見出し画像

私の好きなアニメ映画『人狼 JIN-ROH』の私的感想・レビュー


考えてみると、限りある人生の時間の中で数回でも見直す作品というのは、それだけでも「好きな作品」だと言えるような気がします。

そして、これから紹介する『人狼 JIN-ROH』も、私は今までに数回は見返しているアニメ映画の一本です。

ただ、私がこれから伝えたいのは、この作品は原作・脚本を手掛けた「押井守」が当初の予定通りのシナリオで監督も務めていたならば恐らく1回しか見なかっただろうということです。

そういう点でも、この作品は奇跡のバランスを保っている気がします。


なお、本記事の作品情報のほとんどはこの『人狼JIN-ROH沖浦啓之絵コンテ集』に書かれていることをソースにしています。


画像1


気になる方は購入してみて下さい。



『人狼 JIN-ROH』というアニメ映画


本記事で紹介する『人狼 JIN-ROH』というアニメ映画は90年代アニメを締めくくるのに相応しい、アニメ表現の一つの集大成だと考えています。

日本の90年代というのは、つい最近完結して話題になった『エヴァンゲリオン』をはじめ、作家性・職人性の高い良質なTVアニメ・アニメ映画が作られた時代でした。

そして、これから紹介する『人狼 JIN-ROH』も公開自体は2000年であったものの、その90年代の系譜にある作品だと考えてよいと思います。


実際、このアニメはプロダクションI.Gが手掛けた長編作品の中で最後のセルアニメであり、後に紹介する「繊細でめんどくさい作画」などにもそういう作家性や職人性の高さというものが表れています。

それは、もちろんそういうことが(人材・予算・空気的に)可能な現場であったことは大きいと思いますが、


やはり本作については、監督・絵コンテを手掛けた「沖浦啓之」と原作・脚本を手掛けた「押井守」の存在は大きかったのだと思います。

この2人に関しては、アニメ作品についてある程度知っている人ならば必ず知っているレベルで有名な方達なのですが、一応少しだけ補足説明を私の知る限りの知識と主観で行っておきます。


まず、「沖浦啓之」はアニメーターとして有名な方です。

後に紹介する「押井守」の代表作『攻殻機動隊』2作品の作画監督・キャラクターデザインなどは分かりやすい仕事だと思います。

アニメ監督としては、本作が初監督を務めた作品であり、後に『ももへの手紙』で監督を務めています。


そして手掛けたアニメーションについて、私は作画マニアではないのでシーンとして沖浦監督が手がけた場面が分かったりはしないのですが、有名なシーンをまとめて見た感覚としては、

・「泣き顔(崩れるギリギリの顔)」の演技

・ねっとりとした?細かい(丁寧な)動き

こういった部分が、動きをアニメで表現する際に特徴的な(こだわる)人なのかなぁという素人の印象です。


一方、「押井守」は監督・脚本家として有名な方です。

監督としては、実写を意識した「表現技法」としてアニメ―ションというものを考えてきたことがあって、「レイアウトシステム」の普及に大きな役割を果たした人らしいです。

(※押井監督がこういうやり方を流行らしたんですね。今知りました。)


