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「病気がアイデンティティ」の次の段階を目指す

メンタルヘルス系の病名は、アイデンティティになりやすい。

その理由はいろいろありセンシティブな面もあると思うが、
特にSNSでは、「こういう経歴の人です」とプロフィールに書きやすい要素として、病名はあると思う。

これが生活習慣病なら、そうではなかったかもしれない。
たしかに、メンタルヘルス系の病気は人生に少なくない影響を与える。
「闘病している、していた」というストーリーも含めやすい。

そのことを、決してネガティブに捉えているわけではなくて、
「苦労」という要素を、人が受け止めようと試みるとき、
病名というのは特に扱いやすくて、
心の収まりの良い概念なのだ
と思っている。
そして、「物事を受け入れる」段階の一つなのだと思う。

私も恥ずかしながら、SNSのプロフィールに病名を書いていた。
が、最近、そのプロフィール記載をやめた。
「次の段階」を考えると、必要だと感じるようになった。
(病気自体は寛解していないけれど)

確かに、SNSには病気の当事者としてインフルエンサー的に、
情報を発信する人はいる。
「当事者として自分の考えを多くの人に知ってもらえる」という面で
判断するなら、その方向性は確かに魅力的だと思う。
けれど、病名のアイデンティティーにこびりついている、
「何者かになる」という欲求は分析しておきたいと思った。

病気によって、当事者たる「何者かになる」。
そうではない方向を考えてみたい。

「なにかを捨てると、良い方向に形を変えて戻ってくるかもしれない」
という、下心がないわけではない。
ただ、病名のアイデンティティーとセットで頼っていた、物事の感じ方。
凝り固まっていたのがジワーと溶けるようなことが、
「次の段階」で起こる。
そんな気がしている。

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