『蜚語』第16.17合併号 特集 原爆——極東支配から世界へ、アメリカのもくろみ。(1996.2.20)
【表紙は語る】
もの言わぬは腹ふくるるの業
冬になると駅のそこかしこのポスター、電車の吊り広告には、スキー場の情報が満載される。駅構内に置かれた旅行パンフレットも半分ぐらいは、スキーパック。やがて、スキーを抱えた人々が行きかう。私も昔、2~3回は行ったことがあるスキー。
はじめて行ったのは高校時代。その方面では有名な老舗の白馬「御岳山荘」の娘が東京の私立高校へ来ていた。親戚の家に滞在していた同級生の、その子が帰省する春休みにちゃっかりご一緒させてもらった。次は、30代になって、勤めていた会社の社員旅行が、なぜかスキーだったのだ。その程度で、私のスキー体験は終わった。
何年か前、地下鉄に貼ってあったスキー場のポスターを見て、愕然としたことがある。それはここに示したような、そのスキー場がいかに素晴らしいものであるかの宣伝だった。何の気なしに描かれている、雪に覆われた山のイラスト。しかし、それはほんとうは見るも無残な山の姿ではないか。 昨年9月、所用で長野県へ行った際、白馬方面を経由して帰京した。あの鬼無里から白馬へ抜ける感動の小さなトンネル、天気がよければトンネルを抜けるやいなや、目前に白馬栂池連峰のそれは美しい山並みを見ることができる。真青な空に映える、かすかに山頂が白い、それはそれは大きな山々だ。この山々が美しいのは、遠景だからである。あいにくその日は暴り空で、何も見えなかったが……。 トンネルを抜けて麓へ下れば、この山がスキー場だということがわかる。雪のない季節は、銅褐色の山の斜面に鉄塔が何本も立ち、乗る人のいないリフトが風に揺れている。本来ならば、草木が生い茂る夏。さまざまな生きものたちのすみかであったはずの山々は、工事現場のような風景だ。 さらに冬季五輪のせいで、その風景は奇っ怪なものとなった。「ジャンプ競技」と板切れに書かれた矢印の方向へ道をたどると、山の麓に広がった農村の実りつつある稲の向こうに、SF映画に出てくる何かの発射基地のような、巨大なものが出現した。あれは一体なんだ! と思わず叫んでしまう、ジャンプ競技台。これが、ここにしかいないという蝶が食べる植物を、地元の小学生まで動員して他のところへ移植して建設した代物か……と、見上げる。 1998年にたったの2週間だけ行なわれる冬季五輪、終わったらこれらの施設はどうするのだろう。そういえばボブスレーなどという競技のための施設も、終わった後は、自然破壊だけを残すことになりそうだという。 趣味がスキーとゴルフなどと、平気で書く国会議員の推薦を、平気で受ける区議会議員候補がいくら市民運動で知りあった人でも、私は協力しない。でも、それを応援する市民運動が掲げる環境保護って……?
特集 原爆——極東支配から世界へ、アメリカのもくろみ。
かつて日本が起こした侵略戦争の責任と戦後補償をめぐって、さまざまな問題が起こっている。史上最初で唯一の、原爆を実戦使用したアメリカ合衆国では、昨年、スミソニアン博物館での「原爆展」が、在郷軍人会の抗議で中止になった。また、《きのこ雲切手》が発行されそうになったり、エノラゲイの飛行航路を再現する催しが計画されたりもした。広島・長崎への原爆投下は、正当な行為だったか否かと、いわゆる「原爆論争」を引き起こした。
スミソニアン博物館では、エノラゲイの展示に抗議する人びとが、抗議行動を展開し、逮捕された。また、アメリカン大学では、被爆2世の日本人留学生の活躍によって、独自の「原爆展」が開催され、シンポジウムなども開催された。原爆投下は正しかったというのが、アメリカ合衆国での大方の意見だと聞くが、広島・長崎の惨事をアメリカ国民は、私たちが思っているほどには知らされていないようでもある。
次のような文章も目にする。文章全体としては、戦後民主主義のいい加減さを指摘したつもり? なのだが、こんなふうに比喩として引き合いに出されては、被爆者もうかばれない。
このような文章を目にすると、ほんとうに気持ちが暗くなる。被爆者は、決して戦後民主主義を声高には叫ばなかったろうと思う。なぜならば、戦後民主主義の恩恵を受けてはこなかったのだから。とりわけ被爆後10年あまりの間、被爆者は2重にも3重にも、社会から疎外され、苦しめられてきた。いまもなお……。
かつて植民地支配をした国の人びとが、日本の侵略よって負わされた被害に対する謝罪と補償を要求している。しかし、日本の政府は、侵略の実態を調査し、誠実な対応を取ろうとしていない。謝罪どころか、何人もの閣僚が、侵略を正当化する発言を繰り返している有り様だ。それに対して、韓国の「ハンギョレ新聞」に、上に掲げたような風刺漫画が載った。この内容に象徴されるような「原爆観」は、韓国ではやはり多数の意見かも知れない。
韓国の街を歩けば、年配者が流暢な日本語で話しかけてくる。しかも、親切に道案内をしてくれる。かつて日本に行ったことがあると、昔を懐かしむように話しながら……。こんなふうに誰もが日本語を話せるなんてと、あらためて植民地支配の恐ろしさを思う。
韓国の長閑な田園地帯をバスで走る。これらの野山を、私の祖父母や父母の世代、日帝の軍隊はどんなふうに荒らし回ったのだろうか。彼らは、この異国をどんな思いで見ていたのだろうか。他国に踏み入ることに、疑問は持たなかったのだろうか。そんなことを考えながら、混雑したバスの中、身の縮まる思いで、ぐったりと疲れてしまう。
誰が、戦争を望むのか。誰が戦争を始めたのか。それによって苦しむのは誰か。さらに、人びとはどうしてこうもたやすく、国家が始めた戦争に動員されてしまうのか。これらの基本的な問いかけと歴史的検証を、忘れてはならない。「加害国」対「被害国」といった対立を喜ぶのは、戦争を始めた者たち、常に戦争を準備している者たちだ。
『さだ子と千羽づる』を出版する上で、終始つきまとっているこのような問題について、著者グループとともにこれからも、追求していく必要がありそうだ。
一昨年の夏に「さだ子と千羽づる』を出版し、昨年の夏にはそれを、韓国語に翻訳して出版した。英語版も予定していたが、この特集でふれたような事情により延期されている状態である。また、韓国ソウルでの原爆展をめぐっても、その受け止め方などさまざまな問題が噴出している。
この後に続く、山口泉さん、SHANTIの湯浅佳子さん、大野由貴子さん、酒井菜々子さんおよびオーロラ自由アトリエの遠藤京子の文章は、英語版の翻訳があと一歩で完成するという昨年の初夏、その最終的な作業の過程で起こったことを、パンフレットにしたものからの転載である。あらかじめ予想されてはいたものの、『さだ子と千羽づる』英語版制作にあたって直面した出来事は、SHANTIにとって大きなショックだったようだ。他に発表されたものの「転載」ということをしないのが、『蜚語』の基本的な編集方針であるが、パンフレットは2~30部しか作らなかったので、『蜚語』の読者の方はほとんど読んでいないこと、また、このことは『さだ子と千羽づる』翻訳問題にとどまらず、今後もずっと、オーロラ自由アトリエの課題となる要素を含んでいることから、『蜚語』の「特集」として紹介し、今後、さらに論議を深めていきたい考えている。
絵本『さだ子と千羽づる』英語版の制作過程で起こったこと
その西洋人はおよそ次のようなことを言った。日本語で書いたものは、日本人に読ませるためのものだから、世界では通用しない。日本語は気持ちだけで書けるが、英語は合理的である。英語は今ではイギリスやアメリカだけのものではなく、アフリカでもアジアでも、世界中で使われている。
彼にはなぜ、英語がアフリカやアジアで使われているのかといったことには考えおよばないようで、英語は世界の言葉、日本語で書かれたものは、日本人が読むためだけのもの、したがって英語と日本語は立場が違う、といったようなことを繰り返すばかりであっこ。
私は日本語が曖昧で、非合理的だなどとは思わない。それはその言葉を使う人間の問題、日本の官僚的な、お役所仕事の中で使われてきた言葉がそうなのであって、あるいは、何かを誤魔化そうとする場合にそう使われてきたにすぎない。しかも、われわれは日本語でものを習くときに、とりわけ日本人に読ませるためだけのものとして、意識して書いているわけではない。彼の言い方では、日本語では何かを論ずることさえできないし、日本語で書かれたものは、非合理的で、矛盾があり、読むに値しないといわんばかりである。
絵本『さだ子と千羽づる』の外国語版を出すにあたって、SHANTIおよびオーロラ自由アトリエは、翻訳をいわゆる本業の翻訳家に依頼することはしたくなかった。なぜならば、自分たちがこの絵本に託した気持ちを、翻訳にたずさわる人に直接伝えたかったからである。また、意味や感情が、ごくわずかでありながら、相当に隔たった感じを与えるような違いを、どのように表現するのかといったことを、翻訳者と話し合う場が欲しかったということもある。
その上で、今年、被爆50周年にあたって、私たちが最初に選んだ外国語は「朝鮮語」と「英語」であった。それは日本がかつて侵略した国の人々にも読んで欲しいとの思いから、まず朝鮮語、アジア・太平洋の複数の国々で読むことができるのではないかということで、「中国語」を来年に回して、英語を選んだのだった。
朝鮮語の翻訳は、現代語学塾という朝鮮語学習集団の人々が、それはそれは親切に、丁寧に、翻訳とそれに付随するさまざまな仕事を引き受けてくださった。問題は英語への翻訳だった。
在日アメリカ人で湾岸戦争に反対する示威行動などにも参加するような人物に依頼し、あらかじめ絵本を送った。3月下旬、彼はそれほど時間はかからないだろうと言って、引き受けた。ところが、5月の連休が明けても全く手がつけられていなかった。その後1週間ごとに3回延ばされて、結局もう限界と判断し、こちらから断わった。できないのならば、もっとはやく、しかもはっきりそう言って欲しかった。彼が単に不誠実なのか、上記のような行動をとるような人でも、原爆に関しては、関わりたくないとの思いがあったのか、分からない。ただし、すべてはそこから始まった。時間がない。
次に、関西在住だが、英語を使っている第3世界といわれる国の人に、時間がないことを伝え、お願いした。とりあえず絵本を見ていただくということで、送っだ。そのときの話では、本人に時間がなくても、ほかに何人か仲間がいるので、なんとかなるのではないかということだったので、絵本を数冊送って検討してもらうことにした。しかし、数日後、こちらの計画の時間があまりにも短いということで断わってきた。計画変更ということも想定しながら、時間がある程度あればお願いできるかどうか打診したが、はっきりした答えはなく、ともかくできないとのことだった。
一方、3月初め、滋賀県立八幡商業高校の英語教師から、昨年の秋に広島平和記念資料館の売店で『さだ子と千羽づる』を見つけ、彼の授業で英訳に挑戦したとの手紙が来ていた。そこには生徒たちの卒業制作として対訳のかたちで小冊子にしたものが、各クラス分1冊ずつ同封されていた。 SHANTIにはフェリス女学院大学英文科の学生が何人かいるし、中学・高校とアメリカで過ごした者もいる。まして、SHANTI 結成を呼びかけた湯浅佳子は、アメリカの学校や教会で1年間、日本文化の紹介やヒロシマ・ナガサキ、サダコの話をしてきたではないか。私は、彼らに自分たちで訳してみてはどうかと提案し、各自分担しての翻訳作業が始まった。高校生の訳も参考にさせていただきながらの仕事だった。
予定は切迫していた。授業の他に家庭教師や蕎麦屋の給仕や娯楽施設の場内係などのアルバイトの時間をぬって、分担した翻訳文を持ち寄って検討のために集まった。時には深夜にまでおよび、泊まり込みの作業になることもあった。作業は難航した。日本語の原文を制作したときに検討に検討を重ねた表現を、どうすれば納得のいく英語にできるか、しかし、納得のいく英語とはいったいどのようなものなのか? 何が正しい英語なのかといった論議が続いた。英語の表現について、ああでもないこうでもないと論議になり、なかなか訳文が決定できない。高校生の訳したものは6学級分あり、それぞれ違った表現を用いている。稚拙だが分かりやすい。また、なかなか良い訳だと思う部分もあるが、これは違うとか、絶対におかしいと思うような訳文もある。しかし、SHANTIより若い世代のこの絵本への取り紐みを大切にしたいという気持ちもあり、6学級すべての訳文を比べて、もっとも良いと思うものを選び、基本的には、日本の高校生が訳したものとして、本文の訳文を決定していこうということになった。
さて、問題は「あとがき」だった。これは自分たちでやるしかない。英文科の学生を中心に分担して、翻訳作業が始まった。しかし、なんとか翻訳は終わったものの、最終的にはだれか英語を母国語とする人に見てもらいたいということで、お願いした西洋人が、冒頭で紹介したような発言をしたのだった。
彼には、翻訳された英文をを読んで、おかしいところを直して欲しいとたのんだ。本文に続けて SHANTI と山口泉氏の「あとがき」(本誌13ページ以下参照)の翻訳文をファクシミリで送った。しばらくして彼は、電話の向こうで、冒頭の発言のほかに、およそ次のように述べた。
「自分はこの「あとがき」の英訳を検討することができない。何が言いたいか不明で直すことができない。矛盾があり、子どもっぽい文章で、歴史の反省がない。たとえば、南京(虐殺)で死んだ人の数は広島・長崎より多い。パール・ハーバーの問題もある」と。
彼がどの程度日本語の読解力があるかは分からないし、また、学生の翻訳がどの程度正確に訳されているかは分からないが、今この国で、山口泉氏ほど日本語を正確に駆使して、物事をきちんと論じている人はいないのではないだろうか。そのやりとりのなかで、私はできれば日本語の文案を読んで欲しいと思い、そのことを伝えたが、まったく聞く耳をもたない、といったふうであった。
彼の発言は、その話す日本語自体がそれほど正確ではないので、断片的な感じだが、英語の位置づけ、日本語への偏見、原爆投下についての認識の違い、スミソニアン博物館での原爆展中止に関する考え方など、このかん絵本作りを通じてSHANTIが到達してきた歴史認識とは大きな隔たりがあった。そのうえ、日本語に対する明らかな偏見と差別意識が、言葉のはしばしにうかがえる——あれはいったいなんだろう。
