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静かな祝祭


#映像試論
静止画や動画を含む映像行為をデザインやリサーチ実践の一環と捉え、目の前の出来事を「みる」ということの意味と在り方を考える。日記のような備忘録から映像論、人類学の考察まで。


あの梅雨入りは誤報だったのだろうか。キジバトとその巣は、さほど強い雨にさらされることもなく、6月に入ったことに孵化した。それは、まるで音のない夏祭りのように、静かに、それでいて確かにやってきた祝祭だった。


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鳩の孵化が失敗する原因のほとんどは、卵や雛が他の動物によって捕食されてしまうことなのだとか。もみの木の奥に巣を構え、二羽の雛は親鳩の身体に包まれて、孵化してすぐはほとんどその姿をみることすらできなかった。

雛の身体の成長には驚くばかりで、真っ黒な地肌、大きな眼球、黄色くまだらな産毛は決して見栄えが良いとは言えないけれど、毎日見違えるように大きくなった。数日経つと親鳩の留守が目立つようになり、取り残された雛たちは身体を寄り添わせて眠っている。親鳩は帰ってくるとその口を大きくあけ、雛たちは咀嚼され消化された栄養分を与えられる。徐々に人間の気配を感じるようになると、発達途上の羽ではなく嘴を突くようにして威嚇をする。まるで雛の内側から湧き出る恐怖や怒りといった情動を表出させるすべを必死に流しているように。しかし雛たちが出会った生物の中で最も大きな人間にも、さらに数日を経て慣れが出てくる。次第に嘴や羽を振り回すことをやめ、少し近づいた程度では微動だにしなくなる。

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「巣立ち」と聞くとなんだか特別な儀礼のように考えてしまうが、その瞬間もまた、突如訪れるものである。初めて雛が巣を空けたのは、孵化から2週間ほど過ぎた日のこと。朝日が差し込むもみの木の奥にはその姿がない。二羽は近くの柵に留まっている。落ち着きなく柵の上を行き来し、長い首を忙しなく動かす。黄色い産毛が少し残っている以外は、綺麗な鱗模様を持つ立派なキジバトの個体だ。

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突然やってくる巣立ちという行為は、雛たちの、そして周辺世界のいかなるものによって引き起こされるのだろうか。同じ個体の集団によって規定された「決まり」ではない何かによって、それも突如として生じる行動変化は、「巣立ち」という表現を聞いて私たちが思い浮かべるような明るく平和で幸福に満ちたイメージに対する違和感を真正面から突きつける。それは飛びたいという衝動、などというロマン的で人間による一方的な描写で解釈して良いものではないのかもしれない。巣立ちたい、のではなく巣立たなければならない。他者によって決められたことではなく、自然のリズムに適応するために為すしかないもの。そのほかに用意された選択肢はないのである。生まれて数週間、誕生したばかりの小さな「生」において初めて飛び立った二羽の鳩もまた、巣から遠くない柵の上で、揃って並んでその祝祭の瞬間を生きている。そしてそれは、「子ども」と「大人」という不思議なボーダーのその厚みの中でいかに生きのみようかともがいているように見える。異なる生存戦略の存在を前にして、じわりと滲む緊張感が今も途絶えない。

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一ヶ月半の観察では、Nikon Z6およびZ50の両ボディ、Nikkor Z24-70mm/f4、Helios 55mm/f2、Leica Summicron M 50mm/f2、Leica Summitar M 50mm/f2、Olimpus F.Zuiko 50mm/f1.8、SPEEDMASTER 50mm/f0.95を使用して撮影しました。

おまけ

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