存在しないとも考えられる。

にもかかわらず、正しいか正しくないで判断をしているのは、ある意味自分自身の可能性を縮小させてしまっているだけでしかない。行動するにもアクセル踏みながらブレーキを踏んでいる状態。
であれば、

正しいか、正しくないか?良いか、悪いか?より、その事柄が効果的か効果的でないか?で判断をしたほうがある意味建設的ではないか?と思う。

先程の「周りのことをよく見ながら、相手を見て発言しているよね」ということは、良いか悪いか、正しいか正しくないか?だと相手によって変わる。と相手に判断を委ねてしまっているということになる。
効果的か、効果的でないか?で捉えたとすると、
関係性がうまくできない状態や、環境に合わせて発言した方が良い時であれば、相手を見て発言した方が良いと言えるし、
自分が伝えた方が良いと思っていることを全開でアピールした方が良い場面ではあまり効果的でないのかもしれない。と判断できると言える。

つまり、効果的か効果的でないか?だと判断軸が自分になるので、他人軸ではなく、自分軸での判断基準を持つことができると考えられる。

思考は行動になり、行動が結果になる。


自分が何を考えているか?が認識できると、行動、結果を変えることができる。
人の無意識(潜在意識)は90%以上と言われている。意識できている(顕在意識)のはせいぜい3〜10%。
自分がわかっていると思っていることは、せいぜい全体の1割にも満たないと言うこと。
つまり、自分が無意識的に考えていることを認識できると、自分のパターンを変えることができる。

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