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異なる仕方で語りなおす  − カメル・ダーウドと『もうひとつの「異邦人」』

ゼミでの発表資料。

 マリエル・マセ はNos cabanesにおいて、未来あるいは過去と「異なる仕方で」関係を結ぶことを、Cabaneのひとつの形に数える。今回の発表ではマセの思索と共鳴するであろうひとつの事例として、アルジェリア人ジャーナリスト・作家であるカメル・ダーウドが、いかに「異なる仕方で」(とくに過去と結ぶ関係について)思考しようとしているかを紹介したい。そのために、彼の小説『もうひとつの「異邦人」』や、その題材であるアルベール・カミュ『異邦人』、さらにはダーウドが本年11月に来日した際アンスティチュ・フランセで開かれた小野正嗣・鵜戸聡との対談を取り上げる。

◎カメル・ダーウドと『もうひとつの「異邦人」』 

 1970年アルジェリア生まれ。
 70〜80年代、アラビア語教育のなか隠れてフランス語の小説を読むのを楽しみのひとつとして育つ。94年からLe Quotidien d’Oranの記者、コラムニスト。2000年より「私たちの意見、あなたたちの意見 ( Raina Raikoum あるいは Notre opinion, votre opinion )」というコラムを毎日書いているという。反体制、かつ反イスラム主義の論調で、注目を集めている。その傍らで小説を書き始め、2008年に短編集『ニグロの序文』、2013年に長編第一作となる『もうひとつの「異邦人」』を出版。いずれもフランス語で書かれる。
 『もうひとつの「異邦人」 』(Meursault, contre-enquête)はフランスとアルジェリアでほぼ同時に出版されたが、フランスで高い評価を受けた一方、イスラム主義者からは批判を受けた。そののち英語、日本語などに翻訳される。

 本書の内容を簡潔に説明しよう。下敷きとしているカミュの『異邦人』は、1940年代フランス統治下のアルジェリアが舞台。主人公のムルソーが母を亡くしてから、アルジェ近郊の浜辺でアラブ人を殺害しその裁判で死刑を宣告されるまでが描かれる。ダーウドは『異邦人』で殺されたアラブ人の弟を主人公に設定し、彼が(おそらく現代に)オランの酒場で出会ったフランス人に自らの体験を語り聞かせる内容を15回(15夜)にわけて綴る。冒頭は「今日、マーはまだ生きている」。主人公の記憶は兄ムーサーMoussaの突然の死に始まる。彼は母親マーM’maに連れられ、兄の屍体と犯人を求めてアルジェを放浪し、浜辺を歩く。さらにはフランス語新聞の切り抜きだけを頼りに、虚飾に溢れた自分たちなりの物語を作り上げた。それが彼らの対抗捜査contre-enquêteだった。捜査が打ち切られるのは、1962年の夏、独立国家アルジェリアが誕生するさなか、二人がまったく無関係なはずのフランス人ジョゼフ・ラルケを銃殺することによってである。しかし逮捕された主人公が死刑になることはなく、独立の混乱のなか釈放される。次にやってくるのはメリエムという女性。大学生の彼女も『異邦人』をもとに独自に殺されたアラブ人を調査していて、主人公とマーのもとに苦労してたどり着いたのである。そのとき初めて主人公はカミュの小説の存在を知り、自らの人生とムルソーの人生との奇妙な鏡像関係に打ちのめされる。カミュの物語に怒りを覚えながら、同時にそこに表されている普遍性への理解を示す。しかしメリエムとの恋仲が溶け消えてしまい、またしてもマーとの生活に取り残されることになる。主人公の語りは(ゆるやかにクロノロジックでありつつ)時間軸を前後しながら思い出した順にエピソードを並べていくというもので、辻褄の合わない箇所も多い。またカミュに対する評価も、語りはじめから終わりにかけて徐々に変化を見せていく。
 一言で表せばこの本は『異邦人』をアラブ人側から書き直したということになるが、重要なのはこの試みをポスト・コロニアリズムの言説に回収させないという著者の意図である。サイードをはじめ『異邦人』を帝国主義的言説の上塗りとして評価する流れが、それに同調するアルジェリア国内の議論を含めてダーウドの批判の射程に入っているだろう。

◎『異邦人』はどう読まれてきたか

 などという浩瀚な歴史はとても扱いきれないが、カミュの植民地描写については確認しておきたい。三野博司『カミュ「異邦人」を読む』によれば、『異邦人』の大きな特徴をふたつ挙げるとするならばそれは一人称による特異な語りと、不自然なまでの歴史の不在ということになるだろう 。とくに後者の点がここで問題となる。エドワード・サイードはカミュを評して「帝国主義のアクチュアルな現実が、本来あってもおかしくないにもかかわらず、すっぽりと抜け落ちている作品を書いた」という。また、『異邦人』や『ペスト』では、幾度も登場するアラブ人の誰一人として名前を与えられず、その出自が描かれることもない。「人間の条件についての寓話」として読まれることの多いカミュの物語は、実際には「アルジェリアの地理に対して、かたくなに存在論的優先権を主張していた」し、「組織的な不正のうえに築かれている政治体制を、かたくなに守ろうとする姿勢」を持っていたという 。
 このような断罪ともいえる批評に対して、それを和らげようとする試みも存在する。例えばアルジェリア生まれのクリスティアーヌ・ショレ=アシュールは、カミュがフランス人というより「ピエ・ノワール」(アルジェリア生まれのフランス人)としてのアイデンティティを有していたと指摘しつつ、『異邦人』は、アルジェリア統合の可能性を否定するものだと主張する 。こうした議論がポストコロニアル批評への西洋側からの回答だとすれば 、ダーウドはアラブ人側からの回答を試みていると整理することもできるだろう 。

