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Well Jiing !! 第1章、変化は常

◎コロナ禍の学び

私自身はお葬式を扱う会社に10年勤務し、その後、都内のお寺でお墓やお葬式の相談窓口として5年勤めています。お葬式やお寺の世界にいるこの15年間で、エンディングに関わるニーズは少しずつ変化をしてきました。

例えばお葬式においては、家族葬や火葬式が市民権を得、お墓においては、樹木葬やビル型納骨堂、永代供養付きのお墓が広く普及しました。

さらに令和になってほどなくして、新型コロナウィルスが世界を震撼させます。以降、三密の回避、リモートワークの普及など、新しい生活様式を求められ、多くの市民は出会ったことのない不安を与えられています。

アルファ…デルタ…、ウィルスは次々に変異して性質を変え、宿主を増やし、ウィルスとして生きのびます。「生命体は生きるために生きるのだ」あるいは「生き続けるために子孫を残すのだ」という、日頃ヒトとして生きている中で忘れがちな「リアリティ」を思い起こされます。そして、地球上で最も強い(はずだった)ヒトの「弱さ」や、生物としての生まれる奇跡、いつ亡くなるかワカラナイ「偶然と必然」に久々に再会した感覚があります。

「生きる事より大切な何か」に、瞬間瞬間で振り回されながら生きている事に気付かされたのも私だけではないのではないでしょうか? 名誉、金銭、など文字や数字にできる事を大切にする日常では、どこか生命体としてバランスを崩し、結果としてヒトの社会にも地球にも様々に負担をかけているのかもしれない。雨がまとめて降ることが増えた日本で、生きること、ヒトのあり方を様々に考えさせられます。

◎お葬式の変化

新型コロナウィルスの感染が本格化したころ、有名人が亡くなってご遺骨で家に帰るというニュースには、大きなショックを受けました。お別れも火葬の立ち合いもできない。何しろ世の中全体にウィルスへの恐怖心が蔓延していました。(その後、新型コロナウィルスで亡くなった方のお葬式は、納体袋で棺に納めることで可能となります。)

そのような中、元々増加していた火葬式は、「三密回避」としての価値から、「安く済むから」だけではなく、れっきとした市民権を得ることになります。(火葬式とは、通夜やお葬式・告別式を行わずに、火葬場での火葬を主とした形態。)

そして、通夜を行わない、一日葬も市民権を得ます。一日葬は、無宗教の方などのニーズに応える形態として以前からありましたが、これもやはり三密回避につながる価値が認められています。そもそも通夜は、地域性にもよると思いますが、近い方々で故人を夜通し囲む、グリーフケアとしての価値・役割があります。(通夜の起源はお釈迦様が亡くなられた時、ご遺体を見守りながら生前のことを語り合ったという故事が起源とされています。)

しかし、親族の住まいが各地に分散したり高齢化により、なかなか夜通しは難しくなり、ホールで行うお葬式も増えたことで、「火の元も危ないですし、明日もありますから」等の理由のもと、ご遺体を囲む通夜は徐々に少なくなってきたと推測します。

何より、家族葬の普及が通夜の存在価値に大きく影響を与えました。地域や一般の方に顔を見ていただかないなら、今日も明日もほぼ同じ参列者なら、一日で良いのではないか?グルーフケアより優先せざるを得ない、親族の健康状況(介護者がいる等)、煩わしいことを避けたいというニーズもあるでしょう。

もちろん、お葬式が必要な状況は様々あり、悲しいご事情の中で少しでも長く寄り添って故人と過ごしたいというニーズは存在します。ただ、多くの死は、医学の発達により、病気との因果関係、医学的な判定に基づく事になり、古のように死が「怖い」「ワカラナイ」という存在ではなくなったことも、通夜の意義の低下の一因として考えられます。死者の復活を期待したい想いも、科学的な根拠の前に論破されてしまうのが現代社会なのです。そうなると「供養」というものはどうすればいいのか、ここにお寺は改めて価値を産めないものでしょうか?