以上のような経過を踏まえ、英語版の翻訳についてさまざまに考えさせられた。そもそもなぜ「英語」なのか? 不本意ながら英語に支配された現状では、「英語版」を出版することで、より多くの人に読んでもらえる可能性がでてくる。私たちのやった英訳文を最終的にチェックしてもらうとしても、原爆投下に関してなど、私たちの考えを共有できる人を探そうということになった。おそらくそれは、英語を母国語とする人でも、欧米人ではないだろうとのかすかな予感がある。
【資料】『さだ子と千羽づる』英語版の解説日本語原文
「良心」の国際連隊のために——絵本『さだ子と千羽づる』英語版の刊行にあたって 山口泉
今回、この絵本『さだ子と千羽づる』が英語に翻訳されるのは、本書の主題にとって、ある意味できわめて象徴的なことと言えよう。
英語は、明らかに現在の世界の最も広汎な地域、最も多様な場面において、公用語ないしは補助語として流通する言語である。それは同時に、英語を母国語とする人びとの文化が、かつてない強大な権力の行使をともなって、いまや全世界を、事実上その支配下に置いているということをも意味している。
この光景は、どこか核兵器による威嚇の状況にも似ている。いまや核兵器を所持するのは、いわゆる先進超大国に限ったことではないが、原水爆という無差別大量殺戮兵器の技術と思想には、大航海時代以後5世紀にわたる西欧の世界支配の終着点としての意味が刻印されているようにも思う。そしてすでに恒常的なものとなった、この世界の「核実験場化」ないしは「核戦場化」にあって、不可避的にすべての核保有国から何重にも人質とされた人びとが、国境を超えて意志を疎通させるためには、今度は、英語やフランス語に代表される「核大国の言語」を用いることを余儀なくされている。
こうした状況で、日本という国の立場はきわめて犯罪的である。本来なら、非西欧圏の国家として、アジア圏の健全な発展に貢献しなければならなかったはずの私たちの国が、しかし実際にアジアの近代史において果たしたのは、西欧列強の最も悪い部分だけを輸入し、強権的な君主制ファシズムの国家を打ち立てて、他国を侵略することだった。
近代のアジア・太平洋地域の地図は、日本の暴虐による血で染め上げられている。しかも第2次大戦後の日本には、前述したような自らの侵略・植民地支配の責任を覆い隠し、結果として、漠然とした「悲劇の被爆国としての日本」を強調する視点からのみ、アメリカ合衆国による広島・長崎への原爆投下を語ってこようとする風潮があった。
私は、自らの近代史と広島・長崎への原爆投下との関係を、このように意図的に混乱させてきた日本の道義性の乏しさを深く恥じる。そしてそれ以上に、実はいつまでも私たちだけが占有していてよいはずのない、核兵器のもたらす惨禍という問題を、あくまで日本と日本人のみの問題として封じ込め、矮小化しようとする内外の欺職に満ちた風潮を、よりいっそう恐れてもいるのだ。
昨年、1994年夏、横浜のフェリス女学院大学の学生グループ「SHANTI」と、私たちその協力者とが制作した絵本「さだ子と千羽づる」日本語版は、日本国内では予想を超えた反響を呼ぶこととなった。幾つか考えられるその理由のうちの1つは、本書が単に「広島・長崎の悲劇」のみを表現したのではなく、その前提として、アジア・太平洋地域における日本の「侵略の歴史」にも言及しているという点にあったようだ。
「そのころ、日本は戦争をしていました」……私たちが、いつかしら「侵略の見開き」と呼ぶようになった、絵本『さだ子と千羽づる』の10ページと11ページとに込めたものは———とうてい万全とは言えない形にせよ———従来の日本の「被害者としてのみの訴え」の無自覚・無批判な系譜を、可能な限りきっばりと切断することだった。と同時に、日本人が「広島・長崎」を訴えることは、所詮、自らの立場をわきまえない、厚かましく誤った「被害者感情」の問題にすぎないという、とりわけアメリカ合衆国をはじめとした、「核の既得権」を謳歌する超大国の自己正当化の論理を批判する作業の、それはまた出発点でなければならない。
原子爆弾が、肯定されようとしている。
今春、広島・長崎への原爆投下から50年が経過するのを前に、アメリカ合衆国大統領B・クリントンは、公式の記者会見の席上「広島・長崎への原爆投下は正当だった」と、確認する発言を行ない、満場の拍手を浴びた。これはNPT (核拡散防止条約)の無期限延長問題とも、無関係ではあるまい。これに対し、日本の外務大臣・河野洋平は、クリントン発言は「世界で唯一の被爆国」としての「日本の国民感情に抵触するもの」との申し入れを行なった。だが私には、クリントンと河野いずれの発言も認めることはできない。
炎ガヤガテ街ヲツツンデ行ク
或ル家デハ母親卜七歳ノ女ノ子ダケガ居夕
屋根ノ下敷キデ母親ハ動ケナカッタ
女ノ子ガ柱ヲ動カソウトシテ居夕時
炎ハソコニモヤッテ来夕
〈オ前ダケ逃ゲナサイ〉
母親ハ自由ニナル片腕デ
ソノ子ヲ押シャッタ
(中略)
突然
行列ノ中ノ老婆ガ立チドマリ
ホドケタ帯ノ様ナモノヲタグッテイタ
炎ハモウソコ迄キテイルノニ!
見カネタ一人ガ言ッタ
〈オ婆サンソンナモノハ捨テテ早ク行キマショウ〉
スルト老婆ハ答エタ
〈コレハ私ノ腸ナノデス〉
(中村温「炎の街」)
……右に引いたのは、1945年8月6日の広島の光景の、数10万分の1にすぎない。
歴史を振り返って、「殺人」が——しかも無差別大量殺戮の暴力が「正当だった」と、ひとかけらの痛みもなしに是認され、肯定されることは、やはりあってはならないことなのではないか。
アメリカ合衆国は、人類史上初めて核兵器を開発し、これまでのところ世界で唯一、それを2度にわたって実戦に使用した——生きている人間の頭上に炸裂させた国、そしてその後も、自らに服従しない小国に向け、ことあるごとに「核使用」の恫喝を続けてきた国である。(広島・長崎の2発の原爆が、それぞれ異なった性質のものであったという事実が、どこまで「大規模人体実験」としてであったかは、つまびらかではないが)。しかもこの無差別大量殺戮は(それを行なった人びとがその事実を黙殺し、ないしは隠蔽しようとしているのとは反対に)現実には1つの不幸な時代の終息であったのではなく、より深刻な恐怖と人間性の崩壊の危機に満ちた、いつ果てるとも知れない巨大な恐怖の時代の扉を押し開いたにすぎなかった。こうした国の、しかも「戦後世代」に属する大統領の前記のような言明は、すなわち「また、いつでも、必要とあらば使う」という冷徹な意思表示として受け止めることを、私たちは強いられている。
しかし、それにしても「核兵器使用の正当性」を繰り返す者に対し、抗議することは、そもそもどこか、とある国の「国民感情」の問題にすぎないのだろうか? また、すでに南太平洋をはじめとするさまざまな地域で、軍事大国の核実験にさらされつづけてきた多数の人びとの苦しみが報告されている現在、なお日本が自らを「唯一の被燥国」などと称しつづけていて良いのだろうか? しかも実は広島・長崎においてすら——そうした状況を招いた原因もまた、直接的には日本の植民地支配にあるとはいえ——「被爆」を強いられたのは、日本人ばかりではなかった。
これは「原爆で5人の子どもをなくし、敗戦後に生まれた3人目の子どもがお腹にいる時、強引にアメリカの原爆調査機関であったABCC(原爆傷害調査委員会)に連れ出された」在日朝鮮人被爆者・宋年順さんの体験である。
すでに原爆投下を「正当化」する客観的な理由としてしばしば挙げられる根拠の数かずは、すべて曖昧なものであることが、歴史的に明らかにされつつある。それでは「パールハーバー」は? この軍事施設への日本軍の攻撃によって失われた数千名の軍人・兵士の死者と、広島・長崎における、その大多数が非戦闘員の20数万の死者とは、論議が発生するたびに「バーター」され、「以後に始まった時代」の意味は、問題にされようとするそのつど、一面的な報復感情の高揚によって隠蔽され続けてきた。
生命を数量化し、その多寡を論じることは、もとより私の意図するところではない。しかし兵士・軍人への基本的に限定的な攻撃と、東京・横浜への大空襲や広島・長崎の無差別大星殺数による厖大な死者の存在との陥絶は、ある事実を明瞭に示してもいる。ある事実とは何か? それは、「以後に始まった時代」が、超大国による無差別大量殺戮の恫喝につねに全世界が脅え続けねばならない時代であるということだ。
先に紹介した宋年順さんの証言にも、広島・長崎への原爆投下という行為の秘められた「戦略」としての意味が象徴的に表われている。原爆は日本本土における連合軍と日本軍の死者を軽減するためでもなければ、アジアを日本の植民地支配から解放するためでもなく、アメリカ合衆国が第2次大戦後の世界に覇権を確立するための最強の手段として構想され、その実験と宣伝のために実戦使用されたのだと考えざるを得ない。
少なくとも20世紀前半におけるアジア諸国と日本、また日本とアメリカ合衆国をはじめとする西欧列強との関係は、必ずしも相似形をなしてはいない。日本による過ちと、その日本に加えられた「勧善懲悪」を名目とする米国の無差別大量殺戮の「論理」とは、本来いかなる意味でも「相殺」されようはずのないものなのだ。
一部に伝え聞くように、フィリピンやシンガポール、あるいは中国や韓国の民衆が、米軍による広島・長崎への原爆投下のニュースを歓呼と喝采をもって迎えたというのが事実だとしたら——その時点において、止むを得なかった側面があるとはいえ——より長い歴史的構図のなかで事態の全体を眺めるとき、それはあまりにも痛ましい悲喜劇であるという気がしてならない。というのは、それはとりもなおさず実は自分たちにも向けられ、自分たちの軛としてのしかかってくる巨大な暴力の所有者を、あろうことか、自分たちの「解放者」であると見誤っていたことを意味するからだ。本来の絶対的な被害者の、その憤りの感情さえ、巨大科学技術のもたらした暴力を人間の「正義」と言いくるめる偽りの世界の存続に利用しようとするとは! 私は、そうした者たちの卑劣さに、深い怒りを覚えずにはいられない。
自らが「広島」「長崎」に引き起こした事実から眼をそらさせるため、超大国が核の時代を開いたことの言い訳として、日本によるアジア・太平洋地域の死者の問題は利用されてしまっているとしたなら、アジアの死者たちは2度も3度も、100回も1000回も殺されなおされることになるだろう。そして、日本の暴力から救われたはずのアジア・太平洋地域を含む、世界のあらゆる民衆は、逆に1945年8月6日を境として、アメリカ合衆国をはじめとする超大国の核兵器による牢獄のなかに閉じ込められてしまったのである。
広島・長崎は1つの終わりである以上に、巨大な非人間的世界の始まりにほかならなかった。日本人が負っているものがあるとすれば、それはヒロシマ・ナガサキを口実としてアジア近代史における侵略を免罪してもらう、不潔で誤った「権利」ではない。そうではなくて、ヒロシマ・ナガサキの経験を通じ、それ以後に始まった「核の時代」の非人間性を世界に伝えつづける「義務」なのにほかならないのだ。
私は思い出す。昨年、スウェーデンの古都ウプサラで、「これは日本では広島・長崎の被爆者のもとへも数多く届けられてきたペーバークラフトなのですよ」と説明しながら私が折り鶴をプレゼントした瞬間、数学教師をしているという中年の男性の顔に浮かんだ、人間としての最も厳粛な痛みと悲しみに満ちた表情を。同じ町の、折りしも8月9日の朝だった——手作りのパンを母子5人で移動販売しながら生計を立てる亡命ポーランド人の一家に、同様に説明しながら鶴や何種類かの折り紙を贈ったとき、「今朝のラジオで、きょうは長崎に原爆が落とされた日だと言っていたわ」と応じた母親の、深い青みを帯びた灰色の瞳の涙を。エストニアの首都タリンで、幼い女の児の手を引きながら物乞いしていたシンティ・ロマの父親が、私が日本人と知ると、大きな身振りを交えて「ナガサキ……ヒロシマ……トーキョー」と、呪文のように唱え始めた声を——。
私自身、第2次大戦後に生まれた日本人であるが、先行する世代の「戦争責任」を積極的に継承し批判し続けてゆくことを、早くから自らに課してきた。しかしそれは同時に、たとえば「広島」「長崎」で起こったことを伝え、それが人間の尊厳と世界の歴史に占める意味を伝える「資格」を剥奪するものでは、いささかもあるまい。これは日本人としてではなく、人間としての問題である。
この文章を綴っているきょう、1998年6月28日、スミソニアン航空宇宙博物館では、広島に原爆を投下したB エノラ・ゲイの機種部分と原爆の模型、そして投下した兵士たちの映像資料の公開を始めたとの報が入ってきた。同館でのこの企画に、「日米の原爆観を近づける方法」として、「地上」の惨状についての資料も併せて展示しようとした館長 Martin Harwit 氏が苦境に立たされ、辞任に追い込まれた経緯は、私たちの深く残念に思うところである。
さらに驚くべきことには、きたる8月6日にはサイパンを離陸した後、エノラ・ゲイと同一ルートで広島上空に侵入するという飛行が企画されているともいう(この愚挙が実現しないことを願う)。これらを推進する人びとが、いかに人類史上最初の核兵器使用国としての事実になんの痛みも感じていないか、むしろそれを栄誉として自ら顕彰しているかに、暗澹たる思いがする。
私たちが日本批判の根拠、侵略や虐殺、凌辱の批判の根拠は、また同時に「広島」「長崎」を礼賛し肯定する者たちへの批判でもなければならない。
比治山麓の大きな防空様には
皮商のない裸群が
仰向いたり
うつ伏せになったり
あぐらをかいたりして
くちぐちに「水をくれえ」と叫んでいた
(中略)
私と妻は
生きながら焼かれた愛児の裸体を
一枚の戸板にのせて
その裸群の中に運び込んだ
(中略)
その夜私の息子は
爆風でばらばらになった家の
がらくたの中で
原爆がきめた、残りのわずかな時間だけ
燃えつきる蝋の火のように生きたえて
「お浄土には羊羮があるの? そして
お浄土には戦争はないね……」とつぶやいて
ぴくりと息を引きとった
(山本康夫「皮府のない裸群」)
この同じ頃、広島に原爆を投下して帰還したエノラ・ゲイ号を迎えた、テニアン島の第509航空群の基地では、パイ食い競争用の何100個ものパイ、何10箱ものビールとレモネード、何1000個というホットドッグ、牛肉、果物。「美女ダンサー」たちを呼んでのどんちゃん駿ぎが行なわれていたという。
この地上から、どうすれば、こうした苦痛や惨禍の「偏椅」をなくすことができるのだろう?
