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静かな市場

「知らない市場へ行こう」

スケジュールを詰め過ぎた旅程の中で僅かな時間を見つけると、隣に座っている取引先のかいくんに、そんな打診をした。

「いいですね、行きましょう」

かいくんはそう答えると、僕は今いる場所から一番近く、メジャーな旅行サイトには載っていないような小さな市場を見つけた。
その場所をかいくんに告げると、彼はGrab(アプリ)でタクシーを呼んだ。
タッチ式のクレジットカードで会計を済ませ、店を出る。
軒先でタバコに火をつけた矢先、クルマは1分も経たないうちに僕たちの目の前に停まった。

タクシーとは言い難いほどかなり小型のクルマに乗ったが、交差点で渋滞になる度、その小さなクルマはあり得ないほど狭い隙間に突っ込んでは、長い列の先頭に並んだ。

僕はいまでも迎えに来たタクシーが大きなクルマだと、訳もなく嬉しく感じてしまうのだけど、時間が無い時に早く着くのであれば、今後は小さなタクシーもありだと思った。
ただ後席のシートがあまりにも狭すぎて、ポケットにあるスマホを取り出そうとしたら足が見事につった。

途中までは市内の見慣れた景色が続いたが、その市場の周辺は見たことの無いエリアになっていた。

人気の少ない古びた市場の外周をゆっくりと歩くと、ほどなくして違和感を覚えた。
市場の店先には多種多様の日用品や衣服などが山積みされているのだが、店の人が誰も声を掛けて来ない。
これが市内中心部にある観光市場なら、1メートルおきに声を掛けられる。

市場を取り囲むように建てられた家並みを見上げると、ベランダから見ていたおっさんがこちらに気づき、窓をピシャッと閉めた。
薄気味悪いというよりはとにかく静かで、閑散としていた。

市場の外にある小さな靴屋を見つけたので店内に入ろうとすると、店先で半分寝ていた店主が急に目覚め、指でバッテンをした。
僕はしばらくその場で戸惑っていると、

「夕方だし、もう閉店なんじゃないですかね」

かいくんはそう言ったが、いつもの彼らなら、閉まる1分前だろうが何人でも客を入れるはずだ。

仕方なく市場の中へ