人工感情
第1話 Run
歯車はその目に涙を浮かべたり、泣き叫んだりしない。恐らく苦悩を抱えることもない。乾いた段ボールや緩衝材の擦れる音がガサガサと話しかけてくるこの職場で、ゴウゴウと鳴る機械の一部に俺はなりたかった。小さな倉庫に置かれた荷物を淡々と箱に詰めて送り出すこの仕事は、感情を消したい俺に向いていた。
15年前の2047年、俺が11歳のとき、「大脳辺縁系の機能障害を抱えた患者に対する医療を目的とした大発明」として、とある発表があった。それは人間の感情が生成されるプロセスを機械で再現した、いわゆる「人工感情」であった。
人工感情はそれを脳に埋め込むことで、目や耳等の感覚器官を通じて外部から受け取った刺激をもとに感情を算出して出力できるようにする、脳の一部を肩代わりする装置であると開発者は説明した。
ある者はその開発者を、医療の大きな進歩に貢献した英雄として讃えた。
しかしある者は、「感情という非常に人間的なものを機械に置き換えてしまうなんて倫理に反する」と批判した。開発者は自らが生み出した人工感情について、「あくまでこれは、患者がとれる選択肢のうちの1つである。救いを求めて伸ばした手を振り払う権利は、少なくとも我々にはない」と発表した。
「洲崎君。もう時間だから戻って大丈夫だよ。あとやっとくから」
上司の佐中さんが声をかけてくれる。恰幅の良い体型とこちらを最大限気遣った声色。
「ありがとうございます」
「さっき他の人出た時に正面閉めたから、休憩室で待っててね。裏から出るから」
「了解です」
いまや人工感情は、義足や義手、ペースメーカーと同等のものとして認識されるまでに、社会に浸透した。俺が毎日を淡々とやり過ごしている裏で、人工感情はそのメリットを示してみせた。人工感情を必要とする患者自体がそこまで多くないために、決して人数が多いとは言えないが、それでも確かに患者を救ってみせている。一方でデメリット、社会に対する副作用も確かに存在する。
休憩室に戻ると、小さなテレビに〈サルベージ〉のニュースが映し出されている。人工感情はあれからも改良、進化を続け、その種類を3つにまで増やした。
3つ目の人工感情が〈サルベージ〉であり、恐怖や不安といった負の感情を排除する機能を持つ。3つの人工感情のうち最も規制が厳しいのはこのサルベージで、余命宣告が下されるような重い病を患っていない限り、使用が認められていない。
「男は人工感情の一種であるサルベージを違法に使用した疑いがあり、きのう午後2時半ごろ警察官が通報を受け、駆け付けた際に、警察官に対しても暴行を加えたとして……」
しかし一部では違法ドラッグ的な位置づけで蔓延しているというのが現状である。俺は、感情で周囲の人間を害する奴らは嫌いだ。好奇心で石をひっくり返し、ワラジムシの住処を荒らしてしまったのなら、そこにほんの僅かであっても罪悪感を覚えるべきだ。軽率に他者の領域を侵害する人間、自分勝手な好奇心で他者に不利益を及ぼす人間が一人もいなければ、俺の家族は幸せに暮らせていたはずだ。
ロッカーの扉を静かに開き、荷物の出し入れが最低限出来る程度の角度で止める。半ばその陰に隠れるようにして帰りの支度を整え、全員が揃うまで暇をつぶす。全員と言ってもここは小さな倉庫である上、今日は特に少人数だったはずだ。正面から帰った人もいるらしいから、後は俺を含めて3、4人くらいだろう。働き始めてからしばらくは、休憩室の小物を見ていればすぐに時間が過ぎたものだったが、今となっては興味を惹かれるものなどなかった。なんでもない所に目をやっていると、休憩室の扉がキィと音を立てて開いた。
「お疲れ様です」
最近入ってきた大学生で、確か名前は穂上詩織と言っていた気がする。他の仕事に比べてコミュニケーションをとる機会が少ないため、あまり深く知っているわけではないが、少なくとも会話を極端に避けるタイプではなさそうだ。
「お疲れ様です」
こういう時、話題を振るのはこちらの役目なのだろう。
「穂上さんは仕事、慣れてきました?」
「はい、おかげさまで大分。まだ迷惑をかけてしまうこともありますけど……」
荷物の整理をする手をわずかに止め、ほんの少し身体をこちらへ向けて彼女は言った。そこまで気心が知れたわけではない相手との会話において、こういった正解の返答はこちらとしても対応しやすくてありがたい。というか、入った時期を考えると穂上さんはかなり覚えが早くて要領も良い方だと思う。
「良かったです。何かあった時はどんどん聞いてもらって大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
少し頭を下げた彼女の、荷物を支えていた手が緩む。その瞬間、彼女のリュックサックから何かが落ちた。カシャ、という軽い音を立てたそれは、見覚えのある音楽CDだった。ジャケットには、黒地の上から油絵のようなタッチで数本の木々と星空が描かれている。
「それ、メドウライトの?」
CDを拾い上げ、傷がついていないことを一通り確認してから渡すと、彼女は目を輝かせて力強くそれを受け取った。
「知ってるんですか?」
「俺も昔からよく聞いていたので。そのアルバム」
「メドウライトの中でも『Telescope』は名盤ですよね!曲一つ一つも素晴らしいですけど、やっぱりアルバムとして一連の流れを感じながら聞いたり、背景にあるエピソードを知ったりすると更に引き込まれるっていうか——」
彼女の語り口からは興奮がひしひしと伝わってくる。自分と彼女の間にある境界線をぐいと押し込まれるような感覚。
「けど、久々に聞きました。そういう話」
「ああ、確かにマイナーになりましたよね。でもどんなに小さくてもそれを話せる場所はなんとかありますし、ギリギリって感じですね……」
こうして誰かと好きな音楽の話をするのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
「お疲れさま~」
休憩室の扉が開き、佐中さんが上着をたたみながら入ってくる。今にも扉から剥がれ落ちそうな「こまめに電気を消す」の張り紙がバタバタと揺れる。
「全部鍵閉めてきたから帰ろうか」
階段を降りて裏口へ向かうと、佐中さんは「先に外へ出て良いよ」というようにドアの方を手で示した。そしてセキュリティ関係の機械を操作し、扉をおさえていた俺に軽い礼を言って裏口を施錠した。
「じゃあ、お疲れさまでした~」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした!」
俺が駐輪場に向かおうとしていると、穂上さんがこちらへ小走りでやって来る。
「洲崎さん、次の日曜って空いてますか?」
第2話 LD to ST
