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日本最古のダム 狭山池


狭山池

大阪狭山市にある狭山池に行ってきました。

大阪のローカル史跡ですので(偏見)、ご存知ない方も多いかもしれまぜん。

ですが、狭山池は推古さんの時代に造られた日本最古のダムで、時代時代で何度か改修されてて、行基さんとかも改修してるんです。

とりあえず素晴らしくて素晴らしい狭山池に行ってきたので少し語らせていただきます。

noteでは古墳関連について書くと決めてるんですが、狭山池も古墳に関係してくるんです。まあそれは追々。

とりあえずこれが狭山池です。


飛鳥時代に造られた日本で一番古いダム(ため池)です。
古事記、日本書紀にも登場し、西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたといわれています。


駐車場から池に向かう道に龍神社と書かれた扁額のある鳥居が立っています。
で、池の中の、ちょうど鳥居の奥にあたる位置にお社があります。



池沿いに顔空き看板が。
あのお社に祀られている龍神はこのさやりんということらしいです。
ミャクミャクはいつみても安定のホラーですね。


池の向こうに謎の塔が見えました。
後で行ってみようかなとか考えてたんですが、この後博物館に行ったらけっきょくそのまま忘れてました。


狭山池博物館

狭山池のすぐ側にある狭山池博物館です。

安藤忠雄さんデザインの博物館です。

安藤忠雄さんは近つ飛鳥博物館や中之島のこども本の森をデザインした超有名建築家です。


なんかすごい変な造りの建物で、正面からは入れません。

建物の裏にあたる狭山池側から本当にこれであってるの?って感じの微妙な通路を通って建物へ。

裏口感のある壁。
その壁沿いに置かれた、置いておく所なくて仕方なしに裏手に出しておいた感のある石たち。


石樋せきひの蓋


石樋せきひ

石樋せきひ

見慣れた形の石だよなーって思ってると、やはり古墳の石棺でした。
長方形の短い二辺の壁を切り取って石樋にしたとのこと。
はダムから水を取り出すために堤を貫通している水道管のことです。

裏口ですが、正式な入り口です。

左手に見えるエレベーターが博物館入り口なのですが……


小さく、エレベーター故障云々の貼り紙が。


ぐるっとこちらの階段までまわらなければなりませんでした。

ですが、これがまた絶景です。


なんだか悪夢の中に出てきそうな絶景です。



多分これ、どこまで行ってもこの世界から抜け出せないやつです。 
たまたまなのか、全く人がいないのも悪夢感を増幅してくれます。


滝の裏感のある通路。



反対側からも。
こちらからだと小さな段が作られているのが分かります。

これまた悪夢感のある広場と階段。
一応これが正式な入り口です。

写真撮ってないんですが、エントランスはおしゃれではありますが、まだ普通の博物館でした。


堤の断面

で、エントランスから続く下りの通路がまた細い。



右手が変な壁になってるなーと思っていました。


降りきってぐるりと回るとやはり壁。
実はこれダムの堤を輪切りにした物のようです。

圧巻の迫力です。
古代の人々がこれを作ったんだと思うと胸アツです。

輪切りにして持ってきた現代の人も凄いですけど。


これは輪切り堤の模型。
断面を見れば地層のように改修工事の跡が分かります。
隣には樋と呼ばれる堤の底を通っていた水道管も展示されています。

取水部

こちらは樋の取水部。
ギミック感がありワクワクします。

江戸時代の東樋ひがしひの取水部
江戸時代の狭山池には、3つの樋がある。 中樋と西樋は取水部が階段状に4段あるが、 東樋は1段である。
東樋の取水部は、摺柱すりばしらの間に水の取り入れ口があり、 戸関板とぜきいたに取りつけた男柱おとこばしらを引き上げると、水が流れこむ。取水部内の樋管のふたにも、水を取り入れる穴が1つ開いている。
取水部の両側には、「ハ」の字形に開いた 形から扇板おうぎいたと呼ばれる施設がつく。


