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高校球児に届け「頑張り切った自分を手放さないで」

東京ヤクルトスワローズ正捕手、中村悠平選手が“おうち時間”に始めたインスタグラムに、高校球児へのメッセージを上げている。

当時の雑誌に載った写真だろうか。闘志むき出しで叫ぶ高校生のムーチョは、勇ましいがなんともかわいらしい、アオハルを野球に捧げる10代の男の子だ。
しかし、そのコメントは、懐古の甘ったるさとは程遠い、苦々しい痛みに満ちている。
以下コメントを転載する。

夏の甲子園中止。
とても残念で特に3年生はめちゃくちゃかわいそう。
自分だったら野球部やめてるかも。

色々と大変なのは分かるけど個人的にはプロ野球が開幕するなら甲子園も開催してあげてほしかったですね。残念です。
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自分だったら野球部やめてるかも。

東京ヤクルトスワローズは、キャッチャー抜きでは語れない歴史と伝統を誇る球団だ。このチームの捕手というものは、その継承者として常に厳しい環境と監視の目にさらされていて、そしてそこの正捕手に居座る中村は、相当“タフなヤツ”だ。
そんなムーチョの口から出た、弱音。でも、本音だろう。

そして私は、その“やめてしまった”こどもだった。

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小学5年生から始めたバスケ部。秋の陸上大会が終わり、冬の終わりから6月の地区大会までの4か月間活動する、変則的なミニバスケ部だ。
私は、足が遅かった。特に長距離は万年最下位。苦しいだけでなく、ゆっくり休む同級生の視線にさらされながらゴールする屈辱は、こども如きのプライドでもずたずたに引き裂いた。そして当然、3学期の体育は“2”だ。頑張っても決して報われることはないスポーツというジャンル。冬が嫌いな理由は、寒いだけではない。それでも私は、大半の女子が入るバスケ部に、当たり前のように流れるまま所属した。

バスケは楽しかった。覚えることが多く、できることも増えていく。マイボールに振られた番号は、荒木大輔の背番号「11」。練習、というより走ることは辛さしかなかったが、それでも時間はいつの間にか過ぎた。
練習は、おおまかに選手候補20人強とそれ以外に分け進められる。6年生になり、走れない私が何故だか選手候補組に入れられた。毎日出ていることのご褒美だろうか。
自分が選手候補組に入るなんてこと、考えたこともない。それを目標にしていたわけでもない。そもそも目標設定などしていなかった。そんな他者評価の意味が分からず、ただ動揺したまま練習に参加し始めた。もちろん、4軍だ。

苦しかった。笛と同時に「はい!」と2歩で止まり、体を反転させまた走るシャトルラン。バッシュの「キュッ」という床に擦れた音が体育館に響く。頭はぼーっとする。何も考えられない。何分続けているのか、何往復しているのか、まったく分からない。「声が小さい!」と喝が入る。やけになって「はい!」と叫ぶ。早く終われ。それだけを念じている。
終われば2人組になってパスダッシュ。相手の走る先にボールを投げる。相手がボールを投げた先に私が到達していなければならない。走る。また走る。
ドリブル練習は、フェイクを入れながら3人の障壁を抜き、シュート。体育館を目いっぱい使って、走る。ボールを取る障壁役の相手の手が伸びる。左右どちらか分からない。伸びた手の逆方向に体を動かし、本気で抜いていく。この障壁役になれれば、走らなくて済むのに。うらやましくて、恨めしかった。
練習が終わり、立ち上がれず、倒れ込んだまま、体育館の天井をぼーっと見る。これが青空なら、吸い込まれているのだろうか。ギャラリーの窓の外は、晴れていた。

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試合の日はやってきた。市内大会出場のための予選は、隣の小学校が会場だった。近隣4校による総当たり戦。わが校は3番目の実力。だが、“1強2分1弱”という勢力図で、「“2分”の試合さえ制すれば優勝も見えてくる!」、そんな状況でチームのモチベーションを保っていた。私は4軍のまま。ただ、“1弱”との試合は3・4軍が出ることになっている。心身の準備は万端だった。
1試合目は、その“2分” 校との対戦だった。いきなり正念場の試合だ。力は同等だった。両者一歩も引かない展開に一喜一憂しているうちに、あっという間に第4ピリオドを迎えていた。
相手の1点リード。時間はどんどん少なくなっていく。あと1ゴールで逆転。ボールはこっちにあった。いける。攻めろ!
その時、相手チームにボールを取られた。こっちは5人がゴール際に固まっていて、戻れない。ガラガラのコートを相手の選手がドリブルダッシュで戻る。追う。だが追いつかない。なんの邪魔もないクリアなゴール下から、ゴールはきれいに決まった。
終了1分前の致命的な失点。そのまま3点差で負けた。コートでは選手が泣きながらあいさつしている。私は固まり、それを見ているだけだった。その後、“1強”との試合も落とし、市内大会出場の可能性は絶たれた。