「15時に駅の南口、改札前集合でお願いします」
たしか穂上さんはそう言っていたはずだが、今は14時55分。別にまだ約束の時間ではないのだから来ていなくても変ではないのだが、少し不安になってくる。11月の秋風が落ち葉を巻き上げる。ああしてかき混ぜられてしまえば、葉自身もどの木から落とされたか分からないだろう。落ち葉の行方を見守っていると、横断歩道の先に知った顔が見える。
「どうも、洲崎さん」
少し早足で横断歩道を渡ってきた穂上さんはニヤリと笑い、「セーフ」と言わんばかりに時刻が表示されたスマートフォンを見せつけてくる。まぁ、別に数分程度遅れてもかまわないのだけれど。
「それより、俺は何の用で呼ばれたんですか?」
「あぁ、CDショップですよ。前から気になってはいたんですけど、一人で行くより楽しそうだったので誘ったんです。ほら、行きますよ」
そう言って、穂上さんは改札へ向かう。どんな用件にしたってあらかじめ伝えて欲しい気はするが、俺が誘われた理由には合点がいった。
ここ数十年で音楽は、というより従来の音楽は、衰退してしまった。あっさりとしたものだった、そう聞いている。脳が快と感じるものだけを人工知能がかき集め作り上げた、いわゆる「最適化された曲」がその終わりを告げた。
無論、「そんなものは音楽ではない、狂的な刺激を与えるだけのドラッグだ」と声を荒らげる者も居て、現在の音楽業界は彼らによって細々と営まれている。中にはそういった趣味的で非合理的な、人間の思考が介入したものこそ芸術であるという主張もあり、それらの曲は「嗜好品」的な色を増しつつある。
俺も、そして恐らく彼女も、その嗜好者の一人だ。
「そういえば洲崎さん、下の名前聞いても大丈夫ですか?」
「圭です。でも、洲崎の方が呼ばれ慣れているので、その方が助かります。……穂上さんは、メドウライト好きなんですよね。どの曲が好きですか?」
恐らく正解の質問。今の状況からしても親密度からしても、不自然ではなくて互いの領域を比較的侵犯しない、弁えた質問だろう。
「えーっと——」
ふと、車内のモニターに映し出された映像広告が目に入る。
『コンマ数秒先の未来を』
視覚処理速度向上手術の売り文句らしい。街を歩くと、嫌でもこの広告を目にすることになる。押しつけがましいことこの上ない。人工感情の理論を応用した技術の1つで、確か広告には、「プロバスケットプレイヤーもこの手術を受けています!」みたいな文言があった気がする。
よく分からないがシビアなんだろう、スポーツの世界というのは。
「あの、聞いてないですよね。さっきから」
彼女は続けて問いかける。
「何か気になるものでも?」
「いや、広告が……」
「自分で聞いておいて、ですか?」
「…………すいません」
「ふふ、まあ良いです」
彼女が微笑むのとほぼ同時に電車が止まり、音を立ててドアが開く。
「ここで降りますよ」
軽やかな足取りでホームへと降り、人の間をするりと抜けて改札に向かう穂上さんの後に続く。階段を少し早足に登り、彼女の横につける。
「えっと、結局好きな曲って……」
穂上さんはしばらくの間考え込み、改札を抜けて少し歩いた所で、おもむろに立ち止まった。振り返って穂上さんの方を向くと、彼女は笑って
「決めました。洲崎さんが敬語をやめてくれたら、教えてあげます」
そう俺に告げたのだった。
第3話 Black-box
「これ、やっぱりエレベーターで上れば良かったんじゃないですか?」
そんな文句を言う俺と対照的に、コツコツと軽やかな音を立てながら階段を登る穂上さんはどこか上機嫌に見える。
「全然だめですよ!せっかくの歩道橋なのに、それだと魅力半減もいいとこです」
よく分からない……いや、正直分からなくもないが、子供みたいなこだわりがあるんだな……。俺は膝に手をやりながら登っていく。
「というか、結局敬語外さないんですね」と彼女は続けた。
「ああいや、あまり気にしないでください。たいした理由があるわけではないので」
正直、これには俺も悩まされている。他人の領域に極力踏み込まないようにという考えがぐるぐると肥大化していき、自分が規則に従うのではなく、規則が自分を従えているのが現状だ。敬語を外さないことで何が守れているのか、もはや俺自身にも分からない。
「見えます?向こうのレンガみたいな壁の店……花屋さんの隣です」
穂上さんは手すりに寄りかかって歩道橋から少し身を乗り出し、遠くに見える小さな建物を指差す。
「あれがCDショップですか?」
彼女が手を滑らせてしまいそうで気が気で無いながらに、俺は答える。
「そうです。じゃあ行きますよ!」
そう言うと、彼女は勢いよく腕を伸ばして跳ねるように体勢を戻し、髪を揺らして走り出した。一瞬あっけにとられた俺は、階段を一段飛ばしに降りる彼女を慌てて追いかける。階段を降りきったところで気づいたが、CDショップまでの距離は歩道橋の上で想像したよりも少々遠いらしい。アスファルトを踏みしめるスニーカーは、出番とばかりに摩擦音を鳴らしているものの、彼女との差は徐々に広がっていく。走るのは久しぶりだが、普段多少の力がいる仕事をしている自負があったので、こうも体力の差を見せつけられると少しショックだ。
横っ腹がピキピキと痛み、肺に取り込まれる空気が徐々に刺刺しくなってきたあたりで、レンガタイルが貼られた壁の前に到着した。窓はあるが黒いカーテンが掛かっており、中は確認できないものの、穂上さんが数十秒前、先に店へ入っていくのが見えた。呼吸を整えてから重い扉を開けると、ドアベルが高い音で鳴った。存外に広い店内は、暖かい色の照明に照らされてダークブラウンの棚が立ち並んでおり、嫌味の無いアンティーク調といった感じだった。しかし店員は見当たらず、そこに居たのは穂上さんだけだった。
「お、洲崎さん。ここ落ち着いていて結構良い雰囲気じゃないですか?……後ろのそれが無ければ」
振り返ると、そこには一組の防犯ゲートがあった。これとセルフレジさえ置くだけで人件費を抑えられるため、最近はこういったタイプの店がほとんどだ。しかし、この防犯ゲートが雰囲気を損ねていると言われれば、それを否定することはできないだろう。彼女への同意として、俺は小さく苦笑した。
「向こうで会計すれば良いみたいですね。盗んだら確実に捕まりますけど、これって結構絶妙なバランスで成り立っているシステムじゃないですか?」
穂上さんは口元に手をやりながら笑う。まぁ、同感だ。
棚と棚の間には所々に壁掛けのCDプレイヤーが設置されており、その横にヘッドホンが鉄製のフックで掛けられている。一通り店内を見て回った後、とりあえず近くにあったCDを取り出し、プレイヤーにセットする。そういえば昔、CDを裏返して再生しようとして、父さんに止められたことがあった。CDとレコードが別の物だということはそのとき知った。