暴力と、それがもたらす惨苦とに対するひとかけらの痛みも伴わない肯定は、つねに新たな暴力と惨苦とを生み、すでに失われたすべての生命の重みをも、いま1度、決定的に葬り去ってしまうものとならざるを得ない。そして何より「殺人」を「正当化」したことでもたらされる「平和」とは、「暴力」を「正義」とする上に成り立つ「文明」とは、人間の魂に対する冒涜である。無差別大量殺戮という行為の一方的な正当化の上に、人間の未来が築かれたとしては、それはあまりにも血塗られた空中楼閣であるとの謗りを免れないに違いない。
「補償のかわりに水爆を1つもらい、アメリカに落として自分たちの苦しみをアメリカ人に味わってもらいたいと考えたこともあったくらいだ」
これは、広島・長崎での被爆者の言葉ではない。1954年3月1日、太平洋マーシャル群島ビキニ環礁沖た操業中、アメリカ合衆国による世界最初の水爆実験によって被爆した、日本のマグロはえなわ漁船「第5福龍丸」の乗組員・池田正穂さんの病床での記者会見の言葉である。乗組員23名のうち、無線長・久保山愛吉さんは同年9月23日、放射線障害のため死亡、その後に亡くなった他の乗組員の死因にも水爆実験との関連が指摘されている。
第2次世界大戦終結後の、少なくとも「熱戦」下ではなかった状況における、こうした被爆者の発生もまた、「核大国」の論理においては「正当化」され得るのか? そしてこうした惨禍は、ミクロネシアをはじめ、世界のいたるところで起こっている。
核兵器はその本来的な特徴が、持てるものの科学技術工業生産力を総動員しての、弱者の無差別大量殺戮にある。こうした「技術」と「思想」とは、とりもなおさず人間と世界に対しての犯罪である。そして、狭量な愛国心やナショナリズム、歪められた自国中心の歴史観や低劣な復讐心が、超大国や核関連巨大産業の現状を追認し肯定し保護し補強するために、いまも利用されつづけている。
「歴史」を開くのはつねに、それまである自らを制約する条件の外へと、新たな一歩を踏み出す人びとである。
ある推計によれば「広島・長崎への原爆投下は誤っていた」と考える米国人は、全体の10%にのぼるという。私はこれを大変な数だと考えるし——いささか奇妙に聞こえるかもしれないが——ある意味では日本よりも多いのではないかという気さえする。
日本にも「広島」「長崎」を訴えることは自らにとって都合の悪いことであるという日本人はたくさんいる。それとは裏腹に、たとえばアメリカ合衆国においても、進んで「広島」「長崎」で起こったことの意味を考えようとする心ある米国人が存在する。スミソニアン航空宇宙博物館のマーティン・ハーウィット氏、広島に建つのと同じ「原爆の子」の像を、原子爆弾誕生の地、ロス・アラモスにも建てようと働きかける少年少女。米国の近代戦史を批判的に検証しようとする「平和のための退役軍人の会」の人びと。そして多くの良識ある市民たち……。
これは何を意味するだろう? 核兵器に反対することは、古く狭隘なナショナリズムの問題ではなく、個個人における人間としての「良心」と、その国際連帯の問題であるということではないか?
「現状のままの世界が続いた方が、都合が良い」と目論む少数の権力者や、彼らが信じ込ませた狭溢な憎悪のなかに、不幸にして囲い込まれたままになっている人びとではなしに、「世界がこのままであって良いはずはない」と考える民衆の連帯は、存在しうる——おそらく。
すでに述べてきたとおり、日本が「唯一の被爆国」であるとする見方も、「日本を最後の被爆国に」という訴えも、明らかに誤っている。しかし、こうは言えるだろう。「核兵器を実戦使用し、無差別大量殺数を行なう国」はアメリカ合衆国を唯一、最初で最後の国にしてほしい、と——。
より普遍的な「人間」という概念のなかに侵し難く存在する「個人」の、その最も深い「良心」に向けて、私たちはこの試みを静かに差し出したいと考える。
【翻訳方法の変更にともない、右の解説に加筆された部分】
こうした事情を考えたとき、本書の英語版が成立するにいたった経緯は、いかにも象徴的と言えよう。
本1995年春、オーロラ自由アトリエに滋賀県から1通の分厚い郵便小包が届けられた。琵琶湖のほとり、滋賀県立八幡商業高校の英語教師・松藤弥一郎さんからのそれは、彼が英語を教えていた昨年度の3年生たちが、「卒業制作」として自発的に取り組んだ、『さだ子と千羽づる』本文テクストの英訳、6クラス分のコピーだったのである。私たちはこの予期せぬ贈り物に深く感謝するとともに、すでに絵本『さだ子と千羽づる』が、日本国内においても単に「SHANTI 」やその協力者の作品であることを超え、さらに広大な共同作業の可能性を開いていることを、私たちは改めて確認する思いがした。
その一方、日本語版刊行当初から抱いていた英語版製作・刊行の構想は、思いがけない事態に直面することとなった。事前に交渉していた、あるアメリカ人の翻訳者の対応が必ずしも誠実なものではなく、すでに本年8月に刊行するというスケジュールの上ではぎりぎりの期限と言える本年6月初めにいたっても、まったく本文の訳稿が進められていなかったことが判明したのである。こうした状況で私たちが、滋賀県立八幡商業商校1994年度卒業生の作業を想起するのは自然なことだった。
上述したように、英語は、アメリカ合衆国をはじめとする幾つかの国国の母国語であるとともに、好むと好まざるとにかかわらず、現在の世界で事実上、最も有力なコミュニケーションの手立てとなっている言語である。そうした意味では、ある種の尺度に照らして必ずしも万全な英語ではないかもしれないとはいえ、英語という言語の別の側面や、ましてこの絵本の英訳を製作・刊行するという観点から考えたとき、この高校生たちの試みほど、「SHANTI」のそれと質的に近い営みがあるだろうか?
