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今日は天気が良ければ近くの森まで散歩に行こうかと思っていたが、いつものようにバルコニーに出ると、いくらか涼しい風の中にさらに冷んやりとした空気が含まれていることを感じた。雨が降る前にやってくる空気だ。

中庭を囲む家々の屋根で区切られた空を見上げる限り、雨雲と呼ぶほど厚い雲はなさそうだが、どこかで雨が降っているのかもしれない。

こうしている間も、開け放った寝室の窓から冷たい空気が流れ込んでくる。

先ほど、オランダ北部に暮らす友人の日記の中で「存在者との対話」という言葉を目にし、それが心に新たな質感をもたらしている。存在者とは、他者、モノ、自然、概念も含めた存在のことだ。

森に行くのは私にとってまさに自然や、見えない存在と対話することなのだと思う。

対話とは改めて不思議な行為だ。

そこに「わたし」および「わたしでないもの」が存在することによって交流もしくは交換・交歓のようなものが生まれるが、そのプロセスにおいて「わたし」と「わたしでないもの」の境目は曖昧になっていく。さらに、「わたしたち」を取り囲む世界との境目、時間との境目さえ溶けていく。

そしてそこでは、数学的・物理学的には表現ができないような反応が起こる。

私たちの脳には2000億個もの神経細胞がありそれらは数百兆個のシナプスによってつながっているというが、対話によってそこにはビックバンが起こっているような状態なのではないかとさえ思う。

小さなビックバンがいくつも起こり、かくして「わたし」は「わたしでないもの」になる。

もはや、「わたし」という言葉を何に対して向ければ良いのかさえ分からなくなってくるが、便宜的に、肉体的・可視的な存在を「わたし」だとすると、「わたし」は常に世界、もしくは存在者との間で動的平衡状態にあるのだろう。

そう考えると、対話というのは「する」のではなく「ある」のではないかという気がしてくる。

それは全ての存在(存在と捉えられないものも含めて)との間に常にあり、自分自身も対話そのものなのだ。

となると、dialogue with という言い方に加えて、as dialogue という言い方もできるだろうか。(英語の用法として正しいかは分からないが)

自分自身および、他者・存在者との関係を対話そのものであると捉えたとき、何かがふわりとほどける感覚があった。

私はすでに、対話としてここにいるのだ。私たちはすでに、対話としてここにいるのだ。


「対話としてある」というのは、何と、軽やかで清々しい感覚なのだろう。

中庭に、太陽の光が差し込み、カモメたちが一斉に声を上げた。2020.7.19 Sat 10:03 Den Haag

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