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オーディオマニアの音楽経験値について思うところ

先に原音再生について書いてみましたが、インターネット掲示板やSNSで「原音再生」議論が巻き起こる場合、個々人で実は定義の異なる「原音再生」が渾然一体となってしまい、互いにその違いを理解していないために荒れてしまうケースが少なくありません。

特に短文ブツ切れSNSのTwitterでは、丁寧に説明しても文脈を理解出来ない人が高確率で出てきてしまい収拾がつかなくなりがちですし、僕自身も、無意識に「原音=生演奏」と相手も考えている前提で話してしまうので、途中で相手側の定義が実は違う事に気付いたときには、既に議論がかなり拗れて後戻りできなくなるケースを何度も経験しました。

✅オーディオマニアには色々なタイプの人が居る

特にオーディオマニアと呼ばれる人達については、オーディオマニアだから必ずしも本当の意味で音楽が好きとは限らないし、自称音楽好きにしても生演奏の経験値が十分にあるとは限らない。といった理解が必要になると思っています。

僕などはついついオーディオはあくまで音楽再生のためのツールであって、音楽を愉しむのが「主」で機材趣味は「従」という風に考えてしまうのだけれど、実際のオーディオマニアには色々なタイプがいます。

最初に電気工作の趣味や技術論が入口でオーディオ「機器」に興味を持ったタイプや、音楽好きでも生演奏の無いジャンルがメインの人達、実際には「音楽」よりもずっと「音質」に拘る人達、はたまた音質すら通り越して、(カメラ趣味などでも良く見かける)オーディオ機器を集めたり所有する事で、ステイタスを感じることが主目的になってしまう人達など、潜在的な流派は種々様々です。

✅生演奏を聴く経験が乏しいオーディオマニアは少なくない

個人的にこれまで多くのオーディオマニアと接する機会がありましたけれど、オーディオマニア、特にハイエンドオーディオマニアで、マイクを通さない声や生楽器を使った生演奏を聴く体験、経験値が殆ど無い、それどころか全くない人は実のところ少なくないと感じています。インターネットの掲示板やSNSでオーディオマニアと仲良くなり、オフ会に赴いたり少し突っ込んだ話をすると途中から話が噛み合わなくなることが屡々あるのですが、そんな時は生演奏体験について訊いてみるのです。そうすると、どうやら能動的な楽器経験どころか、リスナーとしての生演奏もほぼ未経験のケースは枚挙にいとまが無く、むしろこれ、オーディオマニアあるあるだったりしないでしょうか...( ³△³  ).。o

機材を設計販売するオーディオメーカーのエンジニアなどでも、オーディオ誌の紙面インタビュー等で音楽経験が殆どない事を語る、仄めかすケースについてもこれまでに何度となく目にしてきました。まともに音楽経験が無いのにオーディオ制作が良く出来るなぁ!?と驚くのですけれど、考えてみれば技術的には99%電気工学と+α音響工学の分野ですので、音楽の知識や経験は必ずしも必要ありません。逆に音楽の知識や経験が幾らあっても、せいぜい市販の部品でスピーカーを組み立てる程度のオーディオ機器しか作れない訳ですから、ある意味当然といえば当然の話ではあったりします。

✅生演奏経験の有無はオーディオへのスタンスの違いとして現れます

生演奏の実体験が豊富にあるオーディオマニアとそうではないオーディオマニアと大きな違いは、前者では生演奏の経験がオーディオによる音楽再生の客観的基準として、意識的、無意識的な縛りになるのに対し、後者には個人の主観的好き嫌いと感性以外に、正しい音の基準がそもそも存在しない点です。

後者の人々は、再生機器やアクセサリーを素材にして、自らがイメージした音楽世界を再現するために、ある意味、自由な感覚で再生芸術に取り組むことが出来ます。対して生演奏が体に染みこんだ前者は、意識的、無意識的に、正しい音とはこれ!となる、感覚的な縛りとなる客観的な比較基準が存在する事になります。この場合、オーディオ機器を通して自身の好みの音を自由に再構築すると云うよりは、常に生演奏の記憶が比較対象となり、リミッターとなることで、良くも悪くもアプローチに制限のかかった形でオーディオ再生を目指すことになります。

生演奏の経験に乏しい人々が趣味としてのオーディオ機器に触れた場合に彼らが進む方向性は、個々人が主観的な好みの音質にたどり着く為や、良くも悪くもプライドを満たす為など、本質的に自己投影、自己実現の手段としてのオーディオシステムが形になって現れることが多いように感じます。結果として、ハイエンドオーディオに多い「現実とはかけ離れているけどこれはこれで凄い音響」に辿り着く猛者もオーディオマニアには少なくありません。現実の殻を破ったVirtualで創造的な仮想現実体験を良しとするなら、ある意味、生演奏との乖離には拘らない方が確かに良い音質が得られると思います。