幾度となく討議を繰り返した末、私たちは、「SHANTI 」よりさらに若い世代によるこの試みの力を借りることとした。幸い、彼らの「卒業制作」をもとに「SHANTI メンバーが中心となって作成した訳稿に、さらに多くの方々のご助力をいただくことができたのは、巻末にも記している通りである。
私たちが広島・長崎を伝えることは、決して現在おいても削減しない核兵器、それにともなう核実験・放射能汚染、差別、「正義」という名で行なわれる大量虐殺を人間として否定してゆくことである。湯浅佳子
私たちが原爆を語ることは、こんなに難しいことなのか。絵本『さだ子と千羽づる』の第2ステップとしての英語版制作が延期となる過程を思い起こすたびに、もんもんとした気持ちで毎日を送っている。
英語にこの本を訳す際、私たちは、ただ英語を単なる国際的な言語ととらえるのではなく、なぜ英語という言語がこのように多くの国で話されているのかという歴史的な事実を考えた。そして、広島・長崎から始まる核の被害・脅威について続けて訴えてゆきたいと思っていた。当然、そのような趣旨は、SHANTI からの後書き、そしてこの絵本のアドバイザーでもある山口泉さんの後書きにも述べられていた。
しかし、このような私たちの考えは、翻訳を依頼した外国人には納得できなかったようで、英語版の制作は、私たちが考えていた以上に、いや考えもおよばなかったほどに困難をきわめ、結局翻訳を延ばすこととなった、彼らの中にある、深く表面には現われない英語という言語への優越感と原爆は正しかったとする気持ちは、とても差別的にさえ感じた。
広島・長崎から始まる核被害についてこの本を通して訴えることは、なぜ何度も拒絶されるのか。原爆に対する認識の違いは、ここまで深いものなのか。英語という言語に対しての私たちのとらえ方はどうして理解されないのか。日本人が、アメリカをはじめ白人たちの築いていった文明に対して意見を言うことがなぜ真っ向から拒否されるのか。彼らの言うことをもっともだと聞き、問題を見つめないまま、国際化だ、自由だ、平等だと唱えるものが友好的だというのか。
まったく交わることのない、いや、交わろうともしない拒絶に私は、腹だたしい思いと、絶望感さえ感じていた。
このように50年たった現在においても、原爆は肯定され、語ることさえも許されない状況が存在している。アメリカを初めとする西洋諸国の人々によって、アジアの人々の尊い命を持ち出して反論されながら。私たちが、この英語版の翻訳を依頼した人も「南京で虐殺された人は、原爆の被害者より多い。反省の色が見えない」と言った。彼は、アジアの人々の命を持ち出してでも、広島・長崎が正しかったといいたいのか。アメリカのスミソニアン博物館の原爆展に反対した人々も同じことを言っていた。原爆を唱える者たちへの反論は、いつもこうして私たちの口をふさごうとする。アジアの人々の命は原爆を肯定するための道具なのか。アジアでの虐殺が行なわれてはならなかったのならば、それを許せない気持ちを持っているならば、どうして、朝鮮戦争で、ベトナム戦争、湾岸戦争で、全く同じような侵略行為が行なわれたのか。アジア・太平洋地域の人々に対しての侮辱だ。その場限りの言い訳もいいかげんにして欲しい。
人々を大量に虐殺し、その後もその傷を負った人々のことを少しでも思う気持ちがあるならば、広島・長崎も同じようにあってはならなかったはずである。彼らが、原爆を正しかったと唱える「正義」とは、罪もない人々を虐殺した自分たちの立場を守ることなのか。このような彼らの、「正義」の上に何人もの人が犠牲になったと思っているのか。冗談じゃない。
私たちが、広島・長崎を語ることは、決して日本自らが犯した侵略行為を無視したものではない。私たちが、広島・長崎にNOといわなければ、核の使用は、また、このような虐殺行為は、なにか適当な「正義」という名の理由があれば、許されてしまうことを意味する。私たちは「人間の命」という観点から、それを不当な方法によって奪われることに反対してゆきたいのだ。
原爆が投下され50年がたとうとしている。私たちは、1945年当時より、多くの情報を得ることができる。このような現在において、原爆は正しかったと考える人々、しかも戦争を経験していない若い人々。彼らにそこまで原爆を肯定させるものはなんなのか。この原爆肯定論を浴びせかけられたときに、いつも思い出すことがある。私が中学生のときに見たテレビ番組(たしかNHK特集)で広島で被爆したオランダ人捕虜の男性の現在を追ったドキュメンタリーだった。彼は、今では、放射能の恐ろしさを訴える反核運動をしている。番組の最後に「あの原爆は正しかったという声があるが、どう思うか」という問いに対して、彼がしばらく考えて、深い悲しみをもって「あの惨事を見たら、私は決して正しかったとは言えない。地獄だった。あれは、間違いだった」と呟いた。私は、彼の言葉を忘れることができない。原爆は正しかったとする人たちは、このような被爆者の存在を知っているのだろうか。人の苦しみを痛む気持ちがあるのだろうか。
このように原爆が容認される中、フランスは核実験によって太平洋地域の人々をまたもや犠牲にしようとしている。核実験、ウラン採取などで苦しめられるのは、いつも核保有国が自分たちよりも下と見る人々・国で行なわれる。私たちが広島・長崎を伝えることは、決して現在においても削減しない核兵器、それにともなう核実験・放射能汚染、差別、「正義」という名で行なわれる大量虐殺を人間として否定してゆくことである。
英語という言語もこのような侵略の歴史から、また、力を持つものが英語を喋っていたという理由で広がっていた。朝鮮の人々が、日本語を強制されたように、アメリカ先住民たちは言語を奪われた。このような意味で、私たちは英語版を出版し、非白人たちに読んでもらうのはとても心苦しい。しかし、英語は現実に多くの国の人々が少しは話せるという言語である。こういうことを踏まえたうえで、英語という言語を通してより多くの人々に絵本を読んでいただきたいと思っている。
今回の絵本出版は8月に間に合わなかったが、今までに述べたような私たちの思いを多くの人に伝えるために、どんな妨害に合いながらも、怯まずがんばってゆくつもりだ。
私はそれまで表面的な付き合いだけから「アメリカ人は明るくて友好的」という印象を抱いていたが、私たちが本当の意味で友人として付き合うにはまだまだ乗り越えなければならない壁があることを実感した。
大野由貴子
日本に限らず世界中で、母語の次によく知られているのは英語だろう。生活の中にも浸透しており、とても身近な言語だ。私たちが去年出版した『さだ子と千羽づる』を外国語に翻訳して出版するにあたって、初めに英語を選んだことは私にはごく当り前に思われた。そしてまた、いちばん簡単なことだとも思っていた。
当初、ことしの3月の終りにすでにあるアメリカ人に翻訳を依頼し、承諾を得ていた。しかし6月になっても翻訳は1行もされていなかった。私はそれでもなお、間近になって契約違反をした彼に対して怒りを抱いたものの、それはその人自身に問題があるのであって「原爆」問題をめぐる国と国との、そして人種と人種との根深い、根本的な問題が原因だとはまだ実感していなかった。
結局、翻訳をやってくださる方が見つからず、自分たちで行なうことが決まったのが6月の半ばであった。私はできればネイテイブの方にやってもらいたいと思っていた。私たちの英語はやはり日本人英語であり、日本語版のときに文章を練りに練って制作した絵本だからこそ、英語版も子どもが読んでも分かりやすく、ネイテイブの人が見てもスマートな文体であって欲しいと思ったからだ。しかしそこで私たちは改めて話し合った。なぜ英語版を制作したいのか? もちろんアメリカ人に読んでもらいたい。でもそれだけではない。世界中の人に、できるだけ多くの国の人に読んでもらいたい。現状として見て、英語を公用語にしている国、英語を理解する人々が世界的に見て多いことから英語版の制作を決定したのではなかったか。インド、フィリピン、シンガポール、オーストラリア、カナダ……様々な地域、様々な文化圏に散らばっている。それぞれの固有の特徴を持った英語を話しているはずだ。それならば、正しい英語など存在しない。アメリカ英語である必要はないし、イギリス英語である必要もないのだ。日本人が出版するのだから、私たちの最善を尽くした日本人英語で構わないのではないか。私はその話し合いの結果におおいに納得して、翻訳作業を進めていった。
しかしそのうちに、私たちの主張が思った以上にアメリカを初めとする欧米の人にとっては受け入れ難いことである、ということを思い知らされた。絵本の本文では何も言わずに協力してくれた方が、「後書き」に示した私たちの意見にはひどく反発したのである。「後書き」で私たちは、アメリカの原爆投下とその後も核の脅威で他国を脅かしてきたことの責任について言及していた。原爆の悲惨さを訴え、2度と起こらないようにと主張する人やグループは私たちだけではなく、たくさんいる。そして、外国でもそれは受け入れられる。ところが原爆投下という行為の責任の所在を明らかにしようとすると、反発されてしまう。原爆投下は自然発生的に起こったことではなく、明らかに人間の意志を持って行われたことなのである。その資任を追求することは当然のことなのだが、今までそれが、曖昧にされてきたのではないか。だからこそ50年たった今でも、責任を問う私たちの文章がここまで批判されるのだ。初めのアメリカ人も私たちの主張を目にして、翻訳作業に協力することに抵抗を感じた結果、あのような態度をとったのかもしれない。別のアメリカ人とも原爆について話し合ったが、その人も同じだった。私たちの話は平行線のまま分かりあえることはなかった。私はそれまで表面的な付き合いだけから「アメリカ人は明るくて友好的」という印象を抱いていたが、私たちが本当の意味で友人として付き合うにはまだまだ乗り越えなければならない壁があることを実感した。
以上のような経過をへて、私たちは英語版の出版を延期することにした。英語版の出版はそれだけ難しい。最善を尽くして思いを伝えようとしても、どれだけの人に分かってもらえるか……。しかしここでくじけたくない。もう少し準備を重ねいろいろな人に協力してもらって、絶対に英語版を完成させたい。
私たちの主張は、最初から今までの日本の戦争観と同じものとされ、何を言っても「過去の歴史に対する反省がない」という一言で片付けられてしまうのだ。酒井菜々子
ある人が、ある意見を言う。その意見に対して賛成の人も反対の人もいる、ということは「言論の自由」を掲げている以上、当然のことである。だから、「言論の自由」があるにもかかわらず、皆が同じ意見になる方が、不思議で、奇妙な気がする。(多くの場合、日本では、多数派の意見を安易に、自分のものにしてしまう人も多いようだが……。)
そして、この当り前のことを、日本語版「さ だ子と干羽づる」の制作を通して、あらためて知らされたように思う。「日本の侵略の事実を認めた上で、それでも尚、あの原爆は落とすべきではなかった」という私たちの主張は、今まで人々の中で育まれてきた歴史教育によって同じ日本人であっても、「10ページから11ページ(日本の侵略に言及したページ)以外はよかった」などという意見をしばしば聞くことがあった。「実際は、あんなもの(絵本に書いてあるような)ではなかった」という韓国人女性の批判を受けたこともある。
この夏、英語版を出版するにあたって、当然、そういった反対意見を英語圏の人たちから聞くだろう、ということは始めから分かっていたつもりだ。しかし、予想外にも英語版を出版する以前から、私たちは、この翻訳者や、協力してくれた欧米の方と最も主張したい点において、議論をすることになってしまった。議論というよりは、頭から私たちの主張を聞こうとしなかった、という方が正確な言いまわしかもしれない。
私たちの主張は、最初から今までの日本の戦争観と同じものとされ、何を言っても「過去の歴史に対する反省がない」という一言で片付けられてしまうのだ。今までの行動や言論が、将来の行動や言論を決定するのだ、と決めつけられてしまっては、私たちは、戦争について語る資格はなくなってしまう。あの戦争から50年たったにもかかわらず、50年前と同じように「あの原爆は多くの人々の命を救った」ということばで、問題の本質を今だに見ようとしないとは。50年前から1ミリも人々の気持ちが変化していないことに驚かされる。
私たちは、議論をしたい。私たちの意見を聞いてもらった上で、反対意見を真正面から聞いて見たい。そう考えた時、私たちには、あまりにも時間がなさすぎた。今回、英語版の出版を遅らせたことは、非常に残念なことだと思う。だが、この延期により、私たちは、もう一度、英語版を出す意味を考え直し、いかに今まであった人々の戦争観をくずしていくかを、ゆっくり話し合うことができるはずだ。
【渡韓報告】
『さだ子と千羽づる』韓国語版も前途多難。
SHANTIの湯浅佳子さん・大野由貴子さんと作家・山口泉さん、オーロラ自由アトリエの遠藤京子は、1995年7月25日から、韓国・ソウルで開催された「侵略と原爆展」に、「さだ子と千羽づる』韓国語版の出版をアピールしようと渡韓しました。
