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レインツリーの国

 言わずもがな、有名な作品。

 『特権みたいに傷ついた顔をされるのも癇に障った』という一文について考えています。
 人はみなそれぞれに何かしらの傷をもって生きていて、お互いが完全に理解しあうことはできない。だって、僕はあなたではないし、ほかの誰かでもないから。
 そんなこと、多くの大人はわかっているはず。わかっているはずだけれど、実際のところ、これまた多くの人が「自分にしか無い傷」を振りかざされ、傷ついているのだと思います。

 僕は家庭不和の友人に拒絶されたことがありました。定型文みたいな「お前にはわからないだろうけど」の一文を伴って見下され、そして僕もよくあるシナリオ通り、返す言葉を持たなかった。僕自身も当時は身内や親戚間でのトラブルを抱えていた時期ではあったのだけれど、わざわざこのタイミングで言うのも張り合うみたいで不毛だし、自分が恵まれていることへの自覚はあったので、特に何も言わなかった。いや、言えませんでした。

 ひとみは伸にどうしてほしいと思っていたのか、僕には結局わからない。ひとみ自身が己の性格を「めんどくさい」と表現していたけれど、正直僕は否定できない。伸の言動について「それはないだろう」と感じる部分もあったにせよ、自分が伸なら彼女に付き合いきれたか、自信はありません。
 伸も一度、「君、自分の親父に忘れられたことあるか?」と彼女を傷つけたことがありました。ひとみが普段取るのと同じ手段。ただ、伸のそれは一度きりのような気がします。ひとみの言動には彼女の言う「めんどくさい」癖がついていて、それは一朝一夕でどうにかなるものではない、ような。これは僕の読みが間違っているのかも。

 あとがきによると、作者の有川さんはこの『レインツリーの国』を、「障碍者の話」ではなく「恋の話」として書いたそうです。僕自身は恋の話というより人間関係全般についての話として読んだのですが、「障碍者の話」として読んだわけではないという点においては、有川さんの意図は伝わったのかもしれません。だからこそ再び言うと、ひとみはやっぱり「めんどくさい」と思う。伸同様に彼女の言葉選びは好きだけれど、それでも「めんどくさい」。障害があるから遠慮する、なんて要らぬ忖度はなしの感想を残しておきたい。

 それでも、あとがきの内容は肝に銘じたい。僕だって、「自転車のベルを鳴らしているのに避けてくれなくてイライラする」ような大人から抜け出すことなんてできません。分かったつもりで分かった振りしかできない、情けない人間の一人です。だから最後はあえてこの一文で終わろう、と、今この文章を書いていて思いました。

『立派で正しい人になれないのなら、間違って打ちのめされる自分でいるしかない』

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