逆に生演奏の体験が豊富にあり、またその音楽そのものを信奉している場合、諸々の再生機器の本質は、あくまで音楽再生のためのツールでしか無いと云う風に捉えられます。オーディオシステムの存在意義は、自己実現の為と云うよりも、音盤に封印された演奏者の表現をより深く汲み取り、なるべく忠実に再現するためのツールと云うことになります。

✅ハイエンドオーディオがもたらす落とし穴

僕はある種のハイエンドオーディオを好まないと云う話を時折することがあります。その最も大きな理由が、高額なブランド趣味が蔓延るハイエンドオーディオの世界では、機材の作り手側も使い手側も共に、本質的に自身の主観の投影、自己実現を中心に据えている為、とどのつまり自我を満足させる目的でオーディオ趣味に取り組んでいるように見えるからです。

ハイエンドオーディオシステムで尚且つセッティングが優れている場合、ある意味では素晴らしい、スケールの伴う研ぎ覚まされた音響的体験ができることがしばしばあります。ただ、その目の前に展開される仮想現実空間を現実の生演奏に照らし合わせた場合、事実と云うリミッターを超えた、現実よりも美しく大げさに、或いは、音響的にある部分が極端に誇張された再構築空間であることが往々にしてあります。というか事実上大半のハイエンドオーディオがそんな感じです。まともに生演奏の体験的基準があれば、音響機器を介して自由に創造された仮想現実を前にして強い違和感を覚えることになりますが、基準が無ければその違和感を感じることなく、個人の主観的な好き嫌いや好みばかりを優先して、オーディオ機器の音質の良し悪しを判断する事になってしまうでしょう。

とても素晴らしい音質だけれど、生演奏の感覚とはかけ離れている

この感覚があるかないかで、そもそもオーディオに取り組む姿勢や、価格設定に対する冷静さ、結果的に選択する機材が根本的に変わってくると思うのです。また音質が良いと感じる製品に出会った際にも、提示される音響空間が現実の演奏感覚とかけ離れている場合には、何かが間違っていると判断して採用を見送るか、現実との乖離が極端な方向に進まないようにバランスを取るためのアプローチについて考えられるようになります。


✅主人公は音楽か?それとも自分自身か?

このような話をすると必ずこう反論されます。

趣味のオーディオなんて所詮は個人の自由なんだから、それぞれが自分の好き勝手に楽しめば良い。

確かにこれはある意味で正論です。でもこのように考える方々は、オーディオ再生の目的について、音楽ではなく本質的に自分自身が主人公だと捉えている節がないでしょうか?

僕自身、趣味そのものは個人の自由である事は間違いないと思っています。

けれど、オーディオ再生に取り込む目的の一つの在り方として、音楽、作曲者と演奏者を第一に据える場合には、オーディオ機器や自分自身はあくまで音楽を受け取る側であり、能動的な意味での主人公ではないと思っています。オーディオ機器やオーディオ趣味は、音楽という主目的のための補助手段であって、音楽に奉仕する従者に過ぎません。リスナーは音楽体験を通して音楽と云う名の主人公が紡ぎ出す物語を、受動的に享受、鑑賞する立場であり、後から演奏に介入する余地は無く、自分自身はひとりのリスナーとして常に謙虚な姿勢でいるのが望ましいと考えています。

✅スタンスは個人の自由だけれど哲学に違いはある

もちろんこの考え方はあくまで音楽が主でそれ以外は従になる関係性を自ら進んで受け入れた人々のみの流派であり価値観です。反対に、いや人生の主人公は自分自身なのだから、本質的に音楽の方が従だと考える人々もいますし、それについては、何れにしろ皆さんそれぞれに選ぶことが許された自由なスタンスの違いだと思っています。

とは云え趣味としてのオーディオ再生に取り組む箱庭"AUDIO STYLE"管理人の流儀としては、本質的に音楽こそが目的であって再生云々は手段に過ぎません。音響機材を通して音楽を原材料に自分色に染めあげた世界を作り上げることが目的ではなく、アルバムに封印された元演奏の音楽そのものが持つ表現と精神性を、どれだけ損なわず且つ余さずあぶり出せるか?と云うアプローチこそが、趣味の音楽鑑賞を第一議としたピュアオーディオの醍醐味だと考えます。そしてそれを実現するための近道となる価格に囚われないオーディオ機器と、その使いこなしについて日々のノウハウを語ること、それこそが、ネットの更に辺境の片隅に「箱庭的ピュアオーディオシステムの薦め"AUDIO STYLE"」が存在する意義になるのだと思っています。

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