美の再認について (フランス留学記 8月)

はじめに・・・
この文章はフランス留学中に毎月何か書こうと思い立ってから4回くらいしか続かなかったシリーズの最初のもの。

 その大きな葉の存在に気が付いたのは、モンペリエにきてはや2週目になろうかという頃合いだった。照りつける日の光に渇ききったように、淡い緑の葉は散り始めていた。生来下を向いて歩く癖のある私は踏むと堅い音を立てるそのもみじ型が気になった。思えばこの街の街路樹といえばどれもこの木である。幹は白に茶のまだらで、高く伸びまた広く繁っていた。夏の盛りにもかかわらず道という道に葉が落ち、人々の足元でちりちりと細かくなっていくのだった。

 コメディ広場の一角から延びるエスプラナードにも白と緑が十分な幅をとりながら整列し、日陰と開放感を与えていた。よく晴れたある日、広場の向かい側からこれをみてはっと驚いたことがあった。ふんだんに光を浴びたこの美しい緑には確かに見覚えがある。それは、ルノワールの描いた色に違いないととっさに思った。どの作品であるかを示すことができないのだが、私には不思議と確信があり、また友人に絵のようだと言って撮った写真を見せると彼女もまたルノワールの名を口にしたのだった。同じような体験をパリ郊外でしたことを覚えていた。モネの別荘地で睡蓮の池も残るGivernyという小さな村を訪ねた帰り、ヴェルサイユの居候先に向かう車の窓から見えた雲。この季節の、日本人からすれば異様に長い日がそれでも傾きかけるとき、横から当たった光が緩い丘陵のすぐうえに浮かんだ雲の端を黄色く、あるいは赤く染めていた。色弱で色の定かでない私にも、それをどこで見たのか、かすかに思い当たる節はあった。あれはおそらくプッサンの古典主義的な油彩画、神々を前面に描いた背景の空に、黄を帯びた雲が浮かんでいたのではなかったか。それを初めて見たとき、私には実体的ではないはずの雲の、過剰な誇張にしか思えなかった。しかしそれは現実に存在していたのだった。ただ本当に存在していたということが、私には小さな感動であった。これがフランスの雲であり、またフランスの緑なのであった。

 薄い緑の葉を落とす木は白楊樹ということを、永井荷風の随筆に教わった。彼は憧れていたフランスの、リヨンの、さまざまな風景を丹念に描写していった。色と質感を詳細に塗り固めていく様は、描かれる人物さえ風景に思えるほどである。彼は写実主義の文学を好んでいた。絵画だってそうだったろうと思う。夏が秋になり、Derniers beaux jours、曰く「名残の好天気をあだに過ごしたもうな」と、人々があいさつ代わりに言う頃、ヨーロッパの冬をまだ知らないはずの彼さえ、徐々に短くなる日を彼なりに惜しみ、暗い季節を予感して彼なりに鬱々とするのであった。彼のフランスでの体験はそれまでに読んだ文学作品に支えられていた。私にも、その憂鬱をこれから追って体験することができるだろうと、感じられた。

 プッサンが繊細な仕上げを施した色や質感も、荷風のそれも、はたまたルノワールの戸外で描き上げたであろう緑も、確かに対象を特権化しているように思う。私のすることはその再現をはじめに見、本物が存在することを追認するのみであるが、それさえ彼らの後世への大きな影響の一つであるだろう。彼らの作品がなければ、私は風景を美しいと感じたかどうかも分からないのであるから。荷風が日本の文学界の写実主義が何かを成し遂げただろうかとまた憂うのは、すなわち文学人が、此の国の何等の美さえ特権化し終えていないのではないかという疑義にほかならない。短い近代文学史ではそれも仕方ないだろうが、荷風がフランス文学の回想に支えられつつ彼の国の美しさに触れたことは確かである。芸術家たちの現実の写し取りというものに、美を再認する詩情がある。

 美の特権化こそが芸術の役割だった時代がきっと存在したことは、荷風から100年を経たいまにおいても理解できる。そうして固められた美を突き破ったところに、別の芸術が生まれうるということもまた、十分に体感のできることである。白楊樹の色をいったい何が振り払うのか、葉が散りきったのち、考えることもあるだろうと思う。

お金も欲しいですがコメントも欲しいです。