また、その押井監督が手がける映画作品の脚本の特徴としては、一言で「小難しい」ということがあります。

これは世界観や設定といったレベルから、シナリオのテーマ・セリフ回し・ギミックに至るまで作品によってスケールは様々ですが、どれも「小難しい」。

そういうのが好きな人にはたまらないのだろうなぁというのが私の率直な感想です。


だから、ハマる人にはハマるけれども、ハマらない人には全くハマらない。

それが押井監督作品の特徴です。


例えば私について言えば、『攻殻機動隊』は何回か見返すぐらい好きな一方で、『スカイクロラ』や『イノセンス』は演出も相まって初見時は寝てしまいました。

そして、『ビューティフルドリーマー』や『パトレイバー』も別に好きな訳でなく、話の内容も全然思い出せません。

これは「小難しさ」がたまたま『攻殻機動隊』のレベルについてはハマったということで、基本的に押井監督の作品は私にハマらないのです。


ですから、おそらくこの『人狼 JIN-ROH』を仮に押井監督が全面的に手掛けていたならば、私は1回しか見なかっただろうと思うのです。


そして、ここからは随分と構成に頭を悩ませたのですが、押井監督については『攻殻機動隊』について記事を書く際に詳しく触れるとして、

今回は沖浦監督に焦点を当てながら、「押井監督との差異」を中心にシナリオと映像について書いていこうと思います。



押井守のシナリオからの変更点


本作は最終的な形になるまでに当初の予定から様々な点で変更がなされています。

それで結果的に「監督・沖浦啓之」の『人狼 Jin-roh』が生まれることになったのですが、そこら辺の事情は割愛して、シナリオ・映像の話だけを扱うことにします。


さて、まずシナリオについて、最初に挙げた絵コンテ本のインタビューp15などに書かれていることなどによると、本作は当初のシナリオから以下の点が大きく変更されています。

・原作の『犬狼物語』の映像化→劇場版用のオリジナル作品

・誰か一人を追いかけるものにすること(集団劇を嫌った)

・ヒロインを出すこと(男女の物語・恋愛要素)

・ハードボイルド要素のあるものであること

・キャラがあまり話さない方向に統一した


これらは沖浦監督の要望を取り入れて行われた変更です。

従って、それは沖浦監督の仕事及びオリジナリティだと言ってよいものだと思います。


また、逆にこれが意味する所は、元々の予定では押井監督が手がけた原作に近い、「男達の争い」を題材にした「小難しい」シナリオが想定されていたという事です。

私は原作である「ケルベロス・サーガ」シリーズを全く知らないので見当違いかもしれませんが、何重にもスパイがあったり、組織内外のパワーバランスを巡って騙し騙され、バチバチ政治的にやり合うのだろうというのが想像できます。

それは押井監督のコアなファン達にとっては期待するものだったのでしょうが、おおよそ一般ウケするものではないことが容易に分かります。

一方である視点では、そのような世界観・設定で中途半端に男女の恋愛模様を描いても、どちらも中途半端になってしまう可能性があるので危険だとも言えます。

実際、沖浦監督は「それを楽しみにしていた「ケルベロス」ファンの方々には申し訳ないのですが、自分がやりたいこととソリが合わない部分もあるので、それをどうやって入れ込みながらエンターテイメントの要素を足し合わせていくかという部分について、かなり悩みました」と述べていて、そういうバランスに苦心していたようです。


ただ、個人的にはこれらの変更は功を奏したと考えます。

というのは、元々「男達の争い」を描くことを志向した原作に「女性」という反対側の視点を追加して、その交差点に焦点を当てることで、より「男性」が際立つようになったのではないかと考えるからです。


それはシナリオ展開に顕著に現れています。

物語終盤、ヒロインの圭は主人公の伏と一緒にどこかへ逃げてしまうことを提案します。

伏はそんな圭に心を揺さぶられながらも、最後はやはり自分が「狼」であることを選択して、圭を殺します。

要は、女性の圭からしてみれば「男達のそういう争いなんてどうでもいいから、私と一緒に居て欲しい」ということだったのですが、それは男性の伏からしてみると自分が「狼=男」であるために邪魔な存在だった訳です。


思えば、そもそもヒロインの圭というのは元々「赤ずきん」という物資運搬係として過激派集団の男達のサポートを行っていて、そのために公安に捕まって、今度は特機隊のスキャンダルを掴む駒として別の男に利用されている女です。

圭はそういう男達の争い・権力の仕組みを傍から見ていたが故に「どうでもよくなっていた」と思うまでに男達の言いなりになりながら、呆れ果てていたのでしょう。

女からしてみれば、「男達の争い」というのは実に馬鹿馬鹿しいものの訳です。

(※しかし、この圭という人物もそういう狼達に人の心を求め続ける面倒な理想主義者であることは間違いないでしょう。『赤ずきん』の一節を狼に読み聞かせた所で、狼は懐かない。)


一方で、「狼」であるはずの伏が物語冒頭に「赤ずきん」の少女(七生)が目の前で自爆して心が揺らいでしまったのは、そんな男達の醜さを思わず目の前に突き付けられてしまったからだと言えます。

