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「君の言葉に救われた」。それは宝物みたいな言葉。

「君の言葉に救われた」がnoteのテーマにあったので、救われた言葉も考えたけれど、そう言われたときに1番救われているのかもしれないと気づきました。

何度か同じようなことを書いている気がしますが…君の言葉に救われた、そう言われることが最近増えてきていて、自分の言葉がだれかに届くとき、本当に嬉しく思います。

そうしてもらえた言葉は、わたしの心の中に、宝箱の中にある宝石のように、ひとつひとつ大事にしまわれていて、これから一生わたしの心の奥で暖かいほのかにじんわりとした光を贈り続けてくれるのだと思います。

わたしがだれかに届けた言葉は、わたしを救う言葉となって返ってきて、わたしがつらくなった時にいつか思い出して箱を開くと、光を放ってくれる存在になっているのだと思います。

今日はいくつか、わたしの宝石となった言葉をくれたきっかけのメッセージや内容を紹介したいと思っています。

前にも紹介したエックハルトさんの「Power of Now」が言っている、いまこの瞬間に集中をすること、は、ふたりの友人からの素敵な感想をいただけました。つらいのは過去や未来に意識がいっているからなんですよね。ふたりとも子供の年齢はかなり違うものの、子供がいる人に影響できるって本当にうれしいです。いまを大切にすることの力はやっぱりすごいです。友人の子供も、いまを大切にできる子に変わってきている、という話を聞いて、わたしの心まで幸せな気持ちになりました。

それから、「すべてはあなたに起きている事件ではなく、あなたのために起こされている」んだという話です。この話も、ふたりの友人が反応してくれました。ひとりは、バッグに入れる文字にまで、インスパイアされた言葉を入れてくれて、こんなにだれかに伝わったことにありがたく感じます。それから、同世代なのにわたしよりずっとしっかりしていて非の打ち所がないすごい友人がいるのですが、そんな友人ともこの話で心が通じ合う会話ができました。こういうときって、相手だけでなくて、わたしも癒されているんです。お互い同時に癒される会話ができることが、最近増えてきているのかもしれません。

また、あるデザインをいま進めていて、その言葉にもすごくいい!と言ってくれる人がいて、すごいと思うとも言ってくれました。わたしのことや感覚に対して、少しでもそう思ってくれる人がいると思うだけで、心の支えになりました。

少し話は変わりますが、最近母が大きな病気で手術があり入院をしたのですが、仲の良い古くからの友人が来てくれなかったと悲しんでいました。

母は歳のせいもあり、仲の良い友人があまりいません。だから、いつも寂しい思いをして毎日を過ごしています。

だから、手術なのに、入院中にお見舞いに来てくれなかったことに深く傷ついていて、心が荒れていました。

でも、こんなときは気づいたら良いのです。神さまはわたしたちに必要な人しか送り込まないのだと。その人が来ないということは、あなたはその人がその時にいなくて大丈夫だということ。最適なタイミングで、最適な人が、送り込まれているのだということ。

自分の母との会話なので、自分が説教じみたり上から目線になると、無理に押し付けた言い方になってしまいそうで、さらっとしか言えなかったけど、自分のことでも他人のことでも、よくリマインドしたくなる真実です。

実際、わたしも大きな病気をして、臓器を摘出した経験があります。その時に、同じような気持ちになったことがあるんです。なんで来てくれないんだろうって。無かったことにしていたけど、心に大きな傷は本当は残っていて、塞いでいるからか、ふとしたことで思い出したら泣いてしまうこともありました。

でも、いまはわかるようになりました。来ないほうが良い人は来ないほうが良いということ。母の手術前の数日間は、とにかく良い波動しか受け付けたくなくて、心からポジティブな結果を想像できる人だけに会ってもらいたい、というのがわたしから人に連絡するときの方針でした。実際、できるだけ配慮もできて、無事に手術も、その後の検査結果も、うまくいきました。

だれかが悪いわけではなくて、人っていろんな時期があると思うんです。ポジティブな波動を出せるぐらい強い時期や、その人に対する思いの強さとかも含めて。自分がいろいろある時には、人の弱いところに引っ張られるからお互い影響しあっちゃうのもあるかもしれない。別にそれもいいんですけどね。悪いことなんて、何もない。

だけど、わたしにとっては、大きな手術は、なにがなんでもわたしが作ったストーリーを起こしたかった。なので、いろんな氣を込めました。本気になると、実現するんですよね。

話が逸れましたが、こんな風に考えられるようになったわたしでも、寂しいなって思うとき、いまでもあります。呼ばれてない、とか、誘っても会えない、とか、またひとりごはん、とか、そういう寂しさ。きっと、みんなあるんだと思います。

友人に、“いまここで食べてるよ!”と伝えたときに、わたしはひとりで食べていたから彼女から連絡をもらった時には食べ終えていて出ないといけないタイミングだったからお店を出たのですが、その友人が“みんなで集まってるところに呼んでくれなかった”とちょっとふくれていたんですね。それがきっかけとなって、その日を機に連絡したくないと言われてしまったのですが。たぶん、みんなのところに呼ばれてない、という寂しさもあったのかな?とか、思います。わたしも、みんなといないと来たくないのか、と寂しく思いました。でもそれってちょっと行き過ぎるとVictim mentalityなんですよね。

たぶん、彼女が連絡したくないと思ったことに対してわたしがまたVictim気分になることはできるんですが、お互いに必要なとき、必要なタイミングで、神さまが自然にガイドしてくれるから、いまは自分に集中したり、新しい出会いを楽しんだり、そうやってもっともっと自分という存在を発見していけばいいんだと思います。

話を戻すと、母にも、必要な人が来れるようにその人が来なかったんじゃない?と伝えたんです。神さまが、わたしと親戚をもう一度じっくり会わせてたりしたかったのかも、と。母も、それはいい考えだね、と言っていました。そこからは、その話が出ることが無くなった気がします。

君の言葉で救われた。

この言葉をあといくつ集められるだろう。小さなそれをたくさん集められたらそれも素敵だし、深いそれをいくつか集められたらそれも幸せだと思います。

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次回の投稿は9月1日(日)の夜7時です。

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