ヘッドホンをつけて再生ボタンを押そうとしたその時、どこかから「うわっ」という声がしたのと同時に、店内が突如として暗転し、暗闇の中にドタッという物音が響いた。厚いカーテンのせいか、外からは一切の光が入ってこず、俺達は暗闇の中に放り出された。手探りでヘッドホンを戻し、携帯のライトを点ける。
「穂上さん?」
恐らく先程の声は穂上さんのものだと思うが、何かあったのだろうか。よく耳を澄ませると、小さなうめき声が聞こえてくる。壁伝いにそちらへ向かってみると、棚の間にある少し引っ込んだ壁際、その頼りないセーフティゾーンで穂上さんはうずくまっていた。小走りに彼女の元に駆け寄り、しゃがんで様子をうかがう。
「大丈夫ですか、穂上さん」
懸命に膝を抱え込む彼女はこちらに気づいた様子で、体の震えを懸命に隠しながら、小さく頷いた。
「怪我は?」
「……いえ……大丈夫です」
ひとまず安心といったところだろうか。安堵のため息をつき、原因は何かと周囲を一通り照らしてみる。
すると俺が原因を見つけるよりも早く、不意に照明が点いた。店の時間は何事もなかったように動き始める。感覚が鋭くなっているのだろうか、店内の静寂がやけに引き延ばされて感じる。
バタン。
どこからかドアの閉まる音が聞こえてくる。
コツ、コツ。
続けて足音。ドアベルが鳴っていない所からすると、店の入り口からではなさそうだ。
徐々に近づいてくる足音に神経を尖らせている俺の前に、音の主は黒いエプロン姿で現れた。
第4話 →0
「大丈夫ですかぁ?」
どこか気の抜けた問いかけに、俺たちは肩透かしをくらってしまった。エプロンには「羽宮」の刺繍がしてある。俺は軽く膝に手をやって立ち上がり、穂上さんに手を貸す。
「まぁ、大丈夫です。……店員さん、ですか?」
おそるおそる尋ねる俺にその人は、
「はい、ここの店長をしています。羽宮です~」
とエプロンの刺繍を両手でピンと伸ばして見せてくれた。てっきり店員はいないものだと思っていたが、この人はどこから現れたのだろうか。
「いや~急に電気が消えたから、びっくりしましたよ~」と笑う羽宮さんは、くるくるとカールしたミルクティー色の髪に手をやりながら、視線を穂上さんへ向けた。
「すいません……私が間違えてスイッチ押しちゃったからですよね……」
羽宮さんの視線に促され、バツが悪そうに斜め下を向いた穂上さんは、停電の原因が自分にあることを認めた。棚の上段に手が届くよう置かれた踏み台の近くには、照明のスイッチらしき物があった。大方、バランスを崩した拍子にあれを押したのだろう。
照明が消えた理由が明らかとなり、一旦保留になっていた疑問が再び湧き上がってくる。羽宮さんについてだ。この店員には得体の知れない点が多すぎる。第一、男か女かですら分からない。それよりも不可解なのは、羽宮さんがどこから現れたのかという点だ。俺も店全体をくまなく見て回ったわけではないが、人がいれば流石に気がつくはずだ。
「あの、羽宮さんってずっと店にいたんですか?」俺は聞いてみる。
「……」
羽宮さんは首元に手をやって、何やら考え込んでいたが、ややあって観念したように切り出した。
「一応、居ることには居ましたぁ。向こうの、セルフレジの奥にカウンターがあったの分かりますか?正確には元カウンターで、今はカゴを置いてワゴンコーナーみたいにしてあるんですけど……。実はあの下に隠し階段があって、そこから地下に行けるんです。僕、普段はそこに居るんですよ。いくら無人化してあるとはいえ、店の管理をする必要はあるので~」
カウンター下の隠し階段、それならあの時ドアベルが鳴らなかったのにも納得がいく。
「そこに監視カメラのモニターもあるんです。そこまで注意深く見ている訳じゃないんですけど、急に真っ黒い画面になったので、怪盗でも来たのかと思いましたぁ」
羽宮さんはそう言って、黒いハイネックの襟元を弄りながら笑う。何というか、不信感を抱いていたのが申し訳ない位に優しそうな人だ。
「あの、洲崎さん、そろそろ……」と穂上さんが気まずそうに口を開く。
「すいません、疑うようなこと聞いてしまって」
「ふふっ、気にしないでください、疑わしいのは事実でしたから。では、ゆっくり選んでいってくださいね~」
そう言うと羽宮さんは軽く会釈をし、カウンターの方へと戻って行った。人が見ているかも知れないと思うと、何となく落ち着かなくなってしまうもので、俺たちは1枚ずつCDを買い、CDショップを後にした。
店から出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「洲崎さん、夜ご飯食べましょう。私、ナポリタンが食べたいです」
穂上さんはそう言って、俺の返事を聞くよりも先に歩き始めてしまった。
第5話 Order(const exp)
穂上さんに連れられて入った喫茶店で、俺はカルボナーラを頼み、彼女は宣言通りナポリタンを注文した。届いた料理は大分ボリュームがあるように見えたが、穂上さんは「いただきます」と言うと、グルグルと大きな一口分をとって、それを勢いよく口に放り込んだ。俺もカルボナーラをフォークで巻き、ベーコンを軽く刺して食べる。
しばらくして、穂上さんは水を一口飲むと、
「そういえば前から気になってはいたんですけど、洲崎さんって仕事の休憩時間中に何も食べてないですよね。お腹空かないですか?」と切り出した。
「一応食べてはいますよ、おにぎりとか。他の人がいないときに食べているので、見たことないかもしれないですけど」
俺の返答に、穂上さんは少しの間釈然としないというような表情を浮かべた後、
「他の人がいないときにっていうのは、意識的に……ですか?」と尋ねてきた。
「……なんていうか、他人に食事を見られるのって、自他の境界線を踏み越えられる感じがして、少し苦手なんです。二人で食事している今、言うことではないかも知れないですけど……」
この思考の渦から抜け出せるなら、パスタの美味しさだって、俺はいらなかった。締め付けられるような感覚から目を背けるためなのか、あるいは彼女との間に再び境界線を引くためなのか、俺は勢いのままに言葉を続けた。
「俺、オーダーを使いたいんです」
3つある人工感情のうち、2番目に開発されたのが〈オーダー〉である。オーダーの最大の特徴は、感情の出力を行わないという点にある。正確には、感情を算出して結果を脳に伝えようとするところで、オーダーはその情報を捨ててしまう。するとこれを組み込んだ人間は一切の感情を感じ取れなくなる、いわば感情における安楽死。
