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三年目の「復活」

一日の狂いもなく

2021年7月5日最高裁が麻原さんの遺骨引き渡しを決定した。
2018年7月6日の処刑から、ぴったり三年目になる。

二千年前、ナザレのイエスという人は処刑されて三日後に復活したと言い伝えられている。現代の日本で「キリストになれ」という神の啓示を聞いた麻原さんの遺骨は、処刑から三年後再び娑婆に出てくることが決まった。象徴言語では「三日」と「三年」に違いはない。

「今でも、キリスト神話がどこか作用しているのかぁ」と思った。

麻原さんの人生をたどってみると、キリストの神話と重なるイメージがある。このブログでも「12人の弟子たち」ということや「畳職人の子どもに生まれたこと」「『ちくしょう、なんでなんだー』と獄中で叫んだと伝えられていること」などを「イリュージョン」として取り上げた。これ以外にもいくつかキリストの神話に似たパターンがあるのだが、それに気づいていた私も、今回の判決で、一日のずれもなく「三年」で復活すると決まったことに少し驚いている。

神と悪魔

このような象徴言語や神話の意味を理解する人は少ない。しかし、そこになにかを感じとって中途半端にわかってしまう人もいて、「やっぱり尊師はすごい。神だ!」などと言い出して興奮したりする。あるいは「遺骨は国が責任を持って海に散骨するべき」などと、一人の人間を国家的な悪魔扱いすることも逆張りであるが同じだ。

象徴というものの周囲には大きな心的エネルギーが働いているから、気づかないうちに意識が巻き込まれ、あっという間に「神だ」「悪魔だ」などと、妄想的で誇大なことを言い出すようになってしまう。まるで末期のオウムのように。

冷静に考えれば、こんなことは麻原さんが意図して操作できることではない。普通はこれを「偶然」と言い、深層心理に詳しい人なら「共時性」「コンステレーション(布置)」などと言うだろう。要するに同じイメージが働いているのだ。(*)

キリストと自己犠牲

かつて麻原さんはキリストについてこういう意味のことを言った。

「イエス・キリストは大乗のボーディサットヴァ(菩薩)だったが、弟子たちが愚かだった。それはその後のキリスト教の歴史を見ればわかる」

キリスト教はイエス・キリストを信仰し崇拝するが、「他の苦しみを背負う」というキリストの精神を身をもって実践する人はどれほどいるだろうか。麻原さんも「自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする」(苦の詞章)と教えたが、私を含めどれだけの弟子がそれを実践できたのかは疑問だ。麻原教祖を宗教的権威としてまつりあげて、信じたり祈ったり崇めたりする方が自己犠牲よりはるかに楽なのだ。

誰が生贄を求めたのか?

麻原さんが聞いた「キリストになれ」という神の声は、いったいどこからきたのだろうか。私はオウムという経験を通して考え続け、そういうものは社会の深層(無意識)から来るのだろうと思うようになった。社会などと大きなことを言わなくても、あのときオウムにいた私たちの深層からの声であったことは確かだと思っている。“キリスト”を望んでいたのは私だったのではないのか、と。

二千年前のキリストは磔(はりつけ)にされ、12人の弟子たちも一人を除いてみんな非業の死を遂げたそうだ。オウムの実行犯も林郁夫さん一人を除いて全員絞首刑になってしまった。このような同じパターンの物語の繰り返しから脱却すること、すなわち輪廻から解脱することが麻原さんが説いたことの核心だったはずなのに、私たちはいつからか盲目的に信仰し、崇拝するようになってしまったのかもしれない。そうすることの方が自己犠牲より、やっぱり楽だったからではないだろうか。オウムの結末の悲惨さはともかくとして。

キリストを崇拝することと、キリストのように生きることはまったく別のことだ。麻原さんの人生にキリスト像を重ねて「救世主だ」と崇拝するなら、その人は麻原さんの弟子ではないということになる、と私は思っている。



(*)共時性とは「意味のある偶然の一致」ともいわれる。コンステレーションは「布置」と訳され、もともと「星座」という意味。夜空に見える星の集まりに対して、人間の心はある特定のイメージを見て物語を生み出す。人類共通の「集合無意識」の投影である。ユング心理学では、イメージを生み出す根本には「元型」があるとする。(オウムの教義でいうところの「コーザル」に相当すると思われる)


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