ソーカル事件及び『「知」の欺瞞』―文系人間が自然科学を勉強することについて―
私は文系人間です。
だからこそ言えるのですが、文系人間というのは、心のどこかで理数系の研究に対して憧れやコンプレックスを抱いているものだと私は思います。
それは文系研究というものが言葉上の観念的な議論に終始するからであり、文系人間は証拠や客観性を求められた際にそれを示すことが出来ないことに対して後ろめたさを抱いているのです。
そういう文系人間にとって魅力的に映った(映る)のが、ゲーデルの「不完全定理」やハイゼンベルクの「不確定性原理」及びコペンハーゲン解釈、ウィーナーの「サイバネティックス」といった一部の理数研究でした。
それらは特に同時代の文系人間にとって、数学や物理といった学問を支える絶対的な客観性を打ち破り・対抗する術のように思えたのです。
そして、そういう理数研究の成果を文系研究に取り入れることで、一部の文系人間はコンプレックスを解消しようとしました。
しかし、それ故に怒りを買い「ソーカル事件」という文系人間の肩身が更に狭くなるような事件が起こってしまったのです。
ソーカル事件と『「知」の欺瞞』
ソーカル事件及び『「知」の欺瞞』というのは、文系人間であるならば戒めとして必ず心に留めておかねばならないスキャンダラスな事であるのにも関わらず、案外知られていない事柄でもあります。
実際私も、ゲーデルや量子力学をもう少し知りたいと勉強していた過程で偶然『「知」の欺瞞』という本を知ったということがあります。
その時は肝を冷やしました。それはまさに私自身が「知の欺瞞」に陥るところだったかもしれないと思ったからです。
そして、その肝心のソーカル事件及び『「知」の欺瞞』とは何かという説明なのですが、以下のようになります。
われわれの目標は、この分野(※ポストモダン)では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされているというあまり知られていない事実に、より多くの人の目を向けることである。さらに、ポストモダンの著作にしばしば見られる、自然科学の内容または自然科学の哲学に関連したある種の思考の混乱についても議論する。
『「知」の欺瞞』岩波現代文庫第4刷p6より
このような状況(※ポストモダニズムと呼ばれる哲学が受け入れられている状況)をみて、著者の一人(ソーカル)は正統的ではない(そして、どう考えても制御の難しい)実験を行うことにした。それは、アメリカで高いカルチュラル・スタディーズ誌「ソーシャル・テクスト」に、近年急増してきたタイプの論文のパロディーを投稿して、それが出版されるかどうかみることだった。「境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて」という題のその論文には、ばかげた文章とあからさまに意味をなさない表現があふれるばかりに詰め込まれている。
(中略)
それにもかかわらず、論文は受理され、出版された。
『「知」の欺瞞』岩波現代文庫第4刷p2-3より
つまりは、適当に数学・物理学用語を用いてそれらしいことを述べた中身の無いパロディー論文が、用語や論理展開が理解されなかったが故にそのまま人文科学系の学術誌に掲載されてしまった事件が「ソーカル事件」であり、
そのように自然科学の知識を都合よく援用して論を展開している人間が、人文・社会科学のポストモダン思想に特に見られるということを述べたのが『「知」の欺瞞』という本だという訳です。
そんな『「知」の欺瞞』のショッキングな部分は、特に以下の2点だと私は考えます。
①自然科学の濫用を単なる誤用の指摘に留まらず、論展開に沿って内容を検討されたこと。
②ラカンやボードリヤール、ドゥルーズといった高名な知識人でさえ自然科学の濫用を行っていたという点。
①について、論展開の枝葉を取り上げて科学用語の誤用を指摘するだけで話が終わっていないことはポストモダン思想にとって目を背けたくなることではないでしょうか。
本書は自然科学の濫用を指摘した後、更に思想の根幹である論展開にまで検討を進め、ポストモダン思想特有の難解な言葉は実質的に意味が無い・または意味を曖昧にしていると指摘します。
これは用意していた逃げ場が潰されたという点で、ショッキングな部分です。
また②について、本書でも示唆されていましたが、文系研究というのが権威主義的であるということの指摘に繋がります。
すなわち、ラカンやドゥルーズといった界隈で「凄い」とされている人間が言っていることは内容が難解でよく分からなくても、多分合っていて凄いのだろうと思ってしまうということです。
文系研究においてはそういう権威主義的な価値観によって内容の価値や正しさを判断している面があります。
実際、そこらの素人が同じようなことを考えていても「アリストテレスがこう言っていた」と引用すると説得力が上がるのが文系研究です。「○○ぐらいは読んでおくべき」と古典を勧めるのは大体文系の教授です。