◎変化を受け入れる現場

お葬式の現場を支える大きな存在である葬儀社とお寺は、火葬式、一日葬の増加についてどう対応しているか、考えてみたいと思います。

葬儀社の扱うお葬式のうち、火葬式の割合は年々増加傾向にあります。東京都内では約7割が火葬式と言われます。必然的に、昭和のバブル期のような大きな規模のお葬式(大きな利益を残せるお葬式)は減少していきます。インターネットなど情報技術の進化により、ネット検索での価格比較など、営業活動も苛烈を極めます。ユーザーに選ばれる要素はどこにあるか?どのお葬式社さんも大変な状況のなか、工夫を重ね、各社の強みを訴求されています。価格を打ち出して受注する以上、火葬式でも会社として納得しうる利益は確保されているはずです。

ご遺族が通夜を行う家族葬を希望されたたとしても、コロナ禍にあっては通夜振る舞いを控える傾向にあります。料理に関わる利益も見込みづらく、小規模な場合は供花や返礼品の扱いも減少します。そうなると葬儀社の中には、人件費を考え「一日葬という方法もございますよ?」という提案をするかもしれません。

では、お寺は火葬式や一日葬とどう向き合うか。宗派や各ご住職によりそれぞれのお考えがあると思います。お寺に訃報の電話があってご遺族が火葬式を希望されていたとしても、せめて火葬場での読経や四十九日法要などはさせて頂くよう、調整をなさることもあるかと存じます。供養の機会がゼロではお寺の立場も危ぶまれますから、ご遺族の意向を無下にはできないことでしょう。

ご遺族が一日葬を希望した場合はどうでしょうか。「必ず通夜は行うべし」と主張をされるお寺もおありでしょう。しかし今はwithコロナ。三密回避のためには一日葬の方が良い、という理由が誕生した以上、「通夜は行うべし」とかつてのようには言いづらい。また、前述の葬儀社の事情により、葬儀社が一日葬を暗に勧める背景があることも念頭に入れていただく必要があります。(通夜の実施を普及させたい立場のお寺があれば、通夜の存在価値を高める工夫や、お葬式の相談を第一窓口としてお寺が受ける仕組みの構築が求められます。)

かくして、火葬式や一日葬は、お葬式の現場を支える葬儀社やお寺から反対はされない状況になり、ご遺族からしたら「賛同を得た」といえる状況となっている、といえるのではないでしょうか。

◎死と生がつながるお寺

死者を弔うことは、死者のためであり、残された者のためでもあります。一人の人生が大団円として終演を迎え、その人生から学びを得、死者と共に明日から生きていく。そのような感覚で命のつながりをもたらすことができれば、死者への感謝と、自分の人生をしっかり生き抜く力につながるのではないかと思います。終戦後の日本では、遺骨のない戦死者のためにお墓を建て、供養に努めました。その想いはやはり、生きていた家族と私を繋ぎ、これからも生きるための何かしらの力を得るためだったのではないかと想像しています。

死はゼロではなく、一人の一生には様々な物語、積み上げたものがあるのです。そして、生きている時間、誰かに何かを与えていることも人の存在理由の一つです。たとえ胎内で亡くなったお子さんも、悲しみと比較できない喜びを親へ与えられた。当事者にしかわからないにしても誰であれ、誰かに喜びを与えてきた存在なのです。一人ひとりの人生を(=今を生きる人の人生を)ライフストーリーとして紡いでゆくことを形にして行きたいとも想います。

横の繋がりにもデジタルデバイスを活用することが増え、生命体としての生身の繋がりは弱化している世の中だと思います。社会的孤立から他者を害する事件のニュースも多くなったと感じます。例え、いま横の繋がりがなくとも、縦の繋がりが自分にはある、たくさんの先人の生き方を自分は知っていると思えれば、一人ではない感覚を醸成できるのではないか?理想論かもしれませんが、西洋の個人主義とも異なる、繋がりのある生き方を次の世代に伝え、ヒトへの活力をもたらせたらと願います。

そのような取り組みの拠点として、長く死を扱ってきたお寺はやはり魅力的です。例えば、境内で家族写真を毎年撮る、お孫さんが知らないおじいちゃんの人生を一冊のノートにしてあげる、たくさんのライフストーリーを学べる図書館を作る、など生きる人につなぐ供養はできるのではないか?そして例えばお孫さんが困っていることを傾聴し、必要に応じておじいちゃんはこう言っていましたよと紹介したり、社会資源を紹介したり、何しろ、生きている人に対して、過去もつなぐお寺だからできる取り組みがたくさん思い浮かびます。

死と生をつなぐ、価値や意義を与えるお寺であって欲しい。そうすれば、色々な相談のために人はお寺に集い、市民が安心して生きられる。

そのようなお寺の在り方に期待を込め、考え続けたいと思います。

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