私のクラスメイト(小学校)⑮
おはようございます。今日もまた書いていきます。男子は今回も含めて、あと4人プラス転校生で全員だと思います。途中から卒業アルバムを見ながら、確認しながらやろうと思っていたのですが、収納の奥の方にあるようで、見つけられずじまいのままです。
さて、今日は、幼稚園時代は別々でしたが、小学校低学年からまで卒業まで一緒のクラスだった友達の話になります。
幼稚園から、ガッツリ場面緘黙で、学校ではほぼ無口な私でした。一方で彼は活発な方で友達とも普通に話していましたが、言葉の発音の部分で聞き取りづらい、または正しく発音できないような所が部分的にありました。
1年生の頃は正直、記憶があまりないのですが、2年生の時は、場面緘黙の私と、彼のその発音の問題からだと思いますが、週に特定の時間は、2人で通常のクラスとは離れて、「言葉の教室」というみんなとは別の教室に行くことなっていたのを覚えています。彼とは、クラスが一緒だったから一緒に行っていたのだと思いますが、思い返すと、別のクラスにも場面緘黙の生徒がいました。その方も違う時間に行っていたのかどうかは不明です。
前もって具体的な説明がなされたかは、私は記憶にありませんが、「言葉の教室」と聞いて、イメージするものは、人ぞれぞれ違うと思います。「場面緘黙」という言葉自体も私自身、20歳くらいになってから知り、当時はなぜ学校に行くと一瞬にして、言葉を発せなくなってしまうのか、自分にも分かりませんでした。私の母親も物事の本質を見極めないまま、毎度のようにそんなんではダメだとよく口にしていたものです。
彼も、彼が抱えていた言葉の発音がうまくできないという事について、主観的にどう捉えていたかは不明ですが、ひとつだけ言えるのは、場面緘黙と彼の抱えていた問題の本質は全く異なっていたという事です。長く書き連ねてきましたが、何が言いたいかというと、彼が私と一緒に「言葉の教室」に行くという事実をどう捉えていたのか、とても気になるところでした。
この事をなぜここまで掘り下げるのかと言うと、この事がこの後の彼の行動に深く関わっているいるように思えて仕方がないからです。3年生になると、事前に彼の家族または本人から何らかの申し出があったかどうかは不明ですが、彼は行かなくてもよい事になったようで、一学期が始まってすぐの頃、私だけが行くようにと担任の先生から言われたのですが、私にも自我が芽生えていて、みんなと別のところに行くのは嫌だという思いが強く、場面緘黙で言葉で反論する事はできませんでしたが、先生からの指示に対して、その場を動かなかったり、目で訴えたりして、行きたくないという意思表示をすると、先生は察してくれたようで、その場で学校の内線電話で事情を説明してくれたようで、その後、言葉の教室に行くという事はなくなりました。
低学年の頃の、彼と私は普通に、他のみんなと一緒に遊んでいたと思います。3年生以降、私も整理整頓がうまくできず、物をよく無くしやすいという事が度々あったのですが、そんな中、毎年、夏休みの宿題の中に、漢字ドリル、計算ドリルを全部やるというのがあって、私は、なぜか毎年のようにその2つのドリルのうちのどちらか一方を無くしてしまうのでした。
最初の頃は、親にも整理整頓がなってないからだとよく怒られていましたが、4年生か5年生の頃だったと思います。ある事がきっかけで、彼が私のドリルを隠していたという疑いが強まる出来ごとがありました。
