見出し画像

葬式代はまだ貯まらない。

他力本願な生涯を送ってきました。

統合失調症になる前から、わたしの生涯とはそういうものだったのです。父親や両親の庇護のもと、わたしは強情な子供として育ちました。なにしろ両親がそろっていないという事実をみて、わたしを不幸な子供に決めつけようとした大人が多かったのですから、強情な子供に育つのも無理はないのではないかなあと思います。が、その自己認識こそが他力本願というものでしょう。

強情な子供は強情な大人になり、なぜか統合失調症になりました。

わたしに対し普通の人生を歩むことを望んでいた家族は、それまでの意見や考えをくるりと変えて、ただ平穏に生きてくれることだけを、わたしに望むようになりました。結婚や出産はしなくていい。無理だろうから。そのほうがしあわせだろうからという考えに染まったのです。強情な大人は憤りました。わたしの人生を決めつけないでほしい。わたしはまだ、しあわせになることを諦めていない。

けれど、と、他力本願にもわたしは考えを決めたのです。

結婚や出産をしなくてもいいと言ってくれるなら、わたしは諦めた夢を選ぶ、と。

それがひとつめの、おおきな選択でした。

それから小説家になることを選んだわたしは、思うがままに小説を書くようになりました。バイトとして働きながら、個人のWEBサイトを作り、自作の小説を公開しました。

ただ、ここでも他力本願というべきなのでしょう。

0から小説を書くのではなく、自分以外の創作者さんが作り上げた、大好きな創作物のパロディ創作を書いていました。これでは小説家としてやっていけるはずがありません。どこかで読んだようなオリジナルっぽい創作も書き、公募にも応募することはありましたが、選考から外れてばかりでした。

そんなふうに時間を費やしているうちに、歳月は過ぎていきました。祖父母は亡くなり、父も亡くなりました。遺されたわたしは思いました。

ああ、不出来な子孫だったなあ、と。

そしてわたしはあるとき、自費出版の会社が主催する説明会に出席したのです。家族がいなくなってからぼんやりしていたわたしは、この説明会で開眼します。そうだ、自費出版で本を発行してみよう。家族が亡くなったように、わたしも明日、死ぬかもしれない。だったらこれまで生きた人生の証として、一冊だけ、本を発行してみよう。

家族が遺したもののうちから、わたしは自分の葬式代として取り分けていた定期預金を解約しました。そのお金を使って、自費出版をすることにしたのです。

これがふたつめの、おおきな選択でした。

他力本願な生涯を送ってきました。

けれど、それも人生です。自分の人生の、他力本願な一面に気付きながら、わたしはわたしなりに選んできました。おおきな選択、ちいさな選択。それらの選択すべてが、いまのわたしに繋がっています。

そして見ることのできた風景があります。

目の前で、友達の子供たちがわたしの本を開いていました。小学生の男の子。中学生の女の子。話しかける親たちの言葉には空返事をし、いま、わたしから購入したばかりの本を開いて、わたしが書いた物語を読み続けています。真摯に。

わたしは。

それから少しの時間が経ちました。本を発行した翌春、わたしは児童文学の公募に、新たに書き上げた物語を投稿しました。そして選考から外れました。

自費出版は一冊だけと決めていました。その決意をくつがえすわけにはいきません。そもそも、いまのわたしが死んだときの葬式代はまだ貯まっていないのです。ですからもう、自費出版を選ぶことはできません。はじめての本を一緒に作り上げてくださった、あの素敵な編集者さんたちともう一度、と思うときがあっても、もう選べないのです。

だけれどもわたしは、絶対に、あの子達に届ける物語を書く。

ここから何年かかっても。何十年かかっても。もしかしたらわたしの命が先に終わるかもしれないけれど、まだ葬式代は貯まっていないのだもの。

終わるわけには、いかないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?