韓国初といわれるこの「原爆展」は、「長崎被爆2世教職員の会」の発案により、「韓国原爆被害者を支援する市民の会」などが実行委員会を構成して実現したと、新聞報道などでも説明されています。韓国での開催は「韓国原爆被害者協会」「韓国教会女性連合会」が共催したもので、当初は韓国YWCAも共催することになっており、明洞のYWCA講堂で開催される予定でした。しかし、この「原爆展」には、韓国内で反対の声があがり、韓国では社会的影響力の強いYWCAは、会場貸し出しを直前(6月30日) になって取り消しました。やむなく会場を大学路近くのキリスト教連合会館に変更、それも、前日まで会場付近で「原爆展反対」のビラまきがあったりして、開催そのものが危ぶまれたとのことです。
私たちは、会場変更の件は渡韓前日(7月22日)に毎日新聞長崎支局の記者からの取材打ち合わせの電話で知り、これらのいきさつも、会場についてから、やはり、何人かの日本のマスコミ関係者から聞いて、初めて知ったというありさまでした。私たちはこの「原爆展」に反対している韓国人の主張を知りたいと思い、日本側の開催実行委のメンバーである「長崎原爆被爆2世教職員の会」の人に、「原爆展反対」のビラを持っていたら見せて欲しいとたのみましたが、先方は言葉を濁したままで、見せてはいただけませんでした。それならば直接お会いして話しをうかがうしかないと、主催者団体は教えてくれませんから、その辺にいる日本のマスコミ関係者と思われる人に、反対している人の連絡先を知らないかと片っ端から聞いて回りました。その結果、後日、反対運動の中心人物を訪ねることができたのです。
「原爆展」の会場となったビルは1階に銀行が入ってはいるものの、明洞に比べて周辺の人通りはそう多くないようでした。それに、なんといっても明洞のYWCAは、あの明洞大聖堂の真向かいにあり、なにかにつけて人びとが集まる場所です。(私たちが訪れたときも、光州事件の犠牲者遺族が、事件の真相究明・首謀者・全斗喚の処罰を要求して、座り込みをしていました)。ですから、今回の会場の変更はかなり打撃だったのではないかと思います写真展開催当日は、人がたくさん集まっているように見えましたが、日韓双方の主催側関係者と日本のマスコミがほとんどだと、会場に来ていた日本の新聞記者の一人から聞きました。日本の新聞社・テレビ局は15社も来ていたとのことで、私たちもいくつかの取材を受けました。韓国のマスコミはKBSテレビ1社だけだったといいます。
開催セレモニーでは、韓国原爆被害者協会会長の鄭相石氏、韓国教会女性聯合会の方、日本側からは、前長崎市長の本島等氏、韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長の松井義子氏がテープカットをし、それぞれ挨拶をしました。このテープは日本では紅白ですが、韓国では、民族色とでもいうのでしょうか、赤・黄・緑•青のテープだったのが印象的でした。セレモニーの後、午後からは、本島等氏の講演がありました。展示パネルを壁際へ寄せて椅子を並べた会場に、講演内容を斡国語に翻訳した印刷物があらかじめ配られ、本島氏は用意した原稿を読み上げました。日本のマスコミ関係者が、主催者の話として私たちに伝えた内容によれば、この写真展は、70点あまりのパネルのうち、全体の3分の1が日本のアジア侵略について、もう3分の1が被爆直後の広島・長崎、残りの3分の1が韓国人被爆者の写真とのことです。たしかに、北海道のタコ部屋で虐待された土木労働者の写真や「大東亜共栄圏」を示した地図、さらに中国各地での虐殺行為の写真が展示されていたのですが思ったよりも印象が薄く、展示全体の関連性とまとまりに欠けているように感じました。なぜそうなのか……これについては後で触れていますが、最近合点がいく事実がわかりました。)
『さだ子と千羽づる』はどんなふうに受け取られるのだろうか。「ヒロシマ・ナガサキ」を世界に、とりわけアジアの人びとに訴えていくことの難しさを、あらためて予感しました。
韓国人被爆者の写真は、1989年に韓国教会女性聯合会が発行した写真集『その日以後』からのものでした。『さだ子と千羽つる』韓国語版の翻訳メンバーの一人、宮内正義さんから以前に頂いて手元にあるこの写真集の発刊の辞によれば、「韓国の原爆被害者は推定2万人。斡国内でも原爆被害者の存在はほとんど知られておらず、アメリカの核兵器が配備されていたり、原子力発電を積極的に建設しようと進められている現状でも、核に対する一般の関心は低い」と記されています。
受付にいた日本人女性が「屋内展が閑散としていたので、当初の予定より、1日早く野外展に切り替えられた」と教えてくれた展示。会場の大学路マロニエ広場は、以前にソウル大学があったところで、何かにつけて人びとが集まります。このような場所だけに多くの人が写真パネルに見入っていました。しかし、広い公園ではパネルの展示そのものが散漫になり、全体を見てもらうのは難しいように見えました。たとえば、おじいさんが孫に、日本の侵略パネルを指差しながら話をしている様子がいくつかありましたが、その人たちが原爆に関するパネルの前に行くという雰囲気はありませんでした。全体として、日頃の韓国人の物事に対する反応からすると、かなり冷ややかな囲気だったと思います。
さて、前述したように「侵略と原爆展」に反対してきた盧炳禮氏は、かなり精力的に反対の意思表示をしたようで、共催した韓国原爆被害者協会や共催を予定していた韓国YW CAなどに直接抗議文を持って行き、交渉したようです。彼の背後に多数の反対勢力が存在するのか否かはわかりませんが、そのことによって韓国YWCAは、共催を渋り、会場の変更を余儀なくされたことは確かです。(註)
ソウルに取材に来ていた日本の新聞記者は「今回の反対は直接的にはそう大きくないが、このような考えは韓国では多数派ではないか」と語っていました。
この後、盧炳禮氏のお話を直接うかがいたいと、ソウル郊外に住んでいる氏を訪ねました。彼は、キリスト者でたいへんな親米家でした。息子が韓国軍の牧師で、孫がやはり韓国空軍の思想統制セクションの軍人であること、孫たちには、「息子の嫁」が大統領の子どもが行くような学校へ入れてエリート教育をしてきたことを、自慢そうに話していました。応接室のガラステーブルには、迷彩服を着た孫の写真が飾ってありました。
キリスト者を中心に日本の市民運動に関わる人々と親しい交流があるらしく、日本から送られてきたさまさまな資料や写真を取り出して提示し、「誰それは自分に、日本までの旅質と滞在費をいくらくれた」などと話していました。その中には、私がかねてよく知っている人々の名もありました。彼は原爆展に反対した理由を日本語の文章にしてありました。ソウルでの原爆展を「スミソニアンがダメならソウルで」と見出しをつけた朝日新聞の報道記事を私たちに見せ、「原爆投下の理由となった侵略行為を行なった日本人の反核平和運動は、自らの蛮行を隠蔽するものだ」「日帝からの解放をアメリカに助けてもらい独立したのに、なんで侵略者の蛮行隠蔽の手助けをして、アメリカを窮地に追い込むのだ」との主張は、アメリカとの同盟が、「北」との関係でより具体的な今日の韓国社会には、受け入れられやすいのかもしれないと思いました。
韓国での原爆展の様子をを見て、『さだ子と千羽づる』韓国語版を無償で韓国の公共施設に寄贈するというやり方は、あまり賢明でないと感じました。盧炳禮氏のような考えに無関心が手伝って、無料で配付されたものをはたして手にとって、読んでもらえるだろうかとの思いからです。日本人の個人的ルートを通じて贈っていただくなど、配付方法を検討していますが、正直なところうまくいっていません。つまり、韓国語版の多くは、いまだオーロラ自由アトリエに眠ったままということです。
韓国のみならず、日本が侵略をした国々では、「原爆が自分たちを解放した」と、多くの人びとが考えていると聞きます。たしかに、戦後多くの国々が植民地のくびきから、独立を達成しました。しかし、そこには巧妙な支配・被支配の関係が存在していることも事実です。アメリカによる日本の占領政策も、中華人民共和国の成立以降、世界戦略を前提に変化していきました。
戦後50年、日本という国がアメリカとの関係において、アジアの中でどのような役割を担ってきたかを見れば、盧炳禮氏のような反日・親米という立場は、たいへん矛盾すると思うのですが……。
この後に続く山口泉さんの文章は、韓国語版に韓国語に翻訳して掲載した解説の日本語原文です。盧炳禮氏には、『さだ子と千羽づる』韓国語版をお送りしましたが、あとでご紹介するような批判のお手紙をいただきました。
【註】韓国YMCAが、当初明確に共催を予定していたのか、否かの詳しい事情を、この原稿を書くにあたって、開催実行委のメンバーである長崎の「長崎原爆被爆2世教職員の会」の人に、電話で確認しようとしました。しかし、「世界」11月号に連載『虹の野帖』の第1回として掲載された山口泉さんの「原爆展」に関する記述に立腹しているとの理由で、答えてはもらえませんでした。また、原爆展会場でアンケートをとっていたのですが、その結果についても、教えてはいただけませんでした。この人とは、ソウルでの原爆展開催前にも電話で会場などについて問い合わせをし、私たちの渡韓意図も伝え、現地でお会いする約束もしてあったのですが、前述したように、会場変更についてはたまたまの偶然から別のルートで知ったといういきさつもありました。しかし、開催までの忙しさの中で忘れることもあったろうし、私たちは結果的に変更後の原爆展会場に行けたわけですから、訂正の連絡をもらえなかったことについては、目をつむりました。
この「原爆展」に山口泉さんとともに行った私を含む3人も、ほぼ同じような感想を持っているといえます。主催者関係者とマスコミ以外の日本人で、あの現場に居合わせた日本人は、おそらく私たち以外にはそう多くはなかったのではないかと思います。であるならば、その私たちの率直な感想に、主催者はもっと耳を傾けてもいいのではないかと思うのですが、ほとんど取り付く島もないような嫌悪感を示し、ちょっと私はびっくりしました。
あまりのことに、あらためて「世界」のその部分を読み返しましたが、この程度の批判的感想にあのような態度をとるようでは、韓国をはじめアジアの人びとに、「ヒロシマ・ナガサキ」を訴え、理解を求めるのは難しいのではないかと思いました。その部分は次のようなものです。
この「『……アリバイ作り』という点が強調されてしまう」という指摘は、絵本『さだ子と千羽づる』にとっても、常に頭から離れない問題です。「ヒロシマ・ナガサキ」を訴えるとき、日本の侵略について、おそらくどんなふうに扱い、どう表現しようと、「アリバイ」と受け取られることはあるだろうとの覚悟をもって、この絵本はできあがったのでした。そして、その覚悟で渡韓した私たちの、「原爆展」を見ての感想は、繰り返し述べてきたようなことです。
さらに驚くべきことに、この展示内容に日本の中国侵略を記録した写真を入れたいきさつは、「西日本新聞」(95年8月7日付)によれば、長崎市内の県立高校英語助手として4年前に来日した欧米人が強く主張したものだといいます。それも実行委内部では「旧日本軍の残虐行為をことさら強調することは、半面、原爆被害のインパクトを薄めることにならないか」との異論も出たものの、「過去日本が行なった加害の残虐さに触れなければ、日本以外でノーモア・ヒロシマ・ナガサキの声は伝わらないと」、その欧米人が力説した結果であるとのことです。
主催者の1人である松井義子氏も、在韓被爆者の写真17点は、韓国で原爆展反対の声があがり、韓国YWCAが会場提供と共催を断った後に急いで作られ、大阪からソウルヘ送られたものと述べています。(「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」機関紙、第93号)
これらの経過はすべて、最近になって私たちが知ったことであり、ソウル原爆展を見ての私たちの率直な感想に、我ながら納得してしまうのです。先に述べた「長崎原爆被爆2世教職員の会」の人が、どうしてあのように怒っていたのか理解に苦しみます。
この原爆展の趣意書に、原爆被害の実態が日本以外でほとんど知られていない理由の1つとして「侵略者・加害者であった日本が自ら被った被害を正面きって世界に、特にアジアに訴える資格があるだろうかと自問し、思い悩んできたこと」との記述があります。ここで彼らが「日本」と言っているのは、いったい日本の誰を指しているのでしょうか。日本政府は決して、「思い悩んで」なんかきていません。むしろ日本国内においてでさえ、できるだけ隠蔽してきたといえるでしょう。たとえば中学や高校の広島への修学旅行実現に、さまざまな理由を付けて立ちはだかってきたのは、ほかならぬ政府=文部省ではないでしょうか。
また、「日本人の被爆者も、韓国・朝鮮人の被爆者や「従軍慰安婦」とされた方々、強制連行された方々、BC級戦犯とされた方々などと同様に、侵略戦争の被害者であったと考えます。加害者の側に身を置いたが故に、最後には国家と戦争の被害者になったのです」(同前)。こんなふうに被害者と加害者を混同し、同列に並べてしまう思想が、どうも釈然としない原爆展の原因かも知れないなと、今あらためて思っています。(遠藤京子記)
【資料】『さだ子と千羽づる』韓国語版の解説日本語原文
いま、日本人が「HIROSIMA」「NAGASAKI」を語ることの意味と資格——絵本『さだ子と千羽づる』韓国語版に寄せて 山口泉
絵本『さだ子と千羽づる」韓国語版を手にされる皆さん。
