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商品から作品へ

今でさえ、自分の作ったものを「作品」と言えるようになったけれど、
実は最初のころは「商品」と言っていたし、作品名なんてものもなくて、制作年月日などを羅列して型番のようにし、それぞれ見分けられる程度にしていた。

話は遡るけれど私は出産を経験し、たまたま受けた定期健診にてガンの疑いが見つかり手術、完治の診断が出るには数年の経過観察が必要だし、悪くなる可能性もあった。その期間中にすがるように武蔵美に入って、造詣を学んでいく過程で、どうしても「課題ではない自主制作」をしたいと思ったのがきっかけだ。それはきっと入学前にした手術の、経過観察を数年続けていく中での不安感を紛らわすような、「他者を感じない・または評価されないもの」を作ってみたかったのかもしれない。もしくはSNSで「作られた世界観・リアルなようで決して真実ではない演出された日常」を今では簡単に誰でも作って配信できる世の中に、何か救いを求めていたのかもしれない。

さらに話を遡らせると私は映像作品が好きで、中高生の頃から劇団に入り、演劇の稽古をしたり、ドラマや雑誌などの被写体として活動していた経験があった。当時私が活動していたころなんてSNSもスマホももちろん無かったし、片道2時間かけて現場に入り1時間かけて撮影したVTRも、放送されたら数秒なんて、当たり前だった。というより「その程度の仕事しかもらえなかった、のだけどね。
あとはオーディション、これも片道数時間、発表の場数分、落ちたらおしまい。ギャラでない、交通費もでない。とか。受ければ何かしらの媒体にはもちろん出れた。塾のパンフレットとかそのプロモーションビデオとか笑
きらびやかな世界でたいした仕事を得ることはできなかった。でも楽しかった。プロの俳優・プロの監督・本物の音響機材・カメラ…3次元の世界をカメラという機械を使って2次元に変換する作業としての現場、空気。
撮影の傍ら、ずっとその「プロの仕事」を観察できたのは何にも代えがたい経験だった。

少し話がそれてしまった。そう私はまず「作られた世界観・リアルなようで決して真実ではない演出された日常」を作ろうと思った。今あるものと自分の作ったもので彩ってみようと考えた。それにはやはりSNSとスマホは最適なのは言うまでもない。それと今自分が一番気になっているもの「タペストリー」だ。簡単に部屋を明るく彩れる。眠れない夜はひたすら海外の動画サイトで作り方を見て試行錯誤。武蔵美のテキスタイルのスクーリングでもたくさん技術を学べた。日本語で作られたテキストがほとんどなかったのには困った。(のちに自分でテキストを作ることになり、講師もすることに。これはまたのお話)一心不乱に織った。自分の体のこと、まだ小さい子どものこと、深く考えたく無かったのだろう。そんな精神状態だった。頭にふと「織る・折る・祈る」なんて変換されたものが浮かんだ。取り留めのない連想だけど、今でもふと浮かぶフレーズ。ここに成仏させておく。

まぁ、そんなわけで出来上がったものをいい感じにディスプレイして撮影してSNSにUPしてみたりして承認欲求を満たしていた。楽しかった。

ある時からコメントで「譲ってほしい」「オーダーできませんか」と聞かれはじめる。そんなこと言われるの嬉しいに決まってる。性格的に個人間での売買とか、怖いな、と思ったのでSTORES'JPというサイトでWEBSHOPを作ってみた。張り切って独自ドメイン取得して自分のコーポレートサイトも作る。そのくらい嬉しかったのだろう。でもだからと言って本当に誰かが買ってくれるなんて、半信半疑だった。「自分を売り込む」ことの大変さ、厳しさはもう演劇をやっていた頃に痛いほど感じていたから。だからもしかしたら、売れなくても怖くても行動することができたのかもしれない。売れないのが当たり前と知っていたから。

(のちにSTORES'JPとnoteのトークイベントに登壇することになるなんて思いもよらない)

WEBSHOPの準備もできた。その前に地元のマルシェに出て人々の反応でも見てみようかな、なんて欲も行動力も出てくる。今思い返すと私すごい。そのマルシェのFBページに自己紹介をしていいよとメンバーに入れてもらい作ったものの写真をUP。あと新年だったから福袋企画もありそれにも参加。福袋の企画はそれぞれの出店者の粗品程度のプレゼントを協賛(その際ショップカードの同梱も可)というもの。最初からそんなものない私はわざわざキーホルダーのようなものを作った記憶がある。限定5個。完全赤字。たしか手書きでなにやらメッセージを書いたりもした。有り余るエネルギー。のちに福袋の購入者から「良いものをありがとう」とメッセージも貰った。赤字だけど報われた。