堤の構造

続いて堤の構造です。


堤は地滑りが起きないよう、ミルフィーユ状に植物の枝や葉を敷いていく敷葉工法しきばこうほうで造られています。

敷き葉の実物が展示されていました。

敷葉工法しきばこうほうと土のう積み
調査の途中であざやかな緑色の葉を残す 多数の小枝があらわれた。 帯状に薄くなった小枝の層が何層にもわたり、小枝を敷きならべては土を積む敷葉工法の存在が明らかになった。さらに堤の斜面やその中に見られる黒い土のかたまりが土のうであることもわかった。 現在の土木技術には、土の間に布などをはさみ盛土のすべりと崩れをふせぐ工法がある。 薄くしまった敷葉層には、布と同じ役目が考えられる。
敷葉工法は、 じょうぶな堤をつくる古代の土木技術である。


建物外の勝手口みたいなところに石で出来た樋が置かれていましたが、ここに展示されていたのは木製の樋です。

これは江戸時代に造られた東樋。



その下には飛鳥時代に造られた最初の東樋。

飛鳥時代のやつを正面から。

狭山池の堤の築造は616年頃(正確な年は不明)、推古天皇の時代です。
この東樋はコウヤマキの木をくり抜いて造られています。
コウヤマキをくり抜くといえば古墳の木棺と同じ工法です。いわれてみると木棺っぽい。技術が流用されたのでしょう。

二つの樋の模型です。こういう模型を作る人の技術と根気もすごいよなあ。

狭山池を改修した人たち

狭山池はその歴史の中で何度か改修工事が行われています。

博物館では時代時代で改修工事に携わった三名の改修者リノベーターについての展示がありました。←わざわざルビを振ったのはちょっとカッコイイかなと思っただけで特に意味はありません。

行基ぎょうき

行基和尚。
後に東大寺の大仏建立にネームバリューを利用される行基和尚は、機内で治水や架橋などの社会事業を精力的に行っていました。
この狭山池の改修工事を行ったという記録もあるそうです。

教科書などで見たこともあるような気がする像ですが、これはレプリカです。


重源ちょうげん


こちらは重源ちょうげん和尚と改修記念石碑。
手前にある石碑にはたくさんの人の協力で改修したよ的なことが書かれています。

博物館で買ったパンフレットに現代語訳文が載っていましたので、以下に引用します。

つつしんで、三世十方諸仏・菩薩に申し上げます。
狭山池を修復する事
狭山池は、そのむかし行基菩薩が六十四歳 の時、天平三年辛未の歳に初めて堤を築き、樋を伏せました。
しかし、年月を経るうちに、壊れてしまいました。
ここに摂津・河内・和泉三箇国の狭山池下流にあって(恩恵を受けている)五十余りの郷の人々の要請により、重源が八十二歳の時、
建仁二年壬戌の歳に春より池の修復を計画しました。
二月七日にはじめて土を掘り、四月八日にはじめて石樋を伏せ、 四月二十四日に工事を終えました。その間、僧侶と俗人・男女(を問わず)・沙弥・小児・乞食・非人などが、(力を合わせ)自らの手で石を引き、堤を築きました。
これは、名誉と利益のためではなく、ひとえに公益のためです。 願わくば、(改修に参加したことで)仏の教えと縁を結び、
(仏様が)この世の一切の生物をひとしく幸せにされることをつつしんで申し上げます。

……すいません、実は重源さんを知りませんでした。

平安時代から鎌倉時代にかけて生きたお坊さんで、源平の乱で焼け落ちた東大寺を復興した方なんですね。

その重源和尚、なかなか思い切った改修工事をしています。


罰当たりな樋

六段の石樋
大正・昭和初年の改修で、 中樋の放水部から両端が打ち欠かれて、樋管に使われた古墳時代の石棺が見つかった。石棺を調査した末永雅雄は、このような石棺が 「南無阿弥陀仏作善集』に記された 石槌ではないかと考えた。
平成の改修にともなう江戸時代の中樋の発掘調査でも、取水部護岸の石垣から同じように加工された石棺が見つかった。 重源の石槌は、石棺を利用した樋管を取水部と放水部に置くものであった。
重源の石樋は六段と記されている。段は長さの単位で、 換算すれば約65m になる。

って、罰当たりじゃないですか?!