一方で、自然科学は証拠と立場を示しさえすれば、その考えは素人のものだとしても公平に見られます。また、50年前の研究は大概評価が終わっているので、改めて知る必要はないのが自然科学です。
『「知」の欺瞞』ではそういう文理研究の差が指摘され、高名な研究者達が自身の論説の説得力を高めるために自然科学を権威主義的に利用した上、難解な説明を好み、自身の「高名さ」すら利用しているということが暴かれたというのはショッキングだと表現する他ないでしょう。
自然科学が誤用・悪用されている現状
『「知」の欺瞞』では特にポストモダン思想における自然科学の濫用について述べられました。
そして自然科学が誤用、果てには悪用される例というのは学術レベルで前述のようですから、日常レベルでは更に多くあります。
例えば「シュレディンガーの猫」という量子力学の有名な思考実験は誤用され過ぎて、もはやその誤用の方が慣用になりつつある気がします。
最近、特にネット上で見かけることが多いですが、「シュレディンガーの猫」という言葉が「箱を開けるまでは猫が死んでいるかどうかは分からない」=「観測するまで確率は50%(死/生)」ぐらいの意味で使われていることが多く、実際それで言いたいことも通じてしまう部分があります。
ただ、これは間違いなく誤用です。(偶に「思考」実験であることすら踏まえていない人もいたりする。)
そもそも「シュレディンガーの猫」というのは、当時は(も)受け入れがたい【量子力学(≒ミクロ)の世界】に関する思考実験であり、重要なのは猫を殺すトリガーに放射性物質(短い半減期でα崩壊する原子)の崩壊とその測定(ガイガーカウンター)が想定されていることでした。
放射性物質の崩壊というのは量子力学的現象、すなわちミクロの事象です。放射性物質の原子は一定の確率で放射性崩壊を起こしますが、それは測定をしない限り決まっていません(射影仮説)。
大雑把に説明すると(←これが危険なのですが)、これをトリガーに設定することで、ミクロの事象をマクロの事象(=猫の生死)に持ち込むことが本思考実験の狙いでした。
というのは、「猫を殺すトリガーが測定をされるまで引かれているかどうかが決まらない」=「測定をする前には生きた猫と死んだ猫の状態が重なり合って存在している」という意味だとすれば、それはマクロの事象(=猫)からするとありえないことになるからです。
従って、量子力学の確率解釈はおかしい。そういうことをこの実験では主張したかった訳です。
(※現在では量子測定理論の「ハイゼンベルク・カット」という概念によって、ミクロとマクロの境界を設定することで矛盾なく説明しているようです。この場合、ガイガーカウンターの測定までにほぼ結果が確定していて、猫や観察者(人間)は結果に関わらないので、矛盾は生じないということらしいです。)
繰り返しになりますが重要なのは、猫の生死という【マクロの事象】が「放射性崩壊」という測定されるまで確定されない【ミクロの事象】に紐づけられているということです。
そういう機構が想定されていない単なる箱であれば「猫が生きているか・死んでいるか」は既に決まっています。
従って、「箱を開けるまでは猫が死んでいるかどうかは分からない」という誤用は「私はまだ知らない」という状況報告をしているだけなのです。
また、もう一つ例を挙げるとすれば「エントロピー」という言葉も誤用されているとまでは言いませんが、非常に曖昧に使われている言葉である気がします。
「エントロピー」というと、個人的には『魔法少女まどか☆マギカ』や『TENET』などのSF要素を想起しますが、今では「乱雑さ・無秩序さ」という意味合いぐらいで使われていることが多いと思います。
(というより、「?」となりながら文脈と雰囲気で解釈している気がします。)
しかし、「エントロピー」には熱力学におけるエントロピーと情報理論におけるエントロピーがあり、この区別は踏まえておかなければ意味を誤解する可能性があります。
そして悪用されている例については、スピリチュアルな文脈での量子力学の援用が真っ先に挙げられます。
これはカルト宗教や詐欺ビジネスと結びつきやすいものでもあり、危険だと言えるでしょう。現状、スピリチュアルな文脈で量子力学を援用するのは、全てインチキで詐欺ビジネスだと言っていいと思います。
というのも、量子力学で重要なのは「シュレディンガーの猫」で説明したように、あくまでそれはミクロの世界で成り立つ法則や現象だということで、現実世界というマクロな視点で成り立つことではないということなのです。
しかし、現状は「万物は人間が意識した時に物質化(粒子化)する」などといった意味不明な論ばかりまき散らされていて、それに引っかかったカモが金と時間という現実を搾取されているのです。
ただ、別にこのような区別や内容を厳密に気にしなくとも、何となく話が通じるのも事実です。
これは慣用となっている誤用全般に言えることですが、結局多数が支持する意味が社会では正しいものになります。
そして科学的啓蒙を行おうにも、そもそもそのような啓蒙によって態度を変えることが出来る人間は元々科学に対して慎重で誠実であり、かつ尊敬を払っているような、数少ない殊勝な人達です。
