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空気を纏う~あとがき~

時代の空気を瞬間的に切り取るのが大衆文学。

時代の経過に伴う風化に対し耐用年数が長いものが純文学。

純文学作品を扱う芥川賞は芥川龍之介。では大衆文学作品を扱う直木賞はと聞くと、現代人は直木のフルネームを答えることが出来ない。ましてや直木三十五が書いた小説を読んだことがある人はほぼ皆無。だから大衆文学は生まれた瞬間から古び朽ち始めていくのは仕方がないこと。

だが現代人は本が売れないこの時代でも直木賞受賞と帯に書かれた本を多くの人が買い求める。それは今、同じ時代に生きている著者が感じていることに共感しやすいから。

僕は時代の空気をクリアに切り取ったものを幾つも読んできた。

有名どころで言えば、この2作品。

太陽の季節/石原慎太郎
(1955年下半期芥川賞受賞作。選評概要を改めて読んだが、新規性は認めるが好き嫌いの激しい講評。今となっては直木賞でない理由を探す方が難しいほど時代的に風化していると僕は感じる。)

なんとなく、クリスタル。/田中康夫
(1980年下半期芥川賞候補作。大江健三郎の「すぐさま古びる」という講評からして、なんでこれが芥川賞に推薦されたのか全く僕は理解できない。)

時代を切り取った作品は他にもある、ヒキタクニオの「バブル・バブル・バブル」は、僕が田舎の片隅からテレビを通して眺めていた東京で、実際に大人が何に狂奔していたのかがリアルに伝わってきて、本を読んでいる自分まで熱くなってしまった。

そうした若者から見た大都会を描いた作品の中で、僕が一番好きなのは「霞町物語/浅田次郎」だ。

霞町という地名は1967年まで使われていた。現在も古いビルにその名が刻まれているものもあるが、その面影を見つけるのは容易ではない。

青山パルスビート、当時の若者は知っていても、現代では誰も知らないディスコから物語は始まる。

2000年代初頭、ITバブルによってどこからともなく這い出してきた魑魅魍魎。
ネットワークビジネスと呼び名を変えて夢を語り、人を搾取し合う有象無象。
そして時代の淘汰に取り残されたバブルの残滓が渾然一体となって東京の夜に蠢いていたあの時代。

クラブ・ディスコを狂ったように駆け巡っていた僕は日常生活では決して出くわさない色んな人達と出会った。中でも、特に強烈だったのは、30年以上もの間、躍り狂い続けていたアラフィフおじさんやおばさん達だった。当時、僕は躍りに夢中で、ダンスをフロアで教えて貰い、酒を汲み交わしては当時の昔話で赤坂はムゲン、ビブロス、六本木はメビウス、キサナドゥの名前を知り、この本を教えて貰う。そして時代は巡り麻布十番にビブロス、青山にキサナドゥが復活。

その当時の記憶をいつか霞町改め麻布物語として描きたいと考えてから、書けないまま10年以上経過した。もしかすると書かないまま人生を終えるかもしれないし、そうなったらそうで仕方ないと考えてもいる。

今回、過去に書いた記事を加筆修正してnoteの創作大賞に応募することにした。

僕は団塊ジュニアとも、ロストジェネレーションとも呼ばれる世代に属している。バブルが際限なく膨らみ続け、熱狂に沸き立つ幸福な日本の片隅で、東京への羨望と大人への憧憬に焦がれ過ごした、少年が青年へと変わっていく思春期の僕の記憶。未来が限りなく希望に満ちていて、少年が純粋に大人に憧れることが出来た最後の世代。

その後の社会情勢の変化により残念ながら未来は思春期に思い描いていたものと大きく違ってしまった。

だけど、それでも僕らはまだ生きている。

世代別に発行された紙媒体のファッション雑誌を捨て、ミレニアル世代やZ世代と同じインスタを眺め、ファストファッションを身に纏う。

エイジレスな時代に突入した僕らは、世代を越えて「今」という同じ空気を吸って生きている。

ステルス性の高い階級社会に突入し、密かにクラスタ化が加速している現代にも関わらず、だ。

僕が敬愛してやまない石田純一氏の言葉を最後の纏めとして紹介させて頂く。


以下、20'typeより抜粋

おしゃれを一言で表すと「人生観の表現」だと思っているんですよ。

「流行を忌み嫌う者は、時代に嫉妬しているだけだ」という三島由紀夫の言葉がありますが、移り変わっていく時代、つまり他者とたくさん関わって、より多くの価値観に触れてきたことが、ファッションには表れるんじゃないかと思います。

生まれたときからおしゃれな人ってなかなかいないはず。小学時代、中学時代、高校時代と、その時々で流行っているものを勉強してくるわけじゃないですか。

ある意味、おしゃれってこれまで学んできたことを表現している「自分の成長の記録」でもあるんですよね。


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