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21.カテドラル 事実は小説より奇なり

 1184年から着工、1204年頃まで初期が形造られ、その後世紀を超え拡張が続き様式としては初期ロマネスクからゴシック、マヌエル、バロックと歴史の層を見事に成す。こうした建築の年輪はカトリック教会の見本のようなところでもある。
 メインハザードは要塞のようで無粋と表現されることもあるが、リスボン大聖堂と似ているやわらかな花崗岩は夕暮れの陽射しを受け、寧ろ堅牢さよりも時代から町を守っている強さがやさしとして現れとても美しかった。
*17のハザードに木陰が映った写真参照

 中世ポルトガルで最も大きな大聖堂と云われる通り、私がどれほど後方に引いても中々全景が収まらず近辺の建物がどうしてもフレームに入ってしまう。

 教会よっては写真撮影を禁止するところもある。観光施設ではなく「祈りの場」であることを考えると、このカテドラルが世界遺産に登録されている背景があっても異論はない。内部写真は写真家が撮ったものを後でどのようにもも見ることが出来るが、自身の目で見る時間は限られている。であれば自身の内なる印画紙に鮮明に焼き付けることを優先したい。必然、私の場合は旅行中外観だけの写真も多くなる。
 教会内は外観の印象とは大きく異なり光溢れ荘厳。

 1582年、天正遣欧少年使節派遣。多くの人には日本史の一部に過ぎない。
 当時13~14歳の4人の少年らがイエズス会と共に日本使節としてローマ教皇に謁見するために赴く。
 今、書いた概略程度は卒業後も記憶にある。けれども、実際にこのカテドラル内にあるパイプオルガンを伊藤マンショと千々石ミゲルが弾いたことがどうしても結びつかない。あまりにも時間の海が深い。
 現代に生きる私たちでさえ10数時間も飛行機に乗り日本からリスボアへ着き、更に其処から内陸に在るEvoraへ鉄道で2時間近くかけて移動してきた。
 1582年、彼らのヨーロッパ訪問はタイムトラベルに近かったに違いない。
 紙と木で出来た日本家屋から堅牢な石造の街へ訪れる。カルチャーショックどころではなく、見るもの何もかもが未来に飛んだようであっただろう。
 可哀想に4人はタイムトラベルの後は、帰国後浦島太郎状態で後のキリスト教禁教令の為に人生を翻弄される。
 長崎にあったセミナリオで学んでいた彼らが、ポルトガル リスボアから同じようにエヴォラに移動したのが1584年9月。この時、彼らはこのエヴォラに8日間滞在し大司教の歓待も受けている。
 長崎のセミナリオは訪ねたことがある、現在は歴史の波に削られ「跡」になった。一方Evoraのカテドラルは歴史の波を受けながらも今に「在る」。
 数百年経て同じ9月に訪れ、点と点を結ぶ。

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