本来オーダーは、1つ目の人工感情の配線を大雑把に焼き切っただけの違法改造品であり、粗悪品をつかまされた結果誤作動を起こして死に至ることもあった。しかしオーダーを実装したがる人間の数は増え、国としても何らかの手を打たざるを得なくなった。そこで、この人工感情を合法化、さらにプログラムを書き換えることで安全性を向上させた。それに加えて、オーダーを実装した後の人間を差別等のいざこざから遠ざけるため、とある区画にひとまとめにして住ませることを必須条件とした。
俺たちの間に、しばらくの静寂が流れた。俺も穂上さんも、この沈黙の中で息を潜め、発言のステージ上に飛び出すのを躊躇っていた。彼女は小さく息を整えると、覚悟を決めたように静寂を打ち破った。
「どうして、それを私に言ったんですか」
振り絞るような声。
「分からないです。こういう衝動が、吉と凶のどちらを運んでくるかは知りません。ですが、良くない方向に転じる可能性があるなら、そこに至るまでの恐怖心を、あるいは根本の衝動を断ち切ってしまえば良い。オーダーなら、それができるんです」
紛れもない本心だった。他人との境界線を引こうとしていた自分が、他人にこんなことを打ち明けている。それが矛盾しているのも分かっていた。
「……洲崎さんに、話しておきたいことがあります。私は、昔からナポリタンが大好きです」
俺には、彼女が何を言おうとしているのか、全く想像がつかなかった。そして穂上さんは、フォークでピーマンを端に寄せ、一気に口に放り込むと、薬でも飲むように水を流し込んだ。
「でも、ピーマンはずっと嫌いです。昔から、ずっと変わらず。……ところで、大人になると苦い物が食べられるようになる理由、知ってますか?」
俺は彼女の求める答えが分からず、首を横に振る。
「昔は、苦味を感知する味蕾が、成長とともに減少するからだと言われていましたが、これは誤りと証明されています。現在は、『成長につれて、本来忌避される味である苦味が安全だと学習しているからだ』というのが通説です。……回りくどい言い方になっちゃいましたね。私が苦味を克服できない理由、それは、
私が〈プレーン〉を使っているからです」
第6話 Plain(const exp)
〈プレーン〉。15年前に医療用として開発された最初の人工感情。実装以前の記憶をデータベースとして感情の算出と出力を行う、自己中心的な好奇心による発明。穂上さんは、誰よりも当事者だった。
「14歳の時、脳に機能異常が起きて、お医者さんに『このままでは君の感情は野放しに、制御不能になる』と言われ、プレーンを組み込みました。私の感情は、その時のままです」
何も言えなかった。先程までの自分の発言、その浅はかさを指摘されている気がした。穂上さんはそんな俺を見て、何やら焦った様子で、
「そんなつもりじゃなくてその、組み込んでいる者として、お役に立てるかなと思ったんです」と続けた。
「……穂上さんは、俺に言っても良かったんですか。プレーンのこと」
「いいんです。洲崎さんの事情だけ打ち明けさせるというのは、不公平な気がするので。それに今日、照明が消えたとき助けてもらいましたからね。暗い所、ピーマンより苦手なんです」
穂上さんは冗談めかしてそう言った。
「とはいえ良いことの方が多いですし、感謝してるんですよ。自分は何が好きで、何が苦手か、それがある程度分かっているわけですから、ある程度コントロールも利きますし」
お互い、これ以上深く人工感情の話をすることはなかった。それは、俺がこれ以上他者の領域を踏み荒らしてはいけないと思ったからであり、穂上さんも、自分から押しつけるような形になるのを避けたからだろう。とっくに食べ終えていた料理をテーブルの端に寄せて会計を済ませ、俺たちは帰路につくこととなった。
道中、俺と穂上さんの足音が、借り物のようにぎこちなくばらばらに、会話の後ろで静かに響いていた。
翌日、いつものように倉庫で働いていた。いつになっても月曜日は憂鬱なものだが、そんな感情は関係ない。俺は月曜日だから働いていた。そういうシステムになるために。
〈オーダー〉の区画をニュースで一度見たことがあるが、あれは都市の形をした機械だった。地域一帯が大きな工場のようにうごめき、各人が効率的に動く。もちろんそこに感情はないが、故に予想外の恐怖や驚き、悲しみもなく、誰からも侵害されない。そういった意味で、俺が求める安寧はあの場所にあると、そう確信できた。
今朝、佐中さんに「穂上さんがオーダーを使っているという話を知っていたのか」と聞こうとしてやめた。この事実を今まで俺が知らなかったのは、人に知られないための振る舞いをしてきたからに違いない。
仮に佐中さんが上司という立場上、それを知っているとしても、秘密は秘密として管理されるべきだ。だから俺がとるべき行動はいつも通り淡々と作業をこなすこと、あくまでいつも通りがベストなはずだ。とはいえ、当の穂上さんは体調が悪いらしく、ついさっき「早退します」と言って、帰りの支度をするため休憩室へ向かってしまった。
指定された物を段ボールに詰め、箱を閉じてテープでとめる。機械が住所ラベルを貼るためのバーコードを付けて、それをベルトコンベアに乗せる。この繰り返し。いつも通りの仕事、人生の経過日数に1を加えるという満ち足りた幸福。俺は、これでいいはずなんだ。
ガチャン。
暗転。照明が一瞬にして消え、コンベアが減速していく音がする。今日は豪雨だったから、雷でも落ちたのだろうか。
「皆大丈夫?様子見てくるから、各自で機械のスイッチオフにして、その場で待機してください。焦らなくて大丈夫なので、よろしくお願いしまーす」
無線を通して聞こえてくる佐中さんの声。蛍光シールを目印に懐中電灯を手に取り、モニター、ベルトコンベアと順にスイッチを切っていく。周囲からも同じような音が聞こえてくる。
今の俺が何より気がかりだったのは、停電の原因でも復旧の目処でも無く、穂上さんのことだった。
懐中電灯と記憶を頼りにして、休憩室までの道のりを慎重に、しかし足早に進んでいく。
ようやく辿り着いて扉を開けると、懸命に安心できる場所を求めたであろう穂上さんが、ロッカーと壁、休憩室にあった座布団で三方を塞ぎ、あの時の様に体を震わせて縮こまっていた。
第7話 Black-box→0 //terror
プレーンは、実装以前の記憶をデータベースとして感情の算出と出力を行う。故に、実装時点で感情の基準が固定され、同じ入力に対しては同じ出力を返す。穂上さんのプレーンは、暗闇という入力に対して、恐怖という出力を今も返し続けている。
「穂上さん……!」
彼女に安心をもたらすのに、懐中電灯の明かりは少々心許ない気がした。ふと思い出し、冷蔵庫の中から取り出したペットボトルを組み合わせて、即席のランタンを作る。彼女の前までそれを持って行くと、震えは大分おさまったようだった。