 ダーウドによれば、アルジェリアではカミュという作家は存在しない。独立以降ほぼ独裁と言える政権が続いてきたアルジェリアはアラブ語教育を推進してきたために、義務教育のほとんどがアラビア語で行われ、フランス語が主流だった近代アルジェリア文学が省みられないという現状がある。そのうえ検閲が厳しく、出版業界の流通と言えるものはほとんど成り立っていないという 。ダーウドは、アルジェリアが「植民地化の安逸 le confort de la colonisation 」と言える状況に陥っていると指摘する。それは何もかも他人のせいにするという態度であり、植民地時代の過去にすがり続ける思考であり、それによって「現在について考えること」が不可能になってしまう。もちろんこのような態度と(表面的な)ポストコロニアリズムは非常に相性が良い。「植民地主義と脱植民地主義の物語 l’histoire de colonialisme et dé-colonialisme 」から抜け出さなければならない、これがダーウドの問題意識ということになる。

◎もうひとつを求めて

 以上を踏まえてもう一度『もうひとつの「異邦人」』に目を向けてみたい。
 マーが幼い主人公を連れまわすという形で行われる対抗捜査は、夫と息子をなくした一人の女性による、自らの過去に与える物語/歴史をめぐる闘いである。「マーは幽霊を甦らせ、その反対に、近しい者たちを亡き者にし、あふれんばかりの作り話のなかで溺れ死にさせる才に長けていた。[…] 彼女が嘘をつくのは、騙そうというつもりからではなく、現実を修正して、彼女の世界や僕の世界を襲う不条理を和らげようとするためだった。ムーサーがいなくなって彼女は壊れてしまった。でも、逆説的なことに、それが彼女に悪い愉しみ、終わりなき喪の愉しみに手を染めさせることになった。(57)」「これらの捜査は彼女にとっては苦しみに対抗する儀式となり、フランス人街を行き来することは、非常識ではあれ、遠出を可能にするものだった。ついに、僕らが海に、この聴取すべき最後の証人にたどり着いた日のことを憶えている。[…] それはまさにマーのリストに載っていた最後の証人だった。(67-68)」主人公の幼年時代の記憶は、このようなマーの「終わりなき喪」への奉仕に終始している。

 対抗捜査の終わりには、小説の前半においては兄の屍体探しを諦め、空の墓に葬ったときの記憶(70-71)、のちにはフランス人を殺害したときの記憶が位置づけられる。「僕は引き金を引いた、二回撃った。二発の銃弾。腹に一発、首にもう一発。合計で七発だ、と不条理にもすぐさま僕は考えた。[…] それは殺人ではなくて、ひとつの<返還>だった。[…] 一発で−火を噴くように!−、僕は眩暈がするほど途方もない空間と自分自身が自由になる可能性、大地の厚く官能的な湿り気、レモンの木とその香りで満ちた暑い空気を感じた。僕はついに女と映画館に行ったり泳いだりできるのだ、という考えが頭を過ぎった。[…] あの夜に僕らの家に逃げ込んできたあのフランス人の不幸、僕はあの殺人のあとに腕を下さぬまま、マーはその怪物的な欲求がついに晴らされた。(106-110)」マーの物語は復讐によって幕を下ろす。

 マーの支配に対する主人公の対抗手段は、ひとつは「ことば」である。「彼女は預言者のように語り、にわか仕立ての泣き女たちを徴募し、このスキャンダル−夫は空に呑まれ、息子は海に呑まれた−のほかの何ものをも生きることはなかった。僕はこのことばとは別のことばを学ぶ必要があった。[…] 書物と君の主人公のことばは、物事に別の名前をつけ、僕自身の言葉で世界を秩序づける可能性をようやく与えてくれたのだ。(58)」しかしこの試みは、マーにフランス語新聞の切り抜きを突きつけられたことで失敗に終わる。「僕はあたう限りすべてのものをこの短い記事の行間に詰め込んで、ひとつのコスモスとなるまでにボリュームを膨らませた。[…] 僕の言語学習はこうして死に印づけられるだろう。僕はもちろんほかの書物、歴史や地理の本も読んでいたが、すべては、僕らの家族の歴史、僕の兄に対してなされた殺害、そしてあの呪われた浜辺へと関係づけられねばならなかった。(161-162)」