こうして結果的に、多数派の人間が支持する誤用が慣用になり、やがて正用となるのです。
文系人間が自然科学を勉強することについて
ではそのような状況を踏まえて、文系人間はどのように自然科学と向き合うべきなのかということですが、私なりの結論から述べます。
私は、文系人間は「ここからは自然科学の領域だ」と分かる・立ち入らないだけの知識と良識を身に着けるために自然科学を勉強すべきだと考えます。
よく分からないことには深入りしないのがスマートです。
そもそも、数式が表している意味や実験の意義が分からないのだったら、それは分かっていないのです。
ですから、私自身もなるべく慎重に・真摯に上記の内容は書いたつもりなのですが、本当はこういうことを偉そうに述べるのは危険な立場でもあります。
私は生粋の文系人間なのであり、何も自然科学の事は専門として分かっていないのです。やはり、文系人間が自然科学に踏み込むのは難しいのです。
それに関連して、以前紹介した養老孟司の『唯脳論』に書いてあることですが、「文理」という区別は、おそらく脳の違う構造(部位)と機能に由来するので、基本的には別の価値(機能)を持ったものなのです。
文系には文系の、理系には理系の、別々の価値と作法があるはずです。
加えて、特に自然科学では研究分野や専門が少し違えば全く何しているか分からないということが起きます。
だからこそ、自然科学を研究した人間は不用意に横の分野に突っ込まない人が多いのですが、にも関わらず、私を含めて文系人間は何故か聞きかじった専門外の知識を披露したがる人が多いです。
それはやはり、「ここからは自然科学の領域だ」ということが分かっていない・もしくは分かっていてわざと、権威主義的に利用している面があるからではないでしょうか。
そういう視点では、私が大学生時代に懸命に勉強した社会学分野の「社会システム理論」なども、実に馬鹿らしく失礼な学問です。
そもそも、サイバネティクスを創始したウィーナーであれオートポイエーシスに関わったヴァレラであれ、本人達が社会現象の説明に応用することについて懐疑的で慎重だった訳ですから、それを無視して社会学の基礎付けや精緻化に用いるのは如何なものでしょうか。
特に、ウィーナーは18歳の時に哲学の分野で博士をとっていて人文科学の素養もある人間なのですから、そういう人間の忠告を無視して社会学の基礎付けにサイバネティクスの概念を用いようとするのは高慢な態度です。
社会学と自然科学(特に数学・物理学)は違うものだということです。にもかかわらず、社会学を自然科学のように扱うのは、学問どころか研究対象である社会自体を過小評価して馬鹿にしています。
ただ同時に、特にサイバネティクスに関してはそういう気持ちがよく分かります。社会学・経済学や他の説明に拡張できる気がしてしまうのです。
実際に、経済学・経営学関連の本などには『サイバネティクス』を踏まえた表現を結構みかけます。
ですから、そういう風に自然科学を援用したくなる気持ちも分かるのです。
(※『サイバネティクス』はベストセラーとして当時多くの人に読まれていて、現在教鞭に立ったり教科書を書くような世代の人間に広く影響を与えたことはあるでしょう。)
何より、私自身も「(正/負)フィードバック」といった用語は説明でよく用いますし、恥ずかしながら大学生時代にゲーデルや量子力学、脳科学等の自然科学の成果を利用して文系研究を行おうと試みたことがあります。
それ故に、私は自然科学分野の知識を深めることも出来たのですが、同時にソーカル事件を知り、そういう研究や方法を好んでいた自分がアホらしくなったのです。
そういう反省があるので、こういう文章を書いています。ポストモダンは不誠実です。このような研究に人生を費やすのは虚しいことです。
あの手の他分野を縦横する総合的な研究は知識量だけ増えて自分が賢くなったように思えるのですが、それ故に「知の欺瞞」に陥るのです。どうしても上からの知識マウントを取りたくなってしまうのです。
ですから結局、文系研究が権威主義的である。
私は一番の問題がここに尽きるのだろうと考えます。
文系研究において確たる証拠が出せない以上そうなるのは必然ですが、だからこそ文系人間は肩書や雰囲気ではなく、「内容」で判断できるだけの知識とモラルをつけないといけないのではないでしょうか。
そして、SNSの発達によって「数字」と「見た目」を持ったインフルエンサーの発言に傾きがちな現代において、そういう能力や人間は世界を正しい方向に導くために、より重要な役割を持つのではないかと考えます。
しかし同時に、そのような殊勝な人間は数が少ないので啓蒙も虚しく、世界はますます権威主義的になっていくのだろうとも考えるのです。
何故ならば多数派によって誤用が慣用になり、いつしか正用になる。これが世界の法則であり、ヒトの「知」だからです。
それでこの世界は、初めから欺瞞に満ちているのです。
全くバカらしい。
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