「穂上さん、大丈夫ですよ。ゆっくり息を吐いてください。大丈夫です」
彼女を落ち着かせようというのに、俺が焦っていてはいけないだろう。これは、俺自身への言葉でもあった。
ふと穂上さんの手がこちらへ伸び、俺は彼女の正面へ、ぐいと移動させられた。数瞬して分かったのだが、恐らく彼女は「どんな脅威が襲ってくるか分からない未知の空間」との間に壁が欲しかったのだと思う。
ほんの数分か、はたまた数十分か。あやふやな時間が過ぎ去り、休憩室に光が戻る。急に眩しくなったので、俺たちは二人して目を細める。もとの明るさに目が慣れた頃、廊下から聞き慣れた足音がしてドアが開く。
「お、二人ともここにいたの。大丈夫?」
電気を消した懐中電灯と鍵束を持って、佐中さんはあくまで普段通りという感じだった。
「すいません、待機って言われたのに……」
「いやいや!というか、ありがとうね。安心したよ」
直接言葉にはされなかったが、穂上さんのことだと分かった。停電について聞こうとした時、先輩の中澤さんがこちらへ小走りにやってきた。
「佐中さーん。非常電源ですけど、多分UPSの方を業者さんに頼まないとちょっと……」
腕まくりをして軍手を付けたままの中澤さんは、今回の原因らしいことを佐中さんに報告し始めた。しばらく二人は話し込んでいたが、どうやら事が落ち着いたらしく、備品を元の場所に戻し終えて手持ち無沙汰だった俺たちに、佐中さんは声を掛けた。
「雷で機械が落ちちゃって、復旧にかなり時間がかかるみたいなんだよね。ちょっと早いけど、今日は一旦上がってもらって良いかな?」
かくして俺達は、半ば追い出されるようにして勤務を終えた。外に出た頃には、雨足も多少弱まっていて、帰れなくはないといった感じだった。正面口まで来て、穂上さんはどこか放心状態にあり、傘を持ったまま何もないところをじっと見つめていた。
「穂上さん、大丈夫ですか?」
「…………はい」
穂上さんの返事はその意味を乗せきれずにふらふらと落ち、表情からもかなり無理をしているのが窺えた。
「駅まで送りますよ」
「電車、止まってるみたいで……」
「——ウチなら、雨がやむまでいて良いですよ」
自分でも不思議な、それにしては自然と出た言葉だった。今までの俺なら他人を家に招くなんて行動、絶対にしない。彼女が今欲しているのはセーフティゾーンのようなものだろうから、彼女を助けるという意味では当然ともいえる判断だが、それ以上に自室は、明確に定められた自分の領域、他者の介入から限りなく完璧に逃れられる俺自身のシェルターだ。その境界を曖昧にしてしまえば、これ以降の生活における安寧を手放しかねない。
二人の足音は雨音と、互いの足音と交差して、俺達は液体が重力に引きずられるようにずるずると家へ向かった。
第8話 Reboot
あんなに騒がしかった雨も、ひとたび室内へ入ってしまえば途端に関係の無いこととなる。扉で断絶された空間は外で起きているあらゆる事象から切り離され、認識上、世界の最大単位として機能し得るというのは、証明するまでもなく明らかだ。
「ありがとうございます。大分落ち着いた気がします」
彼女という来客があっても、その真理は揺らぐことがなかった。シェルターはシェルターのままで、そこに身を委ねることを当然のごとく許してくれた。先日大量に買いためてあったココアスティックを2本ずつ開けてお湯を注ぎ、それを二人で飲んでいると、穂上さんの深刻な表情は幾分か和らいだようだった。
「昔、お母さんがこうしてココアを入れてくれたことがあるんです。……私は、いつまでも過去の感情の再現に振り回されて生きていくんでしょうね。暗いところだって、私本当は怖くないんです。でも、怖いんです」
理性と感情の不整合。
インターネットで噂程度に聞いたことがあった、プレーンの副作用。
前も似たようなことを穂上さんから聞いたことがあったが、自分の感情を司るのが自分自身でないとしたら、自分の意思とは関係なく騒ぎ立てる者が居たら、どれだけ気味が悪いだろう。
「洲崎さん。前に『Telescope』の話をしたこと、覚えていますか?あのとき『背景にあるエピソードを知ると更に引き込まれる』みたいなことを言った気がしますが、あれ、嘘です。背景を知っても、ライナーノーツを読んでも、何も変わりません。普通の人ならそうなのかなって、借りてきた言葉を喋っただけです。助けてもらっているのに、わがままかも知れません。それでも私は……私になりたい——」
それは間違いなく、穂上さんから出た言葉で、叫びで、願いだった。人工感情がどれだけ人を救っているとしても、彼女の苦悩を生み出しているのが人工感情であることに変わりはない。
俺が彼女の気持ちを完全に理解することはできない。突き放すようだが、本来他人とはそういうものだ。しかしその上で、俺は彼女に救われて欲しかった。他人を切り捨てることが自由であるなら、幸せを願うことだって自由なはずだ。
「穂上さん、俺は、人工感情の開発者を知っています」
今の彼女を前に無視を決め込むことは、俺にはできなかった。
「洲崎大介。人工感情をつくったのは、俺の父です」
息を深く吐いて、吸う。決意を固める時間は、それで十分。
「どんな惨めな思いをしても……信念を曲げても、俺は、君を助けてみせる。こんなの、間違っている」
「……信念を曲げても?」
「穂上さん、これはその場しのぎの詭弁やデタラメじゃない。俺は無責任な約束をできるタチでは無いけど、少なくともこの件に関しては絶対を約束してみせる」
「——ありがとうございます」
そう言った直後、彼女の眉がほんの少し上がる。何かを思いついたときの癖だ。
「それなら、穂上さんなんて他人行儀じゃありませんか?」
彼女は笑う。
「そのお願いの方がわがままだと思うよ。…………穂上」
これは穂上が自分を取り返すまでの記録である。
第9話 sudo
倉庫2階の事務室、佐中さんの机に有休届を置いて、俺はしばらくの間休暇をもらうことになった。不規則に生じる休みを避けていた俺の有給休暇は、たまりにたまっていたようで、佐中さんは快く承認してくれた。
決まった時間に働き、決まったことをする。その繰り返し。時間が進むくらい当たり前の日常を、平穏を、俺は今まで享受していた。時計の針が進むことを確認できればそれで良かった。特別な出来事なんていらなかった。
だが安穏な日々でさえも、維持する努力を求めてくる。意地の悪いことだ。
階段を降りて休憩室の荷物を取り、「こまめに電気を消す」と書かれた張り紙をテープで貼り直す。そうして俺は倉庫を出た。