それは、担任の先生が出張で一日不在の日、そんな日はほぼ一日自習という事になるのですが、授業時間の終わりを知らせるチャイムが鳴って、その次の時間は、漢字ドリルをやる事になっていて、私は周りの席のクラスメイトから、「次は漢字ドリルだから、もう机の上に出しときなよ」と言われ、その通りにし、トイレに行ったり、友達のところに行ったりして休み時間を過ごした後、休み時間の終わりが近くなり、みんなが席につき始めると、机の上に出しておいたはずの漢字ドリルが見当たりませんでした。周囲の声をかけてきた友達も、私がドリルを机の上に出したのを見ていたので、「あれ?ドリルは?」と気が付き、私の周囲で小さな騒ぎになりました。その時、彼との席は、それほど離れていなかったのですが、彼は「持ってこなかったんじゃないの?忘れたんじゃないの?」と言ってきたのを覚えています。それに対して、私の席のとなりの友達が「さっき机の上に出しといたんだよ」と言った時、私の中にある疑惑が生まれました。休み時間はまだ終わっておらず、彼もまだ席についていなかったのを見計らって、とっさに彼の机の引き出しを開けました。それを見た別の友達が「そこにはないよ!」と叫び、それと同時くらいに他の友達とふざけていた彼が慌てて「ヒトの机勝手に見んじゃねえ!」と駆け寄ってきた時には、私は既に彼の引き出しを開け、そこに私のドリルが入っているのを見て取り出していました。と同時に、今まで彼が隠していたのかも…という疑念が生まれたのでした。彼はその後も「あれ?おかしいな。間違えて入れちゃったのかも」などと言い、他の友達は「なんで私のドリルがそこにあるんだろう?」と首を傾げていました。
私の家庭は問題を抱えていましたが、私は彼の家庭の事まではわかりませんし、もしかしたら、2年生の頃、黙ってる事である意味有名だった私と「言葉の教室」に行くという事に負い目を感じていたのかもしれません。正直、私も負い目を感じていましたから…。彼は少し痩せ型で、背丈は高い方でした。また幼少期よりピアノを習っていたそうです。中学年くらいまでは、男子でもピアノを習っている子は数人いたようです。
高学年になり、彼ともうひとりの友達と同じ係になり、私の家で3人で掲示物を作るという事があり、それまで2人が家に来た事はなかったので、私が先導して、家に案内することになりました。それからというもの、彼はちょくちょくひとりで、私の家に遊びに来るようになりました。彼は結構図々しく、私が他の事で出られない事があると、私の親に、「2階の私の部屋で待ってます」と言うのでした。その頃になると、私も彼の事が、あまり好きではない感じになりながらも、言われるがままに一緒にいて、外に行けば、はぐれたふりをして、すぐに家に帰ってくるという事を繰り返していたように記憶しています。
中学では、となりのクラスになりましたが、あまり交流はなく、高校は同じ高校に行くことになりました。彼の背丈はさらに伸び、強く印象に残っているのは、特に高校2年からだったでしょうか。彼は髪の毛を明るめの茶色に染め、不良グループのリーダー格のようになった事でした。そんな彼でしたが、家庭環境は良好だったのかは定かではありませんが、当時私の母が買い物に行くスーパーで、彼と彼の母が一緒に買い物に来ているのをよく目にしていたようで、話していたのを覚えています。
高校を卒業してからは、どうなったかは分からずじまいですが、当時の「言葉の教室」と私が経験した「障害者雇用」も通じる所があるのかもしれないと思うのです。そうなったプロセスが違っても同じ括りの中に入れられ、同じ枠に入れてしまうのは、危険な香りがするのは私だけでしょうか。現在では、養護学校というのもあり、私は実態をよく知らないのですが、私が3年生の頃は、知的障害などのある子たちを集めて「特別学級」のような事もしていたようで、そのあり方について、今でも考えさせられます。「障害者」という言葉自体もそうですし、その位置づけが、一般枠よりも地位が低い人達の括りになっていないか。地位を高くしろと言うのではなく、一般枠とせめて同じにして頂きたいと私は思いますし、私が経験したところでは、賃金が、自治体が定める最低賃金でスタートさせるといった事が、彼ら自身を自ら卑下する要因にもなりうるし、その枠にいるという事実だけをとっても、知らぬ間に私たちは、優劣をつけてしまう傾向にあるのかもしれないと思うと、この国の法律はまだまだ発展途上なのではないかと思ってしまう今日この頃です。
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