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いのちの声が聞こえるか

バンコクで一晩滞在したホテルはとてもキレイで部屋も広く快適だったが、一つだけ残念なことがあった。

朝食会場にテレビがついていたのだ。

ホテルの食堂にテレビがついているというのはさほど珍しいことではないが、通常ならBBCなどのニュースかその国の番組が放送されているところが、今回は日本の番組が放送されていた。

出張で中長期滞在する日本人も多いとのことで日本人向けサービスの一環なのだろうけれど、日本の慣習から距離を置きたいと思っている立場からするとなかなか悩ましい。

しかも、食堂の端と端に設置されている2つのテレビで違う番組が映し出されている。

左右から聞こえてくる異なる言葉がそれぞれに意味となり、音の質感とともに頭の中に流れ込んでくることは止めようがなく、このときばかりは仕事柄敏感になっている聴覚と言葉に対する感覚が恨めしかった。

今年の夏に3年ぶりに日本を訪れたが、そのときも飲食店やホテルの食事スペースでテレビが結構な音量でついていることに驚いた。

おそらくそんな環境にずっと身を置いていると音も気にならなくなるのだろう。

実際わたしも、消防署の近くに引っ越しをしたときに、夜中に必ずと言っていいほど聞こえてくる救急車の音が数週間も経たずして気にならなくなり、そんな自分に驚いたことがあった。

わたしたちの感覚は周囲の環境に合わせて、取り込むものを調整することができるのだろう。

むしろそうでないと、都会で喧騒に包まれながら暮らすことは難しい。

「取り込むものを調整する」というのは、「感覚を鈍らせる」とも言い換えることができる。

感覚を鈍らせることによって、その環境の中で生きていくことができるようになる。

では、鈍った感覚で過ごすとどうなるか。


自分の心の声や身体的な感覚も感じづらくなる。


世界中のさまざまな場所に滞在して感じるのは、人工的な建物に囲まれたいわゆる「都会」は「いのちを生きる存在としての人間」が住むのに適した場所ではないということだ。

「生産機械としての人間」であれば、むしろ都会の方がいいだろう。
決まった時間に決まった場所に行き、決まったことをする。
感情は脇に置き、ひたすら働く。

そのためには、感覚はなかったことにしておいた方が都合がいい。


感覚を閉じなければ、あの手この手で流れ込んでくるプロパガンダに意識が取り込まれ、感覚を閉じれば自分の心の声が聞こえなくなる。

いずれにせよ、自分が自分でいることが失われていく。

それが溢れる音および情報の中に身を置き続けるときに起こることだ。


まずは、少し立ち止まって耳を澄ますことから始めてみよう。

よく聞こえることは必ずしも心地いことではない。

だけど、自分の感覚が鈍っていたのだということに気づくことができたなら、きっと、世界の中にある美しい音にも気づくことができるだろう。

世界に耳を傾けることは、いのちに耳を傾けること。

あなたにはいのちの声が聞こえているだろうか?

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