残るは午後の“1弱”との試合のみとなった。試合前に、全員集められた。円陣で先生の話を聞く。
「今日の試合、あゆみは出られない」
エントリーは20人。帯同は23人。私の他に2人、今日の試合には出られなかった。
おかしいと思っていた。朝、エントリー票を作っている先生が、選手に背番号を確認していく中、私だけ背番号を聞かれなかったのだ。「(背番号を)分かってるからじゃない?」と友人には言われた。実際、背番号を確認されなかったのは私だけではなかった。でも、嫌な予感はしていた。その予感は、的中してしまった。
「ごめんな」と言われたと思う。その瞬間に、涙があふれ、顔を伏せる。体育座りをしている膝と膝の間の床に落ちる涙。どんどんあふれてくる。止められない。周りの視線を感じているようで、周りがどんな視線を自分に向けているのか分からない。
試合直前で出られないと知り、人前でさめざめと泣く自分。「だったら最初から期待を持たせんな!」と静かに怒る自分。試合に出もしないのに、いっちょ前にユニフォームだけ着ている自分。ミスした3軍の選手に「私だったら、私が出ていたら!」と思ってしまった自分。全てが認められなかった。ここにいたくない。ただ、それだけだった。

小学校の卒業アルバムの、バスケ部の集合写真に、私は写っていない。たまたま都合で早退した日に撮影したらしい。正直、助かったと思った。苦い経験にしかなっていないバスケ部の写真に、どんな顔で写ればいいのか。笑顔なんて絶対に作れなかった。でも、その場にいたら「私はいいから」とも言えなかっただろう。逃れられたことにほっとした。

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それからの私は、なんとなく「頑張り切る」ことができないこどもになってしまったと思う。

バスケ部終了と同時に振り分けられる、陸上部と水泳部。私は、親が幼少期にスイミングスクールに通わせていたことで、水泳は人並み以上にできた。夏は大好きで、体が重くても浮力に任せて水の中にいられるプールが大好きだった。水泳部への進路は毎年、迷うことなく決められた。
クロール50m出場枠2を、私を含め3人で争う形になった6年生最後の夏。私は3番手だったが、三者の実力は拮抗していた。一度だけ、2枠に食い込むタイムを出したことがある。ただ、そこからさらに追い込むことはしなかった。私が3番手である以上、それが自然な形のように思えた。結果、個人出場はできず、フリーリレーの一人としての出場で、大好きな水泳の夏は終わってしまった。
私は、泳ぐ練習はしていても、ライバルを蹴散らす努力はしなかった。

頑張ってはいたが、頑張り切ってはいない。

そういうことなのだと思う。
その後の自分を思い返してみると、中学高校の部活動も、高校受験も、私は自分でできる範囲のことだけをして過ごしてきたと思う。友に恵まれ、学校に行く毎日は楽しかった。ただ、自分の成長はどうだったか。頑張れることにしか頑張らない。そんな10代だったと、振り返ってみて認めざるを得ない。頑張り切ることの経験は、苦手な“走ること”に果敢に挑み頑張り続けた、あのバスケ部の日々が最後なのかもしれない。

たかだか11歳。だが、その心は傷ついていた。
今の私が、11歳の私の傍らにいて、その傷ついた心にしてやれることはあるだろうか。
それは、今私が、甲子園の夢を絶たれた高校球児に思いを馳せることと同じように思う。
もちろん、状況は違いすぎる。ほんのひとつの小学生の日常と、将来が決定するかもしれない、なにより何年も青春の日々を野球に注いできた高校球児とでは、苦悩のレベルが違う。
ただ、この11歳の経験と、人生で初めて向き合って思うこと。それは、

頑張り切った自分を手放さないでほしい。

ということだ。
甲子園出場は、もう果たせない。チャレンジもできない。
我武者羅に突っ走ってきて、人生立ち止まるのも今が初めてかもしれない。ただ、立ち止まったついでに、そのまま後ろに振り向いてみてほしい。そこには、野球から逃げなかった、野球を頑張り切った自分がいるはずだ。
卒業アルバムに写っていない自分を見てほっとした私のように、頑張り切った日々を手放さないでいてほしいと、そう思うのだ。

急に消えてしまった目標に、何もできなくなっているかもしれない。
何をしなくてもいい。だけど、悔しさで握ったその拳の中にある、頑張り切った自分を手放さないで。野球をそのまま持っていて。

野球がまだ、君の手の中にあるうちに。この願い届け。

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