それからの日々は、今までの俺にとって異質なものだった。朝から晩まで〈プレーン〉について調べ、穂上と似た状況にある人の解決策が無いか探す。この生活を始めた頃は、平日でも職場に行く必要が無いということにすら違和感を覚え、適当に散歩をしてそれを紛らわすほどだった。それほど定型化された生活が染みついていたということだろう。
図書館、インターネット、知り合い、あらゆるものを使った。しかし、一般に公開されている情報は限られており、ましてや医療器具としての人工感情を用いたデータなど、病院のカルテをのぞき見でもしなければ出てくるはずがなかった。
途方に暮れた俺は、最後の手段を実行することにした。つい先程「あらゆるものを使った」と言っておいて何だが、最も効果が見込める方法を俺は唯一試していなかった。というのも、その方法は最も効果的であると同時に、最も厄介な方法だからである。
洲崎大介。
自己中心的で他者への迷惑を顧みない、人工感情の開発者。そして、俺の父親でもある。
両親の離婚は父さんが引き起こした。既に人工感情の開発が始まっていた十数年前、俺が確か小学校中学年ぐらいの頃の話だ。父さんはそのときから研究にばかりのめり込んでおり、家にもほとんど帰ってこないというのが日常だった。母さんは家庭に目を向けない、興味すら持っていない父さんに嫌気が差し、離婚を要求した。
引き金が引かれた後は悲しいほどにあっさり事が進み、父さんは「研究に集中できるなら別に良い」とそれを受け入れた。人工感情が完成したのはその3年後である。せいせいした、と言わんばかりの輝かしい功績だ。
俺はそれ以降、父さんと会っていない。
理由の1つは先程言った通り単に会いたくないから。
もう1つは、彼が住んでいるのが〈オーダー〉の区画だからである。とはいっても父さんはオーダーを使っておらず、父さんが先んじて住居を移した後、そこにオーダーの区画が作られたという経緯らしい。恐らく開発者としての伝手か何かで、予め情報が入っていたのだろう。
面倒なことに、オーダーの区画に入る際には、その目的を述べて公的な許可を得る必要がある。目的というのは、例えば報道だとか、設備点検だとかである。オーダー使用者との接触は基本的に認められておらず、個人的な目的で区画に踏み込める者は少ない。
しかしありがたいことにその件は既に解決しており、つい先日母さんから連絡先を聞き出し、父さんに「話があるから直接そちらに出向きたい」という旨をメールで伝えたところ、「俺の側から圭を招いてそれに応じるという形式であれば問題ないだろう」と返信が来た。
正直気は進まないが、穂上との約束がある。この際、手段を選んではいられないだろう。
俺は父さんに頼ることにした。
第10話 Background
11月の末、俺はあの〈オーダー〉の区画に、思ってもみない形で足を踏み入れることになった。心なしか区画の中は、室内であっても区画外に比べて気温が少し低いような気がした。それもそのはず、オーダー使用者は「寒い」という感情が無いため、健康状態に問題がない程度の気温であれば暖房を付ける必要が無いのである。喫茶店の空調を見上げながらそれに納得していると、父さんはやって来た。
「久しぶりだな、圭」
そう言うや否や、彼はドカッと椅子に腰を下ろし、コーヒーを机に置く。
「十数年ぶりだからね。悪いけど、こっちは父さんの事ぼんやりとしか覚えてないよ」
「ハハハ!そうかそうか!」
少しは傷つくかと思ったのだが、父さんは存外に楽しそうだった。積もる話がないわけではないが、それよりも優先すべき事が俺にはある。
「相談したいことがあって呼んだんだ。父さん人工感情作っただろ、〈プレーン〉」
「ああ、やっぱりそれのことか。何かあったのか?」
父さんは机に両肘をつき、前のめりになって聞いてくる。
「……あれ、実装より前の記憶を基に感情を生成するだろ?それのせいで困っている人が居てさ。どうにかならないのかなって聞きたかったんだ」
俺がそう言うと、彼は体重を後ろにやって椅子に体を預け、
「それかぁ~。申し訳ないけどそれ、あんまり興味無いんだよ」と言い放った。
「…………は?」
興味が無い?解決策が思い当たらないとか、仕組み上難しいとかではなくて、興味が無い?こいつは、どこまでいっても自己中心的で独善的な興味本位主義者だ。穂上のことを蔑ろにして、まともに考える素振りすら見せずにそう答えたこの男に、腹の底から湧き上がるような怒りを覚える。
しかし、助けが必要なのはこちら側だ。もはやそれですら腹立たしい気がするが、舌先までせり出した罵倒の言葉を俺はなんとか飲み込んだ。
「……興味が無いっていうのは?」
「いや、正確には興味が無いっていうより、もっと興味があることが多すぎる。さっき圭が言っていたプレーンの課題は把握しているし、別の所から頼み込まれもした。でも、『他にやることが多すぎてこっちじゃ抱えきれない』って断った」
「えっと……それで、実際に解決できる手段はあるの?無いの?」
「気になるのか?」
「ああ、だからここに来てる」
「興味があるのか?」
「……そうかもしれない」
「ハハハ!だったら自分で考えてみると良い。考えるってのは大事だ、何より楽しいしな!」
父さんはそう言うと、小さなUSBメモリを机の上に取り出した。
「俺が呼ばれる用件なんて、どうせ人工感情だろうって思って用意しておいた。この中に入っているのは、〈プレーン〉のソースコード、仕様書及び設計書、後はちょっとしたオマケもつけてある」
「——渡して良いの?詳しい内部構造って、公表されてないはずだけど」
「ハハハ!ダメに決まってるだろ!だからこうして手渡ししたんだ。それとも、いらないのか?」
「いや、ありがとう、助かるよ。……にしても、どうしてそこまで?」
余計なことを言うのが躊躇われるほどに都合の良い話だったが、それでも疑問を押しとどめることができず、俺は尋ねる。
「——ずいぶん昔のことだ。覚えてないだろうが、お前が懐中電灯の光を捕まえようとしていたことがあった。紙くずが入っていたくずかごをひっくり返して、壁に灯した光の上にかぶせようとしていた。当然、光はくずかごの上にすり抜けてしまう。そりゃそうだ。本当に捕まえるためには、懐中電灯の方を捕まえなくちゃいけない。子供ってのは大概そうだが、昔のお前も例に漏れず好奇心の塊だった。いや、もっと正確に言えば、圭は好奇心そのものだった。そういう所が戻ってきたんだと思ってな——」
父さんは壁の時計に一瞬目をやった後、コーヒーを一気に飲み干して立ち上がり、
「せっかくの機会だから、そういう心のままに見つけてみれば良いんじゃないか。鍵は未知を追い求める心にあるものだ」と言って去っていった。
そのとき不思議と、洲崎大介が俺の父だということ、それを理解できた気がした。
第11話 Key=?
