村に行く(サパティスタ学校の思い出3)

 早朝、私たちは軽トラックに詰め込まれて派遣先の村へと向かった。生徒は私以外の全員がメキシコシティの出身で、残りはその護衛たち。ちなみに女性には女性の護衛がついている。目的地はラス・デリシアス(Las Delicias)という村であり、オベンティックから1時間ほどのところにあった。

 到着して早々、私たちのホストとなるそれぞれの家の家主たちが迎えてくれて、一緒に村の中心部にある小さな集会場のようなところへ向かった。そこでもまた目出し帽をかぶった人々がぎっしり立って歓迎してくれた。私たちは彼らの前に立たされて、「はじめまして、ここにこれて光栄です」というような挨拶をした。ここでもまた村の若者たちのギター演奏とともにサパティスタ国歌だ。

 さて、もうお気づきであろうが、この「学校」、教材はあるけども普通の学校とはまったく違う。全生徒がそれぞれサパティスタの家族(つまりチアパス州の先住民たち)と5日間暮らす、というのがこの「学校」の授業である。私を迎えてくれた家主の名はセベデオといい、ほかにその妻、まだまだ小さな息子二人、妹たち、祖父、で家族が構成されていた。母語はツォツィル語で、僅かながらスペイン語を解すものの、どうやら外国人の私以上に知らないようだった。彼らの「家」は、おそらく伝統的なものであろう、石で出来た四角い建物で、ふつうのメキシコ人の家と比べて非常に小さい。10メートル四方もないだろう。部屋は四つあり、中心のリビングと、三つの寝室だ。とはいえ「ドア」はなく、カーテンで仕切られているだけだ。トイレ兼風呂は外にある掘立小屋で、これは付近の住民(といってもほとんど親族らしいが)と共同で使われている。炊事場は家の玄関の向かいにひとつ、これまた掘立の小さな小屋である。彼らは家の中では裸足で、常に足を黒くしている。外に出るときには靴を履く、このあたりは日本人と同じだ。

 私の誤算は、いくら先住民とはいえ、護衛たちのようにスペイン語と現地語のバイリンガルであろうと考えていたことだ。まさか、彼らがほとんどツォツィル語しか話さない、つまり私がツォツィル語を学ばなければいけなくなる、という状況に至るとは思いもよらなかった。このまったく異なる言語、それも基本的にこのチアパスの先住民の間で話されるだけのツォツィル語。日本人でツォツィル語を学んだことがある者など数十人もいないのではないか。

 もちろん彼らは簡単なスペイン語は解すし、私も簡単なスペイン語を話すので、ツォツィル語を必ずしも学ばなければいけなかったといえばそういうわけでもない。たとえツォツィル語を使ったとしてもこっちがマスターしないかぎり難解な話など出来っこない。つまり、最初から私たちのコミュニケーションが非常にシンプルなものにしかならないということはわかりきっていた。ツォツィルを学ぼうとしたのは私の、なんというか礼儀のようなものに近い感情からだったろう。とはいえ、「学ぶ」といっても護衛を通じて、スペイン語を介して学ばざるを得ないわけで、これはかなりの困難をきわめた。言語学者か人類学者にでもなったかのような気分だった。文法も何もわからないなか、できることは「~は何というの?」とスペイン語で聞きまくるだけだ。

 すこし脱線して、ツォツィルとは何かという話をしよう。チアパスからグアテマラにかけての先住民たちは、マヤ民族の子孫である。ツォツィルもマヤ語から分かれたものであり、マヤ語族に属する。チアパスにはほかにもツェルタル語という親戚言語を話す人々なんかもいる。文法に関してはいま本を探しているぐらいで紹介できるほどの知識はない。よく近所の女の子相手に話しかけて遊んだ言葉といえば”bu chabat ?”(どこいくの?)とたずね、”Ta na”(うちに)と帰る、というような他愛のないもの。”Kusi avi?”(なまえは?)”Jagin Javilal?”(何歳?)なんかもよく覚えている。ちなみに私は当時23歳だったが、23はoshimchavinikといい非常に長い。基本的に数体系は非常に難解で、三日経ってようやく1から10まで覚えた。

 彼らが作ってくれるご飯は素晴らしく美味かった。基本は自給自足的で、出てくるものはフリホーレスとトルティージャ、塩とチレ、コーヒー、というのが基本だ。時々野菜のスープや鶏肉なんかも出してくれた。シンプルだが唐辛子のおいしさは格別で、これを割って種をふりかけて食べれば単調な料理にもまったく飽きが来ない。よくよく考えればこの唐辛子を求めてヨーロッパ人たちはアメリカ大陸を征服したのだった。これが南蛮貿易を経て日本に運ばれ、秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島に渡って韓国料理の基礎を形作る。いま私たちが思い浮かぶ欧州料理のほとんどもアメリカ大陸侵略なしには生まれなかった。コーヒー、トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、これらすべてはこの大陸の産だったからだ。イタリアのトマトスパゲッティすら元来は自前のものではない、と考えれば凄い話である。

 話がまた脱線した。とにかく、彼らの食事はマヤ時代からおそらくほとんど変わることのないものだ。この家にあった近代的なものといえばテレビと、DVDプレーヤー(私の教材学習のために配布されたものであろうか)だけで、もちろんガスもない。火は家の祖父が樵をしてとってきた薪がくべられて点けられる。本もまったくない。そもそもツォツィル語の本など存在しないからだ。スペイン語の新聞はトイレットペーパー代わりに使われるだけ。少数言語の家に生まれるということは、圧倒的な情報格差に、生まれながらにして甘んじるということである。

 最初の日の夜、私がセベデオとハビエル相手にツォツィル語を学んでいると、気づけば20人ほどの近所の者たちが、ほぼ総出で部屋のなかに来た。物珍しくてしょうがないのだろう。私の発音に爆笑しながら、いろいろと助け舟を出してくれたのを覚えている。特に近所のロサという15歳の女の子は、小学校でスペイン語を学んだらしく、それもなかなか上手なのでよく助けてくれた。とはいえこっちがツォツィルでたずねたのに相手がスペイン語で返してくると少し悲しい気持ちになる。夜が更けると私を囲んでいた人々も寝に帰り、私もまた疲れて寝た。マヤの夜は早いのだ。

<つづく>

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