続いては石樋に使われた石棺たちです。

重源さん作、罰当たり石樋の蓋


重源さん作、罰当たり石樋


正面から

コンクリートのないこの時代に、大きな自然石はとても貴重な素材だったと思います。
また巨石の採掘できる山はわりと限られており、そこから運んでくるだけでもものすごい労力、コストがかかります。
近隣に使えそうな物があれば、労働コストの削減、工期の大幅な短縮にも繋がりますし良い事ずくめではあるんです。……あるんですけどねえ。

重源さん、とうぜん古墳がお墓なの知っててあばいてるんでしょうし。

ものすごい合理主義者だったんでしょうけど、仏教徒からすれば古墳は異教の墓だったからというのもあるのかな、と思ったりもします。

で、この狭山池なんですが、百舌鳥・古市古墳群で世界遺産に登録された二つの古墳群、百舌鳥古墳群と古市古墳群とはちょうど逆三角形の下の角になる位置にあるんです。

ジオラマ地図がありました。
小さくて分からないでしょうか。
大きな画面だと分かるかもしれません。
画面真ん中の下にある池が狭山池です。

左端の点々と緑があるのが堺市の百舌鳥古墳群。
右側の緑の山と山の間にある点々が古市古墳群です。

百舌鳥古墳群と古市古墳群はそれほど距離も離れていないのに、その間に古墳がほとんどないことが以前から不思議だったんですが、位置関係からしたらもしかしたら重源さんが片っ端からあばいて石材にしていったんんじゃ……とか考えたりしてしまいます。


片桐且元かたぎり かつもと

さて、奈良時代の行基さん、鎌倉時代の重源さんと続いて、江戸時代には片桐且元かたぎり かつもとさんが改修工事を行っています。

片桐さんは武将で、賤ヶ岳の七本槍の一人。

この改修工事をしていた時は豊臣家直轄地の摂津国・河内国・和泉国・小豆島を管轄する国奉行だったそうです。

すいません、武将さんのこと本当によく知らないんです。でも戦国時代に何回か出て来る七本槍ってやつは中二感あって好きです。四天王とか五車星とか八星魔王オクタグラムとか。

強くて有能ですごい方ですね。
一応うぃきを見てみたんですが、片桐さんって竜田藩の初代藩主なんですね。竜田藩は奈良斑鳩にあった藩で、すごい聞き覚えあるんですが……、たぶん前にどこかの古墳に絡めて出て来てたような気がします(残念記憶力)

まあそのうち思い出すでしょう。

こちら片桐且元さんが行った慶長の改修で造られた堤が崩れない仕掛け、木製枠工。
堤の内側の裾部に施されていました。木枠を作ってからその中に土を入れて行く工法です。




重源さんの罰当たり石樋を、片桐さんが再々利用した取水口の扇板(レプリカ)です。


しかもこれ、白い四角いカードの左上の石、なんと先ほど重源さん像の前にあった記念石碑なんです。

つまり片桐さんは重源さんの記念石碑すら素材としてリサイクルしているんです。
合理主義者すげえ。


取水口。



模型です。

古墳推しの僕からすれば複雑な気分になる光景ですが、人々の暮らしにものすごく大きく貢献した設備なんだろうなとも思います。

築造と改修工事に様々な人々がものすごい熱意とか思想とか価値観とかをもって関わってきた施設です。恩恵をうけた人も限りないでしょう。
単純な史跡と呼ぶにはあまりにもパワフルでメカニカルで、なんかもう本当に行ってよかったです。ダムとしても現役ですし。


ダムカード


そういえば博物館でダムカードをもらいました。あとマンホールカードも。


狭山池博物館のパンフレットに載せて撮ってみました。

上の一枚がダムカードです。
下の二枚がマンホールカードです。

ダムカードは全国のダムで配布されていて、前にちょっとしたブームにもなっていました。

マンホールカードも全国の自治体が発行しています。実際にその自治体のどこかにカードの図案になっているマンホールがあるそうです。

大阪狭山市のマンホールカードが二枚あるのはちょうど切り替えの時期にかかっていて、新旧両方を貰えました。今後は左のさやりん図案のものになるようです。



裏面。
解説文がチマチマと書かれてるのがとても良いです。

ダムカードやマンホールカードは日本全国で配布されているようなので、とてもコンプは望めません。たまたま立ち寄った施設で配布があれば貰うようにしようかな。

そういえばカードといえば、百舌鳥・古市古墳群の古墳カード(モズフルカード)、フルコンプしましたよ。
またそのうち紹介しますね。


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