マルシェ当日、まさか売れる。オーダーまでもらった。しかも小さい手ごろな数千円のものでなく1万円くらいの大きなものがいくつも。どうやらFBを見て、気にしてくれたみたい。そのマルシェ、クッキーとかキッチンカーとかお花とか比較的お求めやすい系のそういったものがほとんどを占めるのに、売れてくれたのは、本当に本当にありがたかった。近所の公園の広場で行った最初の小商い。

残ったものたちと新しく作ったものを少し足して今度はWEBSHOPにも出してみた。それも数日のうちに売れてしまった。売れないことに慣れていた私は本当にびっくりしてしまい、うれしくて仕方がなくてどんどん新しいものを作った。作っても作ってもすぐに売れて、常に締め切りに追われる数カ月。

そんな中出版社から取材の依頼メールがやってくる。取材時、はじめて「作品名は?」と聞かれてハッとした。いままで気づかなかった自分にも驚くけれど、こうして人に聞かれてはじめて、自分が作ったものときちんと向き合うようになったかもしれない。もちろんその場で答えられなかったので、よぉく考えて後日メールすることとなる。

こうして当初自分の中にあった「他者を感じない・または評価されないもの」というコンセプトはSNSにUPした時点で消え去ってたよね、と今考えたら当たり前の話なんだけれど、誰も見ていないSNSなら存在しないも同じというとらえ方もできるわけで、回りまわって「圧倒的に評価されるもの」となったものたち。もはや「作品を作った」というより「作品になってしまった」というのが正しいのかも。見られることを意識せずに作られたものでも見られたらそれは評価されてしまう。最初のうちは商品と呼んでいたのだけれど、これがきっかけで自分でも「作品」と呼べるようになった、そういう勇気をもらえた。

そうして堂々と作品と呼べるものを作れたという妙な安堵感というのは制作するうえでは害になることもままあり、他者を意識すると無意識にまで及んでしまうのが「要望を受け止める」とか「ニーズ」とかいうやつ。これは曲者で、ここをカバーしつつ自分の領域で表現、なんてまだまだ自分の手に負える範疇じゃない気もしながら、やってしまうわけである。ましてやたくさんの「お店」での展示販売となると。「作品」だけでなく「それを置くお店」あっての「作品」なので、それを考慮せずに制作するスキルを私は持ち合わせていない。

ある時私を引き抜いた(?)ディレクター的な人に「最近は売ろうとしてるよねぇ」なんて言われてドキリとしたけれども、(だって”売れなきゃ”お店に悪い!し、”売るため”にお店に置くんでしょう??)こちらも作品を知ってもらうために展示するわけであって、どうしても「自慰的な」ものばかり並べるわけにはいかない…。ニーズに合わせたベースに垣間見える自己主張というか。今思うと世俗にまみれすぎていたのかもしれない。

そんなこんなで相当多忙な数年間を過ごし、目標を果たせたので、それを一区切りとし、露出を控え自分と自分の知識ときちんと向き合うことにした。

作りたい!やってみたい!嬉しい!楽しい!と勢いでやってこれたのは幸運で、これらがなければ自分の病状とどう向き合っていたのか、考えるのも怖いくらい。いまでは完治診断もでて、年に一度の定期健診のみになった。(医療保険にもあらたに加入できるよ、ありがたや)

今日の朝ドラ「スカーレット 1/8放送」では美術商が、感性と勘で作品をつくる喜美子について、「それだけならいいが、怖いのはこれに知識がついたとき」と言っていて、ほんとうにそうだな、と思った。勘と要領でいままで上手いこと行けたとしても、知識をいれることにより、さらに磨かれるか、それともダメになるか。分かれ道だとおもう。何かで作品(人?)はすぐにダメになっていくか、ゆっくりダメになっていくかのどちらか、ときいたことがある。

どうせダメになるならできるだけゆっくりがいい、そう思ってしまう私はこれからどう自分の「作ったもの」と向き合うかについて向き合わなきゃな、と思うのだった。



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