男達の争いのために自らの命さえ投げ出してしまう「女性」の姿を見たことで、「男であること=狼であること」に疑問を抱いたのでしょう。


話の途中に狼の群れに襲われる女のイメージがトラウマ的に流れるのはそういうことで、か弱い「女性」という存在すら群れで食らいつくす「男性=狼」に「理性=人」の部分が拒絶反応を起こしてしまったのです。

しかし、この伏という男も結局そういう生き方しか知らない人間であって、自らが「狼」でなくなることは不可能だった。

それで、「狼」として「女性」の圭を殺すことでまた月光指す闇の元へと戻り、物語は終わる訳です。

これは冒頭に男達のために自らの命を犠牲にした女性である七生の行動とは反対のもので、そういうシナリオの構成も原作が志向した「男達の争い」及び「男性」の暴力性をよく描いていると私は思います。


総じて、『人狼 JIN-ROH』は押井監督の観念的で小難しいシナリオのテーマ性を損なうことなしに、沖浦監督の感性でエンターテイメント作品としてまとめ上げた優れた作品だと思います。



沖浦監督がこだわった画作り


以上がシナリオ面の話ですが、『人狼 JIN-ROH』はその映像面も非常に優れた作品です。(※むしろ、どちらかというと映像面への評価が高い作品である気もします。)

そして『人狼 JIN-ROH』はアニメ映画ですので、その映像を論じるときには実写映画とはまた別の視点によって評価しないといけない部分もあると思います。

それは主に「アニメーション」という表現方法との兼ね合いになってきますが、本作について言えば、そういう従来の「アニメ」表現とは真逆の画作りを徹底的に成し遂げたということ自体が評価すべき点です。


例えば、本作の映像の特徴として以下のようなものが挙げられると思います。

・セリフに頼らないキャラクターの芝居

・長回し

・ロングショット

・緻密な風景表現(モブ表現)


これらの表現は、実写映画では好まれるやり方ですが、アニメ作品ではあまり見られない表現です。

そして、このような表現があまり見られない理由というのは金・人材・スケジュール・表現の特性など挙げだすといくつもあると思うのですが、

何より大きな理由としては「誰もやろうとはしない」というのが結局の所であって、沖浦監督の「画」に対するこだわりがあったからこそ、こういう映像作品が生まれたのだろうと思います。

リアリティに対するこだわりと言いますか、それは人や物の「動/静」はもちろん、それを包む空気や光までコントロールしようとしていたように思います。


そして、だからこそ私は本作を何回か見直すのです。

というのも、1回の鑑賞ではサラッと流してしまうような何気ない場面でも、また見直してみると「こんなに情報量があったのか」とまた新たな驚きがあるのです。

アニメ映像が「何気なく見える」っていう時点で、それだけでも十分に凄いようなことに思います。


ただ、そのような監督の要求に応え続けるのは現場も大変だっただろうと思います。

そもそも、これは『絵コンテ集』に書かれていたことでありますが、

・絵に影をつけない(線描での表現)

という全体設計がある時点で、そうとうハイレベルな線画を要求される上、先程述べたように、それは従来のアニメ表現とは真逆を行くような演技を要求されるのですから、描く側は苦心しただろうなぁと思います。


細かい場面についても、例えば螺旋階段を登らせるシーンをわざわざ上から撮ったり、特機隊のプロテクターを一枚一枚動かしてみたり、まぁ~細かくてメンドクサイことをやっています。

本当にアニメーターの人には頭が下がります。


こういう「繊細でめんどくさい作画」がこの作品の映像の特徴だと言えると思います。

そこに前述した沖浦監督のアニメーションへのこだわりがあるのだろうなぁと思います。

そして、そのような画面があったからこそ、前述したシナリオを十分に表現することが出来たのだと思います。


シナリオに耐えうるだけの画があって、画を損なわないシナリオがあったのだろうと評価できるはずです。

本作はシナリオ・映像共に奇跡のバランスを保った作品だと思います。


最後にどうでもいい話ですが、本作のヒロインである「雨宮圭」には初見時から独特な色気があるなぁと思っています。

この色気の正体が何なのか分からなくて、サムネなどでも描いてみたのですが、全然だめですね(^^;

感服です。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?