見出し画像

名作コラム・牧野信一「西瓜喰う人」 ~自己は他者、他者は自己~

 久々の名作コラムは、これまた久々の日本の作品から。坂口安吾を見出した事でも知られる、知る人ぞ知る大幻想作家・牧野信一作品を取り上げたいと思います(・ω・)ノシ
 その中でも「西瓜喰う人」「吊籠と月光」の2作品から劇的に幻想作品に重点を置いて創作していきますが、今回は前者の「西瓜喰う人」を紹介していきますね。

 物語の内容は、語り手の”余(B)”と、ぐうたら作家の”滝”の田舎暮らしで、余が滝の筆不精を不安に思っている、と言うのを日誌として綴った文章になっています。
 ……と、書くと日常を描写した一般的なリアリズム私小説やエッセイ風小説かと思われますが、そこに序盤から不思議な文章が紛れ込んできます。

(註。この文の筆者であるBは滝と同年で三十一二歳の理学士である。そんな称号は持つてゐたが今では彼は、別段専攻の科目は持つてゐない、彼は、これから自分の一生の仕事を新しく定めようと迷つてゐる男だつた。)

 の一文が作中に紛れ込んできます。註釈ではありますが、実はこの一文がメタ小説の要素を徐々に帯びていく要素になっていきます。
 そもそも小説の註釈や欄外などは、作中の語り手や登場人物よりも上位の、作家&編者の言葉でありまして、後にナボコフも註釈で物語を進める「青白い炎」を書き上げています。
 牧野のこの作品は、この挿入される註釈が徐々にプロットに食い込み始め、物語の核心部分を語るのは、”語り手のBではなく註釈”という形式で終わるのです。

~~~~~
 しかし、この作品の奇妙さは単純にメタ小説である、という点では説明し切れません。
 無論、牧野の描写の上手さもあるのですが、Bが滝を観察する文章をよく読むと、常に一緒にいるだけでは説明のつかない描写が見られ、物語の核心も、
<Bが滝の日常を記した日誌を、毎晩書き写したものが滝の小説であり、その全貌を知ってるのは(註~)を語る真の著者牧野>
と、実は3人の書き手の共作作品であり、それぞれの描写が混じり合ってると読み直すうちに気付いてきます。
 最初はBと滝が、観察する&観察される形式の小説かと思わせておいて、実は個人の私小説的な日常描写を、”観察者としての人格を分裂させて”書いた”観察”そのものをテーマにした実験的な多重人格小説、と言えると思います。

~~~~~
 「西瓜喰う人」、このタイトルは初期の活動写真(無声)で、単純に物語もなく西瓜を食う人や、「煙草を喫してゐる人」とか、「笛を吹く人」とか、「駈る馬」とか、「演説をしてゐる人」とか、「黒板に画を描く人」とか、何かをしている場面をただただ流しているものが多く、牧野信一(この場合は作中のB)も、ただただそういう描写を日記や小説に書き留めるのが好きだった、というネタバラシをしています。

 この物語の題材は、牧野の創作の日常です。しかしながらそれを”観察&メタ構造”に絞って、拡大デフォルメしていくと、リアリズム私小説から幻想メタフィクションに姿を変えます。
  事象として、突飛な事や奇怪な事が「起こらない」としても、特定の要素を拡大縮小する事でフィクショナルに、奇妙な味へと変貌していく代表的な作品だと思いますね。
 では今宵はこのへんで(・ω・)ノシ

自作の創作、コラム、エッセイに加えて、ご依頼のコラム、書評、記事等も作成いたします。ツイッターのDMなどからどうぞ!