ここに本書を刊行するにあたり、私がまず何より先に覚えるのは、深い畏れと羞恥の感情です。それは第1に、フェリス女学院大学「SHANTI」のメンバーの作業に協力し助言してきた者としてであり——と同時に、何より自分自身が近代・現代の韓国・朝鮮の人びとの生き方や言葉から多大の感銘を受けてきた日本の一作家であるからにほかなりません。
韓国・朝鮮の人びとが被りつづけている近代・現代の歴史的不幸に対する責任が、何より日本によるものであることは、疑いを入れません。一方、アメリカ合衆国による広島・長崎への原爆投下が、これまでもっばら明治以降の日本のアジア・太平洋地域における侵略・植民地支配の歴史的責任を覆い隠し、結果的に、漠然とした「悲劇の被爆国としての日本」を強調する視点からのみ語られてきたのは、争い得ない事実です。
私は、自らの近代史と広島・長崎への原爆投下との関係を、このように意図的に曖昧にしてしか捉えることができずにきた日本という国の道義性の乏しさを深く恥じます。そしてそれ以上に、実はいつまでも日本人だけが占有していてよいはずのない、核兵器のもたらす惨禍という問題を、あくまで日本と日本人のみの問題として封じ込め、矮小化しようとする内外の欺瞞に満ちた風潮を、よりいっそう恐れてもいるのです。
昨年、1994年夏、横浜の女子大生たちとその協力者のグループが制作した絵本『さだ子と千羽づる』の日本語版は、日本国内では予想を超えた反響を呼びました。幾つか考えられるその理由のうちの1つは本書が単に「広島・長崎の悲劇」のみを表現しようとしたものではなく、その前提として、アジア・太平洋地域における日本の「侵略の歴史」にも言及しているという点にあったようです。
最初、「SHANT I」のメンバーから提示された立稿は、あくまで佐々木禎子という1人の少女の生と死とを綴ったものでした。この絵本が真に世界の恒久平和と核兵器廃絶とを訴えるメッセージとして力を持っためには、原爆について語る以前に、まず日本の近代史の弁護の余地のない犯罪性について確認しておくことが不可欠であると思われました。しかしながら、たとえば朝鮮半島との関係1つをとって見ても、明治以降の侵略・植民地支配と、それに付随するありとあらゆる暴虐、そしてまた「戦後」も「在日」することを強いられた方がたへの、「平和憲法」のもとにおいて、なお現在まで続く差別……等等について、メンバーはほとんど初めて「学習」するというのが実情でした。大学生すらそうであるというのは、実に戦後50年、一貫して「過去」を反省することのない政府によって実施されてきた日本の「歴史教育」の鵞くべき貧困です。したがって、こうした条件下に囚われつづけてきたのは、決して現在の若い世代に限ったことではありません。
「そのころ、日本は戦争をしていました」……私たちが、いつかしら「侵略の見開き」と呼ぶようになった、絵本『さだ子と千羽づる』の10ページと11ページとに込めたものは——とうてい万全とは言えない形にせよ——これまでの日本の「被害者としてのみの訴え」の無自覚・無批判な系譜を、可能な限りきっぱりと切断することでした。と同時に、日本人が「広島・長崎」を訴えることは、所詮、自らの立場をわきまえない、厚かましく誤った「被害者感情」の問題にすぎないという、とりわけアメリカ合衆国をはじめとした「核の既得権」を謳歌する超大国の自己正当化の論理を批判する上でも、それが欠くことのできない手続きであるのは明らかです。
今年、1995年春、第2次世界大戦の終結から50年が経過するのを前にして、アメリカ合衆国大統領B・クリントンは公式の記者会見の席上、「広島・長崎への原爆投下は正当だった」と、確認する発言を行ないました。そこにはおそらく、NPT(核拡散防止条約)の無期限延長問題なども密接に関連していたことでしょう。これに対し、日本の外務大臣・河野洋平は、大統領発言は「世界で唯一の被爆国」としての「日本の国民感情に抵触するもの」との申し入れを行なっています。しかしながら私は、クリントンと河野、両者いずれの発言も、核兵器の問題に関しては、決定的に誤っていると考えるのです。歴史を振り返って、「殺人」が——そして無差別大量殺戮の暴力が「正当だった」と、ひとかけらの痛みもなしに是認され、肯定されることは、やはりあってはならないことなのではないでしょうか。暴力とそれがもたらした惨苦とに対するひとかけらの痛みも伴わない肯定は、つねに新たな暴力と惨苦とを生み、それとともに、すでに失われたすべての生命の重みをも決定的に葬り去ってしまうものとならざるを得ません。これまでのところ世界で唯一、核兵器を実戦使用した国であるアメリカ合衆国の、しかも「戦後世代」の大統領のこうした言明は、すなわち「また、いつでも、必要とあらば使う」という恫喝として、私たちは受け止めることを強いられています。
けれど、それにしても「核兵器使用の正当性」を繰り返す者に対し、 抗議することは、そもそもどこかとある国の「国民感情」の問題にすぎないのでしょうか? また、すでに南太平洋をはじめとするさまざまな地域で、軍事大国の核実験にさらされつづけてきた多数の人びとの苦しみが報告されている現在、なお日本が自らを「唯一の被爆国」などと称しつづけていて良いのでしょうか? しかも実は広島・長崎においてすら——そうした状況を招いた原因もまた、直接的には日本の植民地支配にあるとはいえ——「被爆」を強いられたのは、日本人ばかりではありませんでした。
「宋年順さんは原爆で5人の子どもをなくし、敗戦後に生まれた3人目の子どもがお腹にいる時、強引にアメリカの原爆調査機関であったABCC (原爆傷害調査委員会)に連れ出されました」
(以上ナレーション。以下、インタビューに答える宋年順さんの言葉)
「連れられて比治山のほうの、ABCC言うてアメリカから研究所にお医者様が、あのう、やられたわけです。レントゲンでもこの胸の写真だけ撮られるならええけれども、お腹のうしろ、前、胸のほう、まあ、どっちかが何回か数えられんぐらい撮りおったよ。それで夜八時頃に、血の出るのがね、それで朝八時頃までね、とまらなかったわけですよ。それで流産ですよ」(盛善吉監督/映画「世界の人ヘー朝鮮人被爆者の記録」1981年/シナリオから・1部略)
ここには広島・長崎への原爆投下という行為の秘められた「戦略」としての意味が象徴的に表われています。原爆は日本本土における連合軍と日本軍の死者を軽減するためでもなければ、アジアを日本の植民地支配から解放するためでもなく、アメリカ合衆国が第2次大戦後の世界に覇権を確立するための最強の手段として構想され、その実験と宣伝のために実戦使用されたのでした。
「暴力」を因果応報として、「処罰」として考えることは、同時にすべての悪が免罪され「相殺」されてしまう、生者の奢りに満ちた荒容たる世界を感じさせます。もしも「広島・長崎への原爆投下は、日本のアジア侵略への当然の報い」と、生きている私たちが言い、それで済ませてしまうなら、アジア諸国のすべての死者たちの生命の重みまでが、その「相殺」のなかで失われてしまうことになるでしょう。
生命は、それで他の財物を購うための「貨幣」などではあり得ません。私たちは断じて、広島・長崎の日本人の死者たちをもってして、日本のアジアヘの侵略の罪を贖罪しようなどと考えているわけではないのです。日本の罪は、日本人の後続する世代がその責任を担いつづけることにおいてしか、自覚され得ません。とりわけ、広島・長崎への原爆投下によって亡くなり、あるいはさまざまに傷ついた他国の方がたの存在をまえにして、こうした「当然の報い」の論理は、なんと空ぞらしく雑駁に響くことでしょう!
日本の犯した過ちと、その日本に加えられた「勧善懲悪」を名目とする米国の無差別大量殺戮の「論理」とは、本来いかなる意味でも「相殺」されようはずのないものです。そして私はまた日本人として、日本を真に打ち破ったのは、アメリカの無差別大量殺戮兵器の非道義性よりもはるかに、アジア各国の民衆の道義に満ちた自己解放の戦いであったのだと考えてもいます。
一部に伝え聞くように、フィリピンやシンガポール、あるいは中国や韓国の民衆が、米軍による広島・長崎への原爆投下のニュースを歓呼と喝釆をもって迎えたというのが事実だとしたら、あまりにも痛ましい悲喜劇であるという気がしてなりません。というのは、それはとりもなおさず実は自分たちにも向けられ、自分たちの軛としてのしかかってくる巨大な暴力の所有者を、あろうことか、自分たちの「解放者」であると見誤っていたことを意味するからです。本来の絶対的な被害者の、その憤りの感情さえ、巨大科学技術のもたらした暴力を人間の「正義」と言いくるめる偽りの世界の存続に利用しようとするとは! 私は、そうした者たちの卑劣さに、深い怒りを覚えずにはいられません。
「代理人」の暴力を認めることが「歴史」の正義であるはずはないと、私は考えます。そしてしかも、つねに「代理人」はより別の打算を、その大義名分の影に隠しているのですから。このとき、「広島」「長崎」の歴史的意味が、日本による狭い「占有」から解放され、より広汎な民衆の連帯の構図のなかに置きなおされて困るのが、どんな立場の人びとであるかも明らかです。
広島・長崎は、日本が自らの歴史的責任を免罪されるための卑屈な「財産」などではありません。広島・長崎を、私たちがあくまで「日本の悲劇」にとどめるなら、それこそが私たちの傲慢ということになるでしょう。ヒロシマ、ナガサキの歴史的な意味は、日本の占有から解放され、ビキニをはじめとする他のそれと並ぶものとならねばなりません。
日本の現代史がアジア諸国から批判を受けるべき内実に満ち満ちていることはまぎれもない事実です。けれどしかも、核兵器による無差別大量殺数の問題について声を上げるべき世界史的な責任をも負っているという立場に、日本人はいるとも、私は考えます。まことにつらいことです。しかしそれは「責任」を放棄して良いことを意味しもしません。
日本人が負っているものがあるとすれば、それはヒロシマ・ナガサキを口実としてアジア近代史における侵略を免罪してもらう、不深で誤った「権利」ではなく、ヒロシマ・ナガサキの経験を通じて、それ以後に始まった「核の時代」の非人間性を世界に伝えつづける「義務」なのです。
「原子爆弾の歴史的正当性」を擁護する、あれらすべての空疎な論理は、その後もこうした大量殺戮兵器が大量に製造・備蓄され、一部の権力者が全人類を何重にも人質にとって互いを威嚇しあうような状況を前にして、最初から破綻しています。広島・長崎は―つの終わりである以上に、巨大な非人間的世界の始まりにほかなりませんでした。
原子爆弾は、やはり絶対に投下されてはならかったのです。
絵本「さだ子と千羽づる』韓国語版を手にされる皆さん。
何10回にも及ぶ討議を重ね、無数の助言を加えて、ようやくなったこの本は、しかもまださまざまな意味で不十分なものです。若い「SHANTI」のメンバーばいずれも力を尽くしたものの、いまなお彼女たちが何よりその感情の根底において、アジアの方がたに対する「戦後世代」としての貢任を、いまだ実感し得ていない部分があるのは、私にとってはとりわけ気がかりな点でもあります。
この絵本『さだ子と千羽づる』の韓国語版を通じ「戦争の恐ろしさ」「核兵器の怖さ」を韓国の皆さんにも知らせたい。そう彼女たちが当初の志を口にしたとき、私は複雑な思いに沈みました。日本による侵略・植民
地支配ばかりでなく、「光復」後も、苛酷きわまりない現代史を歩んでこられた方がたに向かって、「戦後日本」という欺陥的な平和と繁栄に涵されきった私たちに、何を語ることができるでしょう?
しかし同時に——それでもなおこの絵本は1つの意味を持っており、「SHANTI」のメンバーの素朴な「善意」の持つ可能性を否定し去ることが、また私自身の傲慢ではないかという気がしているのも事実です。
どうぞ、「SHANTI」のために、深く厳しい批判をいただけますよう。ただ、このまだようやくその端緒に就いたばかりの作業が、まぎれもなく現在の日本においては若い世代の良質な部分の一翼を担う精神たちによって営まれてきているものであることや——また彼女たちが、自らの欠如を自覚しながらも、おそらくはその生涯にわたって歩みつづける粘り強い持続力を秘めていることも、併せて御理解いただきたいと思うのです。
分断された各国民衆が真に出会おうとする上で、言語の壁はきわめて重大な障害となっています。とりわけ私たちの国では、しばしば「日本代表」として優先的に外国語に翻訳され、輸出される文藝・思想作品が——ある意味では当然の結果として——最も質の悪いものであるという例が少なくありません。
日本の出版人としてはきわだった批判精神を持つ遠藤京子さんが1人で経営する、まだ誕生して4年ほどという小さな出版社・オーロラ自由アトリエから刊行された絵本「さだ子と千羽づる」は、幸運にもさまざまな方がたの協力によって、いち早くいくつかの外国語版が計画されるという僥倖に恵まれました。今回、その1冊目として韓国語版が作成されるにあたり、翻訳をお引き受けいただいた韓国人留学生・徐民教さんと、東京・代々木の現代語学塾の皆さんのかけがえのない御支援に厚くお礼申し上げます。
『さだ子と千羽づる」韓国語版を手にされる皆さん。
この韓国語版は、私たちが絵本を企画・構想したその最初から、ぜひとも作りたいと念願してきたものです。そして皆さんから、今度はさらに広く深い「核兵器廃絶」のメッセージをいただくことを、私たちは願ってやみません。
核廃絶を全ての人が望んでいるのか?