帰宅した俺は、早速USBメモリの中身を見てみることにした。中に入っていたのは〈プレーン〉のソースコード、仕様書、設計書。ここまでは父さんの言っていたとおりだ。あともう1つは確かオマケと言っていたが、パスワードロックがかかっていて開くことができない。
それにしても、これを渡されて俺に何ができるというのだろう。穂上を助ける方法。プレーンの副作用に対する解決策。どちらにせよ、今与えられている情報を確認する必要がある。俺はまず、動作の仕組みについて知ることにした。
設計書によると、大まかな仕組みはこうだ。
まず、脳の記憶領域から記憶とそれに対応する感情を読み出す。次に、それらを基に実装者の感情判断基準を学習する。そして、現在与えられている外的刺激と判断基準を照らし合わせ、感情を生成する。
ソースコードを見ても、このような手順で動いていることは間違いなさそうだった。言われてみれば当然なのだが、記憶領域として使用しているのがあくまで脳であるというのは意外だった。やはり、脳に相当するだけの記憶領域を限られたスペースに用意するのは難しいのだろう。
続いて仕様書に目を通すと、こちらには〈プレーン〉の機能・性能が記してあった。機能のほとんどは俺も知っている、一般的に認知されているような情報だった。しかし、唯一知らなかった機能の存在が目に飛び込んできた。
「特殊音声パターンによるプログラムの書き換え——?」
何らかの問題が生じた際の対応手段として、プレーンにはプログラムの書き換え機能が実現されていた。これを用いれば、手術による物理的干渉をすることなく、人工感情の内部処理に変更を施すことができる。父さんが俺にUSBメモリを渡したのは、この機能があるからだろう。
しかし、問題は「特殊音声パターン」である。プログラムの変更を行うには、制御開始音声、ソースコード音声、制御終了音声の順で構成された音声ファイルを実装者に聞かせる必要がある。つまりこの機能を使うには、ソースコードを特殊な音声パターンに変換しなければならない。そこで必要になるのが、先程パスワードがかかっていたソフトウェアということらしいが、当然パスワードは教えられていない上、桁数や使用可能な文字種に至るまで、一切の手がかりが無い。さらにキーボードで文字入力を試みても、打ち込んだ文字とは無関係な文字列が入力されていくのである。
父さんにそれとなく聞こうとしたが、「必要なことは全て教えた」の一点張りだった。もし仮に知っていたとして、証拠が残るような受け渡しはできないということなのだろう。
とりあえず俺は、手を付けられるところから進めることにした。プレーンの問題点を解決できるプログラムの発案とソースコードの作成。
つまり俺がやるべき事は、「新たな人工感情の開発」である。
第12話 return ST
「そういえば洲崎さんとは約束がありましたね。私が好きな曲は——」
新たな人工感情の開発は、正直言って難航していた。気概はあるものの、解決方法が浮かばないことにはどうにもならない。思考が鈍重になっていくのを感じた俺は、大学の試験期間に入ったらしい穂上からの連絡を受け、気分転換にあのCDショップを訪れた。
チャット画面を見ながらずらりと並ぶ棚を進み、目的のCDを取り出す。
「私が好きな曲は、メドウライトの『Curious』です」
送られてきた画像とジャケット写真が一致しているのを確かめ、セルフレジで会計を済ませる。
そのまま店を出ようとした時、カウンターの方から「バタン」と音がして、振り返るとそこにはあの店員が立っていた。
「どうもお久しぶりです~」
「お久しぶりです。えっと、羽宮さんでしたよね」
エプロンの刺繍を確認して答える。一体何の用事なのか不思議に思っていると、羽宮さんはそれを察したように、
「あ~、別に大したことではないんです。ただちょっと、知っている方がいらっしゃったので嬉しくなってしまって~」と笑う。
「ハハ、あの時は迷惑をおかけしました……」
俺がそう言うと、羽宮さんは体の前で「いやいや」と手を振り、
「——『Curious』ですか。面白いものを買いましたねぇ」と続けた。
「面白いもの、というのは?」
「そのシングルには、メドウライトの音楽に対する姿勢が色濃く表われているんです。あ、今お時間大丈夫ですかぁ?」
むしろこういった気分転換のための時間なのだから、ありがたいくらいだ。俺はうなずく。
「——1960年代、サイケデリック・ロックというものが流行しました。ドラッグによって引き起こされる幻覚を再現したロック音楽ですね~。このブームはたちまち世界中に広まり、多くのアーティストが、こぞってこのジャンルの曲を作っていたんです。あくまで、音楽という芸術の探求を目的としてですけど~。ですが、メドウライトはこの流れに反発したんです。ドラッグを狂的な刺激として嫌ったメドウライトは、純粋な知的好奇心のみで音楽の探究を行ったそうで、そうして作られたのがその『Curious』というワケです~」
「なるほど。……つまり、向き合い方としては今の人達がやっている音楽に近いってことなんですね」
それを聞いた羽宮さんは、一瞬目を大きく開いて嬉しそうに笑い、
「そういうことです!いや~すいません、引き止めてしまって。この前一緒に来られていた方にも、ぜひよろしく言っておいてくださいねぇ」と俺を送り出したのだった。
第13話 Key=Curious
部屋の窓や扉を締めきって外界を遮断し、学生の頃から大切にしているラジカセの電源を入れる。CDをセットし、再生ボタンを押す。カチ、という音がして数秒後、曲は流れ始める。
このCDに収録されているのは2曲。1曲目はこのシングルのタイトルにもなっている『Curious』、2曲目は『Imaginary Cradle』である。
実のところ、俺はこの曲を聴いたことがあった。
俺が昔住んでいた家には大量のCDがあり、それはたまに帰ってくる父さんが、保管場所に困って置いていくものだった。曲が進むにつれて、自分の中にあった想い出を中心に、懐かしさがじんわりと広がっていくような感覚があった。
音が、揺らぎが、部屋全体に広がる。その揺らぎはスピーカーから発されているようでありながら、自分の内から湧き起こっているようでもあった。心臓の鼓動を意識した時、自分の体がそれに合わせてわずかに脈打っているのに気づかされることがあるだろう。その鼓動が、小さな宇宙を満たしていくのを感じた。
