見出し画像

ゴミと情報 -世界に静けさと余白を取り戻すために-

「テレビを消してもいいですか?」

調理場から出てきた老齢の配膳係にそう聞くと、キョトンとした顔が返ってきた。

「テレビ、消してもいいですか?」

もう一度言って、

「なんだか怖いニュースばかりなので」

そう付け加えると、彼女はやっと合点がいった顔になって

「そうねえ、ほんとねえ」

と、リモコンの電源ボタンを押した。

わたしたち以外に客のいない店内の空気がスンと静まりゆっくりと落ちていく。


去年の夏、3年半ぶりに日本に帰ってきたときにあらゆる場所でテレビがついていて驚いた。

安価な飲食店はもちろんのこと、年に数日、特別な時間を過ごす人が訪れるであろう旅館の朝食会場でさえもテレビがついていることがあった。

昨日は隣の市の温泉に行った。

新しく拠点をつくっている佐賀県嬉野市には美肌の湯と言われる泉質の良い温泉を楽しめる場所がいくつもあるが、近所のサウナ好きだという人が隣の市の温泉もおすすめだと教えてくれた。

とろりとしたお湯と、青みがかった天然石でできた露天風呂が気持ちよく一時間以上のんびりお湯に浸かって満足して出てきたのだが、休憩スペースにはご多分にもれず大きなテレビがあった。

飲食スペースも、ゆったりと座れる畳の間も、入り口近くのマッサージチェアがある場所も、それぞれにテレビがあって芸能人が過去のニュースについてあれこれと感想を述べる番組が大音量で流れている。

食事をして帰ろうかと思っていたがこれは落ち着かないなあと思い、男湯から出てきたピーターさんに「食事どうする?」と聞いてみると、迷わず、「家に帰ろう」という返事が返ってきた。

聞けば男湯はサウナの中から聞こえてくるテレビの音が響き渡っていたらしい。

日本語のあまりわからない彼だが、それでも音が気になったようで「受け入れることにしたけど」と困った顔をしていた。

おそらく女湯のサウナにもテレビはあったのだろうけれど(テレビがあるだろうと思ってサウナには入らなかった)、その音が他の場所に響いていなかったのはありがたかった。


日本に帰ってきてゴミの分別が細かくてやはり驚いた。
どこの自治体でもこのゴミはこの袋に、と細かく指定がある。

だがそれ以上に驚くのが毎日大量のゴミが出ることだ。

今はまだ自炊ができないので外でお弁当を買ってくるから、いうこともあるけれど、それにしてもあらゆるものからゴミが出る。

荷物が残された古い家を掃除し、毎日ゴミをまとめているけれど、そのそばから毎日ゴミが増えていく。

近所のスーパーで買い物をしても、物産館で買い物をしてもゴミが出る。

道の駅では、レジ袋はいるかと聞かれ、いらないと答えてもなお、野菜やパンを小さなビニール袋に入れて渡された。

レジ袋がいるかどうか聞くのは、それが有料だからなのか。
無料だったらビニール袋はいくら使ってもいいのか。

分別は細かく指定するのに、市内で売られるものに含めていいゴミとなるものは気にしないのか。


せっせと分別をする前にゴミそのものを減らすことが必要なのではないか。

やれ瞑想だ、マインドフルだ、サウナでととのうだという前に、
絶え間なく降り注ぐ情報を減らすことが必要なのではないか。


分別をするとなんだか良いことをした気になる。
サウナに入ると心も身体もスッキリする。
瞑想をすると意識がクリアになる。


しないよりはした方がましだろう。


だけれども、物や情報の消費者で居続けることをやめなければ
わたしたちは人生の大切な時間を消費と回復というサイクルに使い続け、
何よりも限りある地球の資源や自然を使い果たしてしまうだろう。


ゴミと情報の出所は同じだ。


注意喚起とイメージ操作。

「こうしないと危ない」「これは安全だ」と警鐘を鳴らし、
「これは優れた商品だ」「この商品を手にしたあなたの人生は素晴らしいものになる」と、わたしたちの自己イメージと商品を巧みに結びつける。


安全は確かに大切だ。
良いものをつくっても手にとってもらえなければ意味がない。

ではなぜ品質を厳しく管理し、表示をしないといけないくらい、不正なことをしようとすることが起こるのだろうか。

なぜそんなにも他のものと差別化をして物を売り続けなければならないのだろうか。

根底にあるのは経済成長が社会の目指すところとなった考え方ではないか。

経済的な成長をする国は良い国で、
経済的な成長をする会社は良い会社で、
経済的な成長を後押しする商品やサービスは良いものだ。

だから、作る。
だから、売る。

売るために作られたものは、売れた瞬間ゴミになる。
売るための情報が、リアルな世界にも、インターネットという半ば無限の世界にも撒き散らされ続ける。

役目を終えた人工衛星やロケットが宇宙のゴミとなり問題になり始めているけれど、地球はもうゴミでいっぱいだ。


日本はYouTubeに入る広告も他の国に比べて格段に多い。
それだけ広告を出したい人がいるのだろう。

たくさん作って、たくさん売って。売るためにお金をかけて。
それが経済の正体だとしたら、「経済的に豊か」であることを本当に誇ることができるだろうか。

世界はゴミと情報でいっぱいになり、
世界から静けさと余白は失われていく。

そんな中でわたしたちは、誰かにつくられた指標ではなく自らの心で美しさを感じる力を、美しさに気づく瞬間を、失ってしまったのではないだろうか。


日本にも世界にも、厳しい時代を生きた人たちがいた。

その日その日を精一杯生きて、そんな中、少しでも楽に暮らせるようにと便利なものを作って、世の中に広めた。

そんな時代を必死に生きた人たちが取り組んだことは間違いではない。
そのときに必死に生きた人たちのおかげでわたしたちの今の暮らしがある。

ただ、状況は変わった。

それぞれの時代を生きる人は、それぞれの時代において精一杯社会が良くなることをしているけれど、わたしたちは同時に大きな間違いをしているのではないか。

変わらない指標を使い続けていること。

かつての正しさが今の正しさでもあると思い続けていること。

それは、目の前に実際に広がる世界を見ずに目を閉じて、夢を見て生きているのと同じだ。


現実の世界ではなく画面の向こうの世界を眺め、
自分の人生ではなく他人の人生を見つめ、
ダイアローグ(対話)ではなくモノローグ(独白)をし続ける。


溢れるゴミと情報の中で、そんな風にして人生を消費する


気づくのは苦しい。
気づかない方が楽だ。

目をつぶれば、目の前の世界に、社会で起こっていることに何の疑問も抱かずに生きていける。

立ち上がったとしても、大きくなシステムの中で何もできない無力さに打ちひしがれるだろう。


それでももし、あなたがゴミの分別をするときに少しでも地球の未来を思っているのなら、あなたがサウナに入るときに少しでも自分自身を愛しんでいるのなら、もう少しだけ目を開いて、世界を見つめてみてほしい。

一年に一週間だけ咲く桜の花に愛おしさを感じるのなら、
毎日世界からやってくる贈りものを探してみてほしい。

どんな小さな行いも、そこに世界を深く見つめるまなざしがあれば、
世界は少しずつ静けさと余白を取り戻して、わたしたちはいのちを生きることを取り戻していけるはずだ。



バリ島のウブドで参加したライブで演奏された曲がとても美しくて、心の中にある景色と重なるものがありました。ぜひ聴いてみてください。


このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。