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お世話になった人⑫

さて、私が幼少期から場面緘黙で、母から黙っているのはだめだと散々に言われて、コンプレックスになってしまい、私は、自分の性格とは真逆の飲食の仕事で、自分を磨こうと思ったのでした。、

21歳から23歳までお世話になったある中国料理レストランでの話の最後になります。

今日お話するのは、そのお店で食器を洗ったり、厨房の簡単な盛り付けの補助などをする洗い場を担当していたパートの年配の女性についてです。

女性という言葉はあまり使いたくないので、その人という言葉を使っていこうと思います。その人は、私が21歳で入った当時、既に60歳を超えていて、厨房の人も怖いし、洗い場の人も怖い…と少しストレスになっていました。

まぁ、怖く見える1つの原因としては、注文が入って料理を作り始めるに当たって、厨房の換気扇を回すと、換気扇の音が結構大きいので、大声で話さないと聞こえっらいという事や、換気扇の音だけでなく、材料を切る包丁の音であったり、料理が加熱された油に接触する音だったり、食器洗浄機の音であったり、厨房はいつも何らかの音がしていて、みんな大声やりとりしないと聞こえないという環境だったという事です。

初めて入った私には、そんな事はわからなかったので、みんな大声で、話して怒ってるように見えてしまっていたのでした。でも、それは、大きな勘違いで、洗い場の人も、店が暇な時は話しかけてくれたりして、その時は、よく笑いながら、話す印象のよいおばちゃんのようでした。

厨房と洗い場の関係もよく人間関係の問題には支障がないような良い職場だったと思います。食器洗いの他に、厨房やホールの補助的な所も見てくれて、ホールで無料で出すウーロン茶が足りなくならないように、常に残りを気にしていないといけないのですが、少なくなって来ると大きなヤカンで、厨房のコンロを借りて沸かしにいくのですが、そのコンロが結構遠くにあって、忙しくなってしまうと、見に行くのも難しくなってしまうのを、火加減を見ていてくれたり、いろいろと気を遣って頂いていたのでした。

ホールとの関係もよく、みんなで忘年会をしたり、私が辞めた後も、携帯の番号を交換して、度々カフェや喫茶店で話そうと言って誘ってくださったり、私を孫のように思ってくださっていたのか、服などを買ってくれるということもあり、とてもよくしてくださったのを覚えています。

その後は、なかなか時間が取れなくなってしまい、自然消滅のようになってしまったのは、残念です。

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