1曲目、『Curious』が終了したその時。部屋の中にできた静寂は、思いもよらない恩恵をもたらした。帰宅した際に何となく立ち上げておいた、特殊音声パターンへの変換ソフトが動作を始め、ソフトの右下にダイアログボックスが表示される。
「正しいパスワード音声を確認しました」
俺は何が起きているのかすら分からないまま、変換ソフト内にあった「各種説明」のタブを開く。
「本ソフトウェアは、人工感情内部のソースコードを書き換えるためのものであり——」
続く文章にざっと目を通すと、それらしい記述が目に入った。
「認められていない者の使用を防ぐため、本ソフトウェアを開く際にはセキュリティパスワードが必要となります。セキュリティパスワードは音声入力となり、これは特殊音声パターンから文字列への変換、すなわち本ソフトウェアに実現されている変換機能の逆変換を用いて文字列へと変換されます。そして、入力受付時間内に正しい音声パターンからなる文字列が確認できた場合、本ソフトウェアは動作を開始します」
長ったらしい説明だが、要するに俺は、意図せずしてこのパスワードを突破したということになる。恐らく、『Curious』の再生によって。そういえば父さんは「鍵は未知を追い求める心にある」と言っていた。あれでヒントのつもりだったのか。
ここへ辿り着いたのは全くの偶然だが、一切の手がかりが見えなかった問題は、穂上の助けによって解決した。こうなれば話は単純で、俺は俺の役割を果たすのみ。
後は時間との勝負、半月ほどあった有給休暇期間は残り1週間程度になっていた。無論この期間を終えたところで仕事に戻るだけだ。しかし「自分より社会の役に立つこと」と「社会より自分の役に立つこと」、この2つを両立するのは難しいだろうから、そこを目安とするべきだろう。
問題は〈プレーン〉のデメリットをどうやって解消するかだが、それについてはとある手法が浮かんでおり、あとはソースコードを書くだけ。
冷蔵庫には大量の食料とカフェイン飲料がしまってある。
後はただ、頑張るだけ。
最終話 Curious(exp)
12月10日、大学の試験を終えて身軽になった穂上がインターホンを押す。
「久しぶりですね。……顔色悪くないですか?」
「ハハ、大丈夫だよ。まぁ上がって」
心なしか血の巡りも悪いし、何となくだるい感じもある。ここ最近座りっぱなしだったからだろうか。
しかし、それは大した問題ではない。
「——穂上、完成したんだ」
「……人工感情が、ですか?」
ローテーブル上に並べられたエナジードリンクの缶をゴミ袋に放り込みながら、穂上は答える。不安の上から期待をかぶせて誤魔化したような声。仕組みを一切話していないのだから当然だろう。
「説明しないとな。そこのソファ、座ってて」
パソコンをローテーブルの方へ持ってきて、穂上に見せる。表示されているのは、〈プレーン〉の副作用を解消するべく新たに開発した人工感情、〈キュリアス〉についての説明を行うスライドだった。
「この説明のために?マメなんですね」
「訳が分からないままじゃ、穂上が安心できないだろ?」
穂上は「確かに」と呟き、再び画面に目をやった。
「まあ新たな人工感情と言っても、基本的な部分は〈プレーン〉と変わらない。……今まで穂上が使っていたプレーンの問題点は、理性と感情の間にズレを生むことだった。あってるか?」
「はい。作り上、仕方が無いことだと聞きました」
「そうだね。だから〈キュリアス〉は、それを解消できる仕組みで作られている」
スライドを進め、具体的な仕組みが示された図を順に表示する。
「今までとの違いは、〈キュリアス〉実装以降の記憶を取り込めるようになっている点。ここに尽きる。そもそも〈プレーン〉は実装時点の記憶領域に印を置いて、それ以前の領域を読み出すようになっていた。対して〈キュリアス〉は記憶領域に置いた印を、新しい記憶がやってくる度に更新していく。すると感情判断基準には実装以降の記憶も含まれることになり、理性と感情の間に生じるズレを無くすことができるってワケだ」
「……お~。作ったんですか?これを?」
俺が興奮気味にうなずくと、穂上は先程よりも大きな声で「おぉー!」と拍手する。俺は自分でも不思議なくらい照れてしまって、
「とはいえさっき言ったようにベースは〈プレーン〉だから、俺がゼロから考えたのは『ブックマーク法』っていう記憶読み出しの基準点を制御するアルゴリズムくらいなものだけどね。あとは実際に基準を動かすプログラムを追加したことくらい」と付け加える。
「いやいや凄いですよ。そういえば、どうやってこれを私に組み込むんですか?」
「あぁ、それはちゃんと方法があって——」
人工感情内部のプログラムは特殊音声で書き換えられることを穂上に説明する。とりあえず、不安を拭えたようで良かった。
「つまり、私はこのヘッドホンを付けていれば良いんですね。……これって寝ていても大丈夫ですか?ギャリギャリした音、苦手なんですけど」
「人工感情側に音声パターンが伝われば良いはずだから、大丈夫だよ。……俺も一回聞いたけど流石に聞くに堪えなかったから、寝ておいた方が良いと思う」
「もし失敗したらどうなります?」
「〈プレーン〉の音声パターンもあるから、いざというときはそれで戻すよ」
「——安心しました。じゃあ早速!」
ヘッドホンを持ってベッドに寝転がった彼女は、パソコンをつなぐよう要求する。最初から感じてはいたが、大分思い切りが良いんだよな、穂上詩織は。
「あの、無音だと寝られないので、何か流してくれますか?」
俺は『Curious』が入ったままになっていたラジカセを操作し、『Imaginary Cradle』を再生する。寝る前にはちょうど良い曲だろう。
「買ったんですね、私が前に言ったCD」
「ああ、いろいろと助けられたんだけど、その話はまた後でするよ」
「……洲崎さんって、あと3日くらい有休残ってましたよね。遊びに行きましょうよ。新しい人工感情のチェックも兼ねて」
「そうしようか。ナポリタンでも食べに行こう」
——しばらくの間、俺達の間に静寂が生まれ、その上を曲だけが漂っていた。
「あの、最後に一つ良いですか?」
「なに?」
「何で『ブックマーク法』っていう名前なんですか?」
「…………恥ずかしいから、黙っておこうと思ったんだけど、だめかな?」
「だめです。このままじゃ、安心して眠れないかもしれませんね~」
「……『しおりが前に進めるように』って事だよ」
それを聞くと、彼女は満足したようにヘッドホンを付け、眠りについた。