 もうひとつは「恋愛」である。メリエムの登場がその契機となった。「メリエムは、その香り、うなじ、優美さ、微笑とともに辞去し、僕は明日のことを考えていた。[…] 僕は、マーの監視がずっと無力化に成功してきたものを体験するところだったんだ。熱情、欲望、夢想、期待、官能の狂奔を。(170-171)」このように愛することが身体とのつながりを回復することとなり、それが「明日のこと」を考えることにつながる。その背景には、主人公の(ムーサーの)身体に対するマーの偏愛があった。「僕はしょっちゅう病気になった。そのたび毎に、彼女は僕の身体を、罪を犯さんほど注意深く、僕にはわからぬ近親相姦的なものを帯びた熱心さで世話するのだった。(63)」
 ここでことばと恋愛が浮上するのは、ダーウド自身の考えをよく表している。彼は子供時代に禁じられていたフランス語の本を隠れて読んでいた経験から、テクストとは身体の鏡であり、そこには官能性(sensualité)が潜んでると述べていた。また主人公のように(マーの)物語から脱することと、恋愛、身体の回復、時間の奪還をひとつながりに考えているのだろう。対談ではAimer est être présentという言葉を繰り返していた。

 最後に『異邦人』との関係を確認しておこう。「この物語は書き直さなきゃならないんだ。同じことばで、でも右から左にね。(17)」主人公ははじめカミュへの批判を繰り返しつつ、間違いを正して兄の記憶を取り返すために語りはじめる。しかし語りが進んでいくと、姿勢の変化を見せる。「僕はそこに兄の足跡を探し、そこに自分の反射した姿(ルフレ)を見つけ、自分がその殺人者とほとんど瓜二つであることを発見した。[…] 傑作だ、友よ。僕の魂に差し出された鏡、僕がこの国で、アッラーと退屈のはざまでなろうとしていたものに差し出された鏡だった。[…] 僕はだんだんと君の主人公がどのように世界を見ていたのかを理解できるようになった。メリエムはゆっくりと、彼の信条や彼の神話的で孤独なイメージを説明してくれた。それは一種の孤児で、世界のなかに一種の父無き双子を認め、そのことで、正確にはその孤独のせいで、兄弟愛フラテルニテの才能を手に入れたのだ、と僕は理解した。(174-175)」
 主人公の過去は、語りなおすごとに増幅し、新たな記憶が加えられ、あるいは書き換えられていく。だから内容の真偽は終始曖昧なままである。語り終わるとこの老人は「君がノートを埋めるために出会ったのはただの虚言症患者だ・・・(190)」とはぐらかす。この物語が『異邦人』を反映しているのは、主人公の経験した出来事だけではなくて、この「語りなおし」という営みまで含まれる。なぜなら『異邦人』では、ムルソーに起こった出来事が第一部と第二部で全く異なる仕方で語られるのであり、あるいは死刑宣告を受けたあとムルソーの思索が到達する地点(ママへの理解)は、彼女の「生きなおし」についてだったからである。「まったく久し振りで僕はママのことを考えた。彼女がなぜ生涯の終わりで「許婚者」をつくったか、なぜ人生をくりかえすふりをしたのかわかったような気がした。[…] 死を間近にしたママは、そこで自分が解放されるのを感じ、すべてを生きなおして見る気になったのだろう。誰ひとり、誰ひとり彼女に涙をそそぐ資格はない。そして僕もまたすべてを生きなおす気持ちになっているのを感じる。 」

◎異なる仕方で過去を語りなおす(まとめ)

 語りなおし、生きなおしによって、過去に解釈を与えていくような物語/歴史の複数性が肯定される。ダーウドは対抗捜査によって『異邦人』の真実のヴァージョンを書こうとしたのではなく、真実を目指しつつもヴァージョンの複数性が意図せず生まれてきてしまうさまを描こうとしたと言えるだろう。ここで大事なのは、西洋側からあるいはアラブ側からという二項対立を保存する立場が取られるのではなく、アラブ人が学んだフランス語で書くというようにふたつの界域が相互陥入していることである。
 再びマセに戻ってみると、カタストロフが「プレモダン、モダン、ポストモダン」の図式から逃れようとしているのも、「生まれ直すこと」と言ったのも、カミュを通したダーウドの試みに共鳴するものを認められる。あるいは「未来に自分の身体を結ぶこと」を求める姿勢もマセが指摘するところである。
 さらにはアナ・チンのいう « diversité contaminée » や人工物と自然の混ざり合ったjardinのような概念にも、西洋とアラブの相互陥入、それに複数の歴史の交錯という事態とのつながりがあると言える。

Marielle Macé, Nos cabanes, Édition verdier, Largesse, 2019
カメル・ダーウド『もうひとつの「異邦人」』鵜戸聡訳、水声社、2019
Kamel Daoud, Meursault, contre-enquête, Acte Sud, Arles, 2016

アルベール・カミュ「異邦人」『現代フランス文学13人集』中村光夫訳、新潮社、1965年
エドワード・サイード『文化と帝国主義1』大橋洋一訳、みすず書房、1998年
三野博司『カミュ「異邦人」を読む(増補版)』彩流社、2011年
私市正年編『アルジェリアを知るための62章』明石書店、2009年

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