見出し画像

ムスメが不登校になった 5 近所のひとびと

学校を休むようになって、
家にいる時間が増えたムスメ。

家は退屈ながら、心穏やかにいられますが
一歩外にでると、そこはちょっと緊張のエリア。
ムスメにとっても、わたしにとっても。

わたしは、近所の方、とくに同じ中学校のパパママに会うことを
当時苦手としておりました。

大丈夫?と声をかけてくださったり、
家を訪ねてくださる方もいました。
みなさん本当に心配してくださいました。

が、ムスメよりも親であるわたし自身が、
意識的に、また同時に、無意識にも、
近隣パパママとのコンタクトを減らしていました。
道で出会うと、逃げるようにきびすを返したり。

ゆきちゃん、ずいぶんそっけなくなったね、
みたいな感じだったかもしれません。

義務教育については、教育基本法にこのような定めがあります。

「 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う」

日本国 教育基本法 第4条(義務教育)


これについて、ある教育研究の先生がわたしに教えてくれた話を記します。

『義務教育は、親にとっては「義務」ですが
 この義務の範囲には、子ども自身についての記載はありません。
 つまり、子どもにとって、学校に通う通わないは
 「権利」なので、通わない選択をしてもよいのです。

 親の都合で学校へ行かせないのは法律違反ですが、
 子どもが学校へ行く行かないの選択をする事は
 当然の権利なんですよ。』

わたしはこの話を聞き、とても安堵したわけですが
まだまだ世の中は
「学校へ通い続けるのは当たり前」という価値観が主流。

わたしは、子どもが学校へ行かないのは権利、というのと
子どもは学校へ通い続けるべき、という
ダブルスタンダードの間を、おろおろするばかりでした。

近隣の方と会話をしていても、
その裏に「どうして当たり前のことができないの?」と
言われているような気がしていました。

おたがいの当たり前は、ズレたり違って当然なのですが、
相手の言葉や態度の中に、自分との差分を見つけては
「あ、これ、ディスってる?」とか
「あ、なんかかわいそうって思われてる?」など勘ぐってしまい、

そんな自分もとてもいやでした。

それはつまり、自分に自信がないばかりに、
自分自身が、自分をディスったり憐れんだりしているのでした。

 相手のいやな部分は、自分自身である。
 相手と自分は、合わせ鏡。

とは昔の方はよく言ったもので、
ナントカさん嫌だな、と感じた部分の根っこは
自分自身がそう思っていることなのでした。


そんなことを知ってか知らずか、
ムスメは順調に少しずつ、外へ出るようになりました。
図書館やスーパー以外も、ふらっと外出できるようになりました。

ある日、
「お母さん、書道教室、再開していい?」

家から歩いて10分の書道教室は、
ムスメが小学2年から通っていて、公民館に長机を並べるスタイル。
近隣の多くの子どもたちが通っていました。
行きたい時間に行き、先生にマルつけしてもらって
合格点をもらったら帰れるシステムでした。

「ん?ああ、いいけど、何時ごろいくの?」
「早い時間に行くー」

ということは、小学校低学年と一緒の時間!
この時間だと、中学の同級生には会わないから、とのこと。
多くの中学生はこの時間、部活にいそしんでいます。

たくさんの1年生や2年生が
小さな手で「つり」「ゆめ」など、ひらながを書いている横で、
中2のお姉さんが大きな紙で書道をしている様子を想像すると
なんともチグハグで、ちょっと面白い・・・と苦笑しながら、

「あなたがよければ、いつでもいいんじゃない?」
「うん、わかったー」

わたしは先生に、メールでかんたんに事情を伝えておきました。
先生は「はい、わかりました」とだけ返信。

そこから毎週、いつものように書道教室へ通い続けました。

先生も、まわりの子どもも、その親御さんも、
特に何も言わなかったようでした。

心おだやかに過ごせる拠点が、ひとつ、増えました。


通っていた絵画教室の先生からは
ムスメにあるご提案をいただきました。

この絵画教室も、家から歩いて5分。
ご自宅が素敵なアトリエ・兼・教室。

「もしよかったら、午前中とか昼下がりにいらっしゃらない?
 大人の教室の時間に、一緒に絵を描きましょう」

わたしは、
義務教育の学校に通ってない子を、学校の授業時間に
別の習い事に通わせるなんて、
一瞬、いけないことをしているように思いました。

ですがすぐに、その考えはしぼんで消えました。
義務教育を受ける・受けないは、ムスメ自身の権利なので
自分自身が快適に過ごせるために、彼女が選んだらよい。

ムスメは時間を繰り上げ、昼下がりに絵画教室へ通うことになりました。

その大人の教室は、全員ムスメよりうんと上の世代、
わたしの母親世代くらいの素敵なマダムたちでした。

マダムたちは、中学生のムスメが物珍しいのか
たいそうムスメをかわいがってくれました。

そして毎回、たくさんお菓子をもらって帰ってきました。
大人の教室の時間は、毎回、マダムたちがお菓子を持ち寄って
絵を描きながら、お話をするんだそうです。

その話の輪に入り、ムスメが学校の愚痴をいうと
先生とマダムたちは、口々にこういいます。

「まーー!それはいやだよねえ〜」

「そんなとこは行かなくてもいいわよ〜!」

「だってさ、ここでいっぱい絵を描いたり話をするのは
 りっぱな社会勉強じゃない」

「そうよそうよ。ゆっくり休んだらいいのよ」

「だって人生は長いんだから」

マダムたちに人生長いっていわれると、
そらそうだ、と思うしかないですね、笑

そして持ち寄ったお菓子を、まるで孫娘に与えるかのように
「まーたくさん食べなさい、ねっ」と
両手にあまるほどくれるんだそうです。

ここの絵画教室は、ムスメのつらさを優しく受け入れてくれました。
抱えきれないほどのお菓子が、その証拠。

ムスメも、自分を受け入れてくれた実感があったから、
差し出してくれるお菓子を受け取れたのでしょう。
またひとつ、社会とつながる拠点が、増えました。


わたしは、ムスメが拠点を増やしていく過程を通じて、
こういう生き方もすてきだな、と思いました。

ひとは一人では生きていけないので
他人と関わっていくことを、学ぶ必要があります。

多くの子どもは、その学びの舞台が「学校」ですが
学校でなくても、学ぶことができる。

図書館、スーパー、コンビニ、
習い事の先生、隣のおじちゃんおばちゃん、
近所のパパママ、遠くの誰か。。。

触れる人々との関わりすべてが、まさに
学びの舞台そのものだ、と。

学校はその舞台の選択肢の、1つにすぎません。

学校はすばらしい組織です。
学習も運動もコミュニティーも、あらゆることが揃っています。
見守ってくださる先生もいます。

ただ、合わないな、と思えば
その選択肢をいったんやめてみることもできます。

自分にあうところを、見つけていく過程そのものもまた、
学びです。

学校世代の子どもも、
学校を卒業した大人も、みんなに言えることです。
だって、人生は学びそのもので、
人生は、長いんですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?