世界には核を必要とする支配者が存在する。
フランスと中国が世界の人びとの反対を押し切って、核実験を強行している。反対運動は国際的にも盛り上がって、弱腰と言われはしているが日本の政府も、「遺憾である」とかなんとか、一応言っている。今、非難を浴びているのは、フランスと中国だけれども、かつて、アメリカ合衆国やソ連が、数限りない核実験を繰り返してきたことは、決して忘れてはならない。ビキニ環礁でのアメリカ合衆国の水爆実験で、第5福龍丸が被爆したこと、それによって、乗組員で無線長の久保山愛吉さんが亡くなったことは、私にとって最初の「核ショック」だった。それは、広島・長崎への原爆投下が、生まれる前のできごとだったのに比べて、いま現実に起こっていることとして、より具体的に「核」というものへの関心や、世界の政治体政治体制というものへの賛否の意識などが子ども心にも起こっていった事件でもあった。じっさい放射能を含んだ雨が頭上に降り、濡れると頭が禿げるといわれた。むしろ、そこから広島・長崎のことを、より身近な問題としてとらえるようになったともいえる。
この水爆実験は、マーシャル諸島の人びとに、莫大な被害を及ぼし、さらに当時、その海域で漁をしていた淮船が、第5福龍丸だけであるはずはなく多くの船が被害を受けていたことが、今では明らかになっている。
東京・夢の島にある「第5福龍丸展示館」へ行くと、これまで世界の核保有国が、いかにたくさんの核実験を繰り返してきたかに、あらためて驚かされる。〈5大国〉だけでも、アメリカ合衆国936回、ソ連649回、イギリス44回、フランス189回(今回の分を除いて)、中国36回(同様) と、計1854回にもなる。
このようなことがまかり通ってきた世界に、私たちは生きてきたのだ。さて、核廃絶はすべての人類が望んでいることなのだろうか。むしろ、核を必要とし、反核運動を快く思わない者が、この世界には存在するのではないか。戦後、日本の政府は、アメリカ合衆国の核実験に積極的に反対の意思表示をしてこなかったばかりか、アメリカ合衆国の同盟国として、その核の傘の下に、むしろそれを支えてきた。
アメリカ合衆国の同盟国、韓国もまたその核の傘の下だ。被爆体験がないので、人びとの間にいわゆる「核アレルギー」といわれるものがない。しかも、軍事境界線を抱えた停戦状態で、「逆に核の必要性」を実感しているともいえる。さらに、広島・長崎への原爆投下は、日帝の支配から自分たちを解放した、アメリカ合衆国は自分たちを解放してくれたとの世論が、戦後一貫して作られてきた。それは、アメリカ合衆国が韓国に駐留するためには必要不可欠の操作だったかも知れない。
韓国は、アメリカ合衆国の同盟国としては、軍事面において日本よりむしろ関係は深い。ベトナム戦争へも、韓国軍は直接参加し、最前線に配備された。朝鮮民主主義人民共和国の「脅威」に対するための、反共教育の行き届いた彼らは、米軍よりも残虐な行為を進んで行なったと、韓国の友人は話している。
ソウルでの原爆展のようすは、本号の別のところで報告しているのでここでは省くが、原爆展に反対してきた盧炳禮氏から、「さだ子と千羽づる」韓国語版に対しての批判的手紙が届いた。その内容は、原爆展に反対した理由とほぼ変わりがないのだが、この親米国粋主義キリスト者が、「立派な人だ」と評価している日本人の存在に暗い気持ちになる。
盧炳禮氏は、あなたがたには失望したけれども、日本人にはこのように立派な人もいるのだから、謙虚に学べと、日本の雑誌のコピーを同封してきた。それは、「学徒兵として動員された中国戦線で、旧日本軍の「刺突浪習」をさせられ、無線兵だったので殺数を強いられなくて済んだが、止めることが出来なかった」という人の「証言」と称するものだった。
この「証言」を読んで私は、とても憤りを感じているいる。当時、大学生といえば超エリート。一般の人びとよりも、その気になれば、さまざまな情報を手に入れやすい立場にあり、また、ものを考えたり、発言する術を獲得していた。それが、学徒動員されるまで、あるいはされてもなお、あの侵略戦争に反対もせず、あるいは積極的に、おめおめと侵略者になった男に、なにを学べというのか。しかも、当時は天皇の名によるマインドコントロールがあったと言い、その先兵であった教育機関と教師の責任を追及し、コントロールされた自らの責任はあいまいにし、「反省」という言葉を口先で言っているに過ぎない。日本はドイツと違い、元侵略軍の兵士で、虐殺を行なったと告白しても、身内や同じ元兵士から非難されることはあっても、被害者やいわゆる戦後の社会から徹底的に糾弾されることがない。むしろ、よくぞ言ってくれたと、もてはやされてしまう。
復員後、復学し、それなりの生活を送ってきて、今ごろ人前に出てきて、自責の念を晴らすためにか、「証言」するような男から、何を学べというのか。その時代に合わせた、体のいい処世術か。このような男は、自責の念にかられて、ひっそりと人知れず、あらゆる特権を放棄して生きればいいのだ。
その一方で、戦争に反対して、殺された者、特高の拷問にあった者……。これらの人びとは、忘れられている。日本という社会は、ほんとうに救いようのない社会だ。あまりの腹立たしさと悔しさに、私は眠ることができない。
この「反省男」は、広島・長崎への原爆投下についても、それを使用したアメリカ合衆国の責任には一言もふれず、「日本人が被害者としての意識をもつなら、原爆被害よりもむしろ中なる天皇という権力を頂点とした支配層、特に旧軍部、官僚特に司法官僚、日本資本主義資本、天皇一族等によって、あの第2次世界大戦(太平洋戦争)の途炭の苦しみを祇めるにいたったことを意識すべきである」と、権力と非権力、支配と被支配がいったいどのような関係として私たちを取り巻いているのかということを無視し、天皇、軍部が悪かったと言っているに過ぎない。自分もまた天皇制の被害者だといって、いわば命ごいしていることを、盧炳禮氏は理解できないのだろうか。
これがいたく盧炳禮氏に気に入られた発言で、彼が『さだ子と千羽づる』の感想のなかで述べた「悪魔的抹殺政策による暴悪な蛮行等を少しでも考えたら懲悪的原爆をくやしがって美国非難攻撃することは絶対しないでしょう。結局美国の原爆を非難するのは日本人は皆反省する誠実性や、罪意識は少しもない暴君たちの国なる証拠に過ぎません」(原文のまま。「美国」とはアメリカ合衆国の韓国での呼び方)との、考えに符合するわけだ。
なお、盧炳禮氏との会見については、山口泉さんも『世界』12月号の『虹の野帖』第2回)に書いているので、興味のある方はご覧いただきたい。
絵本『さだ子と千羽づる』を読んで——韓国から
『さだ子と千羽づる」を読んでの感想が、韓国の30代の女性から、届きました。これは、韓国とのあいだでパソコン通信による交流をはかっている宮内正義さん宛てに送られてきたものを、ご好意により掲載させていただきました。宮内さんは、『さだ子と千羽づる」斡国語版の翻訳者の一人です。
宮内さん宛てに、パソコン通信で感想を送ってくれた女性は、2日かけてこの本を読み、さらに職場の同僚にも見せて、感想を聞いてくれたようです。まず彼女は、NHKのニュースで、広島の原爆記念日の様子を見て、「あまりにも腹が立って最後まで見ることができなかった」「あまりにも日本の悲劇を強調しているのに比べて、日本の侵略によって犠牲になった人びとについて、まったく言及されなかった」と、怒っています。とくに、「従軍慰安婦」のことにふれ、韓国女性の立場としては、「むしろ、原爆を落とされたほうが苦しみはましだったでしょう」「日本に支配されることよりは、慰安婦として引っ張られていくよりは、創氏改名をするよりは、原爆投下を歓迎したはずです。人類と地球を考える余裕がない切迫した状況だったからです」と率直に述べています。さらに現在の日本に関しても「『原爆投下は正しかった』というクリントンの発言より、「いつまで誤らねばならないのか」という日本の官僚の発言が、さらにいっそう『遺憾』であることは言うまでもありません。アメリカは再び原爆を落とすことはしないだろうと考えるけれども、日本が再び戦争を引き起こさないだろうとは確信をもって語れないのです」そして「日本は『世界で唯一の被爆国」であることを強調してはなりません。どうしてそうしたことが起こったのか、先に説明するべきです」と言っています。
この女性は、職場の同僚にも本を見せて意見を聞いたそうですが、広島・長崎の原爆について、「人間を破壊するのは恐ろしい『武器』だけではない。日本の行為がもっと残酷だったし、もっと徹底して破壊した……それ以上でも以下でもありません……私たちは先に解かなければならない問題があります。心の中のしこりとして宿った恨(ハン)をまず解かねばなりません。その後で、理性をもって原爆について考えることができるのです。これは私一人だけの思いではありません。職場の同僚たちはもっと過激な言葉まで口にしながら、必ず伝えてくれと言いました」と結んでいます。 さらにこの女性は、歴史を専攻している学生たちにも感想を聞いてくれました。「長々と語りあったんだけれども簡単にまとめれば」ということで、紹介してくれています。
「原爆は不当だ。アメリカのエゴから出た無責任かつ残忍な行動だった。それ以前とそれ以後ののアメリカの行動を見ればわかる。すでに哀えてしまった、つまり終わってしまった戦争なのに、アメリカは試してみたかったのだ。結局、核を持っていなかったソ連よりも優位な立場で世界情勢をアメリカが主導できるようになった。韓国としても悲しいことだった。戦争があんな形で終わらなかったならば、日本の敗戦とともに韓国は自主的な独立を得ることができただろう。穏やかだった……日本の子どもたちの清らかな微笑みの上に落下する爆弾はほんとうにむごたらしいことだったし、最大の被害国である日本はいくらでも語る権利がある。戦争を引き起こした国だといって核兵器を使用しても良いという話はありえないことだ。日本人も(原爆は当然不当だけれども)自らを振り返ってみる態度をもつことが、日本のためにも、東アジアのためにも望ましいことだ。私たちが日本に対してだけ敏感すぎる反応を示している」と彼女自身や職場の人びととは異なった感想です。
これだけ熱心に感想を集めてくださったこの女性に感謝しつつ、また、韓国からの電子メールを翻訳してお送りくださった宮内正義さんにもこの場を借りてお礼申し上げます。
ここで論じられているようなことを、今後より広く深く考えていきたいと思っています。みなさんもどうぞ、ご感想をお寄せください。
浮島丸事件をダシにした、「金曜サスペンス」まがいの不潔な恋愛映画
エイジアン・ブルー 浮島丸サコン 監督・堀川弘通
オーロラ自由アトリエからさほど遠くない所に、東急東横線の駅名にもなっている、祐天寺という寺がある。ここで毎年8月24日前後に、地域の有志の手によって、朝鮮人犠牲者追悼会が開かれ、今年で7回目となった。祐天寺には「浮島丸事件」の犠牲者・BC級戦犯刑死者・ブラウン島戦没者などの朝鮮人の遺骨が、厚生省からの委託によって安置されている。その数は1140体、しかもほとんどは、創氏改名された日本名のままという。
厚生省が鍵を持っているので、住職も開けることはできないという納骨堂のいちばん奥にある黒い扉の向こうに、それらの遺骨は収められている。扉の前には小さな祭埴が設えられ、厚生省と名の入ったビニール製の小さな花輪状のものが置かれ、今年はさらに厚生大臣と名の入った同じものが、新たに追加されていた。聞けば、歴代の大臣としては初めて来たのだという信じがたいことだった。
この事件に関しては、今は終刊になってしまった季刊「三千里」に、NHKディレクター(1977年当時)菅谷耕次氏が、ドキュメンタリー取材メモとして浮島丸事件についての文章を寄せている。それによれば、12月の取材を経て、45分のドキュメンタリー「爆沈」として放送されたらしい。当時私のところにはテレビがなかったので、その番組の記憶はない。
今年の追悼会は、8月22日に行なわれた。場所柄もあってか、ここに集まる人びとは、比較的みな地味で、目立たない。そこに、なんとなく場違いな、化粧の濃い、華やかな、派手な感じの目立つ女性がいた。顔ぶれが毎年だいたい同じなので、いままで見たことのない、いったいあの人は何だろうと思っていたら、終わった後の懇談会で、宣伝のために来た、「エイジアン・ブルー」の主演女優であると紹介された。
ごたぶんにもれず、「この映画に出演するまで、浮島丸事件のことはまったく知りませんでした。今、あちらこちらでキャンペーンやってます。よろしくお願いします」と、「芸能人」を振りまき、他に予定があるからと、一緒に出席した監督と宣伝担当者とともに、そそくさと帰っていった。
私は映画の試写招待券を、追悼会を主催している人からいただいて、せっかくだからと見にいったばかりだったので、実に気分が悪かった。
この映画のタイトルは、「浮島丸サコン」と副題が付いている。しかし、実際は、それを刺し身のツマのように扱った〝歴史捏造低級ミステリー三角関係恋愛セクハラ映画〟である。浮島丸の犠牲者はもちろん、この事件の真相を究明しようと力を注いでいる人や追悼会を行なっている心ある人びとを侮辱している。
この映画の製作は、「平安建都1200年映画をつくる会」なるものが企画したという「平安建都1200年」っていったいなんだ。映画のオープニングにはこの文字が堂々と出てくる。それじたい驚きだ。天皇による侵略と支配の歴史を祝うといったような冠を、浮島丸事件を(たとえ刺し身のツマでも)背景にした映画につけるとは……。天皇によって強制連行され、徴用された朝鮮人犠牲者を、こうまでして冒涜しようというのか。
この映画の物語は……と書いて、説明するのもうんざりする。何しろ登場人物にも、物語の展開にも、なんのリアリティーもない。困っていたら、映画を見終[わったばかりのKさんとEさんが、大きな声で話している。
K「よくわかんない映画だったねえ」。だいたい浮島丸事件を扱うのに、主人公が日本人というのは変だよね」
E「そうだよ。それに、主人公の日本人姉妹の父、伯雲とかいう人物、反戦詩人とかいっちゃって、そんな人は実在したわけじゃないのに……」
K「何が『浮島丸サコン』よ。まるで、金曜サスペンスじゃない。家出した父親探しのミステリーとセクハラ大学教師と女子学生とその姉の三角関係。浮島丸事件や朝鮮人強制連行は、その舞台作りに利用されたって感じね」
E「自分たち姉妹と母親を残して家を出て、流浪の旅に出た父に対する思いとやらをやたら強調する妹もいやな感じよね。この人にとっては、強制連行の朝鮮人のことよりも、父に抱かれた記憶がないことの方が重要なんだから」
K「だからこの映画は失敗なのよ。映画全体を通して、植民地支配され、すべてを奪われた朝鮮人ひとりひとりの姿や思いは、その他大勢っていう扱いがほとんどで、影が薄いでしょう。この姉妹と父の生き別れや、説明不足でよくわからないけれど、父のせいで姉がかつて朝鮮人の婚約者と別れることになったという『暗い過去』などが、主人公姉妹が置かれた環境として設定されているけど、それがどうしたって感じよね。別にこの父は自分から好きで家出したわけだし……」
E「この父親って、浮島丸で朝鮮人の友人が亡くなったことが、心の傷となっているわりには、戦後すぐ結婚して子どもが2人もできるような家庭生活を送ったわけでしょう。そして、遊び心が出て家出した後は、女性関係もいろいろって感じよね。高橋恵子扮する女性の所に住んでいたというのを突き止めるシーンもあるじゃない。高橋恵子は愛人って惑じだったしね。そこらへんもいんちき臭い話だよね」
K「ところでこの映画は『建都1200年映画をつくる会』というのが作ったらしいけど、建都1200年って平安京、天皇の侵略と支配の歴史でしょ。何考えているんだろうね、この人たち」
E「天皇の軍隊が朝鮮を侵略し、植民地支配したというのに、その被害者のことを扱う映画の冠にするなんて、まったく神経疑っちゃうね」
K「父親探しのきっかけが、在日の大学教師が「建都1200年にあたり戦後50年を考える」という奇っ怪なレポートを学生に出させるところから始まるでしょ。これを作った人たちってよっぽど「建都1200年が好きなのね」
E「それでレポートの出来がいいからって、女子学生にフルコースをおごるでしょ。そんなことってあると思う? 今どきそんなことしたら、セクハラじゃないかなんて噂になるよね」
K「そうそう、それで「白状しろ! 君に書けるはずがない。ほんとうは誰が害いたんだ」なんて迫って、女子学生が口をとんがらかして膨れたでしょ。あの場面なんか、そこから大学教師と女子学生のポルノ映画になったって不思議はないような不潔さだったね」
E「たしか、「建都1200年祭」を推進したメンバーの、矢野暢京都大学教授って、部下に対するセクハラで訴えられたよね。ま、映画とは直接関係ないけど」
K「建都1200年『平安宣言』っていうのがあって、全世界に向けて、日本精神の神髄を広める』というのだけれど、京都市民の中では、まるで八紘一宇』だって批判され、反対運動も起こったんだって」
E「それなのにこの映画では、最後にもまた「建都1200年』が出てくる。なに、あの『白い大文字焼き』って……」
K「たいていの映画は、男女関係において、女性は浅はかな描き方されるんだけれど、ここでもご多分に漏れず、最後に姉がとんでもないせりふを吐いたね」
E「大学教師が姉との結婚をためらったシーン?」
K「そう。男がお互いの国の歴史的関係を思うと、自分たちはうまくいかないのではないかというようなことを言ったのに対して、女が、愛があれば大丈夫みたいなことをいうでしょ。あれじゃまるで男と女では、ものを考える世界のレベルが違うみたいじゃない。それが単純で浅はかに見えたけど、実はあの女のせりふがこの映画製作者たちの本質よね」
E「だから、あんな映画が平気で作れるのね。「『戦後日本』に人間として生きることの苦難」(山口泉『新しい中世がやってきた』)というのがない、ノーテンキな人たちには、何を言ってもわからないかもね」
学校にまにあわなーい⑥
教師はいじめの種を蒔くな!
「いじめ」が深刻な問題になっているようだ。教職員組合が、「いじめをなくすためにはどうしたらいいか」と研究会を開催したりしている。この連載で何度も書いていることだが、日ごろの教師の言動が〈いじめ〉につながっているとは、本人たちが気付いていない。これは救いようのないことだ。日本教職員組合などでは、たいてい社会全体の問題として、たとえば、受験体制による弊害があげられたりする。しかし、子どもの世界は狭く、よくも悪くも最も影響を受けるのは、毎日の学校だ。教師の言動は大きい。ほんのちょっとした無神経な発言や行動。自主性を伸ばすと称して、何でも子どもたちにやらせることの結果、仲間外れを生み出してしまう「学級作り」。残念ながら、まず自分たちの専門性とやらに疑問をもつ教師は少ない。
この連載の小学生も、いつの間にか卒業を控えている。6年生の2学期は、やれ謝恩会係だの、卒業アルバム係だのと、忙しい。その係を決めるのに、ひと騒動あった。
じゃんけんで勝った人から自分の好きな係に名札を置くというようなことをやったらしい。しかし、そういうときの小学生のじゃんけんなんて、たいていいんちきだ。ひそひそやり合って、日頃仲のいい人が同じ係になるように仕維まれた結果、1発のじゃんけんですべてが決まってしまい、「ひそひそ」から排除された数人が残ってしまったという。その数人が、それぞれ別々の係になれば、それぞれの係内で孤立する関係になっている。
小学生くらいの子どもは、どの係をやるかより、誰とやるかが問題なのだ。いくら教師が「自分のやりたい係を自分で決めて欲しい」と願望したって、それはおとなの勝手な思い込みに過ぎない。教師が子どもの向き不向きを判断して決めていったほうが、傷つく子どもが出なくてよっぽどいいと思うのだけれど、専門家は、なぜか「子どもの自主性」にこだわる。こうして〈いじめ〉の発生しやすい日常を作っておいて、こんなカードを子どもに配る東京都と総務庁、まったくなにを考えてるんだ。
いじめを苦にしての中学生の自殺が相次いでいる。千葉県香取郡の中学校での、緊急生徒集会をテレビで見た。体育館で校長が、「命は尊いので、「大事にするように」などと空とぼけたことを言っている。体育館に並ばされている生徒の列の後ろ姿が画面に映る。なんと不思議な光景だろう。そこに映し出された生徒は全員、同じ学校の生徒が数日前に自殺したというのに、なにか機械人形のようにあまりに整然と並び、同じジャージ姿で、全く同じように、後ろで手を組んでいる。ここの中学校の日常をかいま見た思いで、ぞっとした。悪名高い、千葉県の管理教育が問題とされてから、何年たっただろうか。
だいたい、校長のあの「命が云々」などという説教はなんだ。まるで死んだ者が悪いとでも言いたいような……。責任を感じている様子は微塵もない。説教たれる前に、全校生徒に土下座しろ! それから責任とって辞職しろ!
先日は、千葉県の教育長会とやらも行なわれたそうだ。そこでも出てくる言葉は「命の大切さを教える」だって!なんと傲慢な奴等だろう。自分たちの教育の結果、人の命が奪われているというのに……。「命の大切さ」を学ぶのは、人が死んだことの意味がわからない、おまえたちだ!
数学と自由
江戸時代の文化の特徴は、キャベツを品種改良して葉ぼたんを作り出してしまうあの遊び心であり、数学もまた遊び心の例外ではなかった。日本の庶民が趣味として数学を楽しんでいたおなじころ、ヨーロッパの数学はどんなものであっただろうか。自然科学と深くかかわりながら発展して来たのが、日本とは対照的なヨーロッバの数学の特徴である。 さて、科学というと科学技術を思い浮かべる方があると思うが、この2つを混同してはならない。いまや飯を炊くのさえも微妙な火加減を電子工学に頼っているが、こういうものを作るのは科学技術であって科学ではない。科学技術を支える役割も科学にはあるが、そもそも自然を知ることが科学である。大自然の神秘の中に法則を見いだすのが、科学の使命である。太陽が東から昇って西に沈み、月が満ち欠けをくり返し、春夏秋冬の季節がめぐる。水はつねに低い方へ向かって流れていく。大昔の人もそういうことを見て何か法則のあるのを感じていたであろう。そして、その法則を知りたいという欲求も生まれてきたであろう。 古代エジプトではナイル川の毎年の氾濫を予測する必要があり、そのために1年の長さが365日と4分の1という観測結果を得ていた。現代のデータとくらべて誤差12分ほどという精度、それを時計も望遠鏡も使わずに得ていたのである。一方、中米のマヤでは1年の長さを誤差約20秒という驚くべき精度で計測していたといわれる。古代ギリシャでも惑星の動きを解明しようとつとめたり、月や太陽までの距離を測定しようとさえ試みられていた。さて、ヨーロッパでは暗黒時代が去りルネッサンスが興って芸術や学問が復興すると、自然界の神秘の中にひそむ法則の探求がふたたび熱心に行われるようになる。 リンゴの実が落ちるのを見て、ニュートンは重力(万有引力)の法則を発見したと伝えられている。しかし、ニュートンが偉大なのは、リンゴがなぜ落ちるのか、月はなぜ落ちてこないのか、一見矛盾するこの2つのことを同じ1つの理論で説明したことにある。静止していたリンゴは枝を離れた瞬間からまっすぐに落下を始め、地球のまわりをまわっている月はいつまでもまわり続ける、そういうことを重力の法則と力学の法則から理論的に導き出したのがニュートンの業結である。 ニュートンは彼の法則を数学的に記述するために微分、積分、微分方程式の理論を創り出した。重力に従って動く物体の動きはすべて微分方程式で記述される。リンゴでも月でも惑星でも、同じ種類の微分方程式であらわされる。その微分方程式を解いて、どんな軌道を描いて動くかを知ることができる。リンゴが一直線に落ちるのも、月が楕円軌道を描いて地球のまわりをまわり続けるのも、惑星がやはり楕円軌道を描いて太陽のまわりをまわるのも、すべて同じ微分方程式の解の1つとして数学的に導き出せる。 惑星が公転する軌道が楕円形であり、太陽は楕円の焦点のひとつに位置していることや、惑星の公転する速度についての法則がケプラーたちの詳細な観測によってすでに知られていた。しかし、惑星がなぜそように動くのか、理由はわかっていなかった。それが、ニュートンの重力の法則ですべて数学的に説明できたのである。どの惑星がいつどこに見えるか、彗星がいつまためぐってくるのか、そういうことがすべてわかる。これこそ数学の威力である。 その後も熱の伝わり方を考えるための理論が編み出されるなど、数学の理論はしばしば自然現象をモデルとして構築されてきた。自然現象を観察し、それを数理の言葉で記述しようとするのが近代ヨーロッパの学問の1つの特徴である。もちろん、ヨーロッパの数学も自然現象をモデルにした理論ばかりではない。純粋に理論的な輿味から考え出された理論もある。しかし、おもしろいことに、応用とは無縁と思われたそういう純粋数学の理論も、のちに自然界の法則とのかかわりが見いだされることがまれではない。 数学を「天地創造の神の語った言葉」と見て、自然界のもろもろの現象を数学の力を借りて解明しようと努めてきたヨーロッパの考え方は、やがて世界に広まり、もはやヨーロッパだけでなく人類すべてのものになった。現代数学と自然科学とはたがいに助け合いながら発展している。数学的な扱いは無理だと思われていた複雑な現象まで、いまは数学で解明しようとする研究がさかんにおこなわれている。自然を理解するには数学の力が欠かせない、そういう考えはますます強まっている。 ここで振り返って和算について思い出してみよう。ヨーロッパとちがって、自然科学とは縁がなかった。応用は土木・建築や商業などに限られ、自然の神秘を解明するという目標をもたなかった。自然現象をモデルにした壮大な理論を構築することがなかった。江戸後期になるとひたすら計算の技巧を凝らし、図形の美しさを競い、いまの理科系の大学院生にも解けないような難問をただ楽しみのためにつぎつぎと生み出していった。 自然科学とたがいに影響を及ぼしあいながら発展してきたヨーロッパの数学に普遍的な価値を認めるのに対し、自然科学とかかわりをもたなかった和算を堕落したものと低く評価する見方もある。しかし、庶民が数学を趣味として楽しんでいたことは誇るに値することと私は思う。自然科学の影響がなく、発展の方向を見失って技巧の袋小路に入りこんでしまった感は否めない。しかし、自然科学に結びつくことと趣味性とは何も相入れないことではなかろう。自然科学とかかわりながら、しかも趣味として楽しみ得る、そういう数学が望ましいと思うのだが、読者のみなさんはどうお考えになるでしょうか。
《ふりかけ通信》第16号
【編集後記】
【2023年の編集後記】
▶︎「それは、アメリが軍が落とした原子爆弾でした。(中略)3日後、長崎という町にもピカは落とされました。2はつ目の原子爆弾をアメリカ軍はおとしたのです。」(『さだ子と千羽づる』p18)広島でG7サミットが開かれる。これを不問にしたまま。
▶︎絵本『さだ子と千羽づる』英語版の翻訳引き受けるとの契約(口頭ではあるが)を破棄した方は、日本の大学教授として著書もあり、反戦活動家としても著名な方です。フェリス女学院大学の面々も、好意を持っていただけにショックは大きかったと思います。
▶︎山口泉さんの解説の翻訳チェックを頼んだ方も、彼女たちが英語の先生として慕っていた方のようで、断りの電話お受けた時は皆が待機していたのですが、あまりのショックで泣き出す人もいました。
▶︎英語の翻訳が難航しているとの記事が新聞に掲載されたのですが、その日のオーロラ自由アトリエの留守番電話には、テープが切れるまで(当時は録音テープでした)メッセージがいっぱいで、いずれも、「大学生のくせに自分たちで翻訳ができないのか」という非難めいたものでした。
▶︎最終的に翻訳やネイティブチェックは、この事態を知った日本の新聞社の英語版セクションの方々が、引き受けてくださいました。
▶︎絵本『さだ子と千羽づる』を刊行したのは、今から39年前ですが、当時、著者グループであるフェリス女学院の学生たちは、家族や交際していた男性から「政治的なことに関わるな」とか、「偏った考えを持つな」とか言われて、悩み、交際するのをやめたり、親に内緒で続けたりしました。
▶︎タイトルの画像は、2009年8月の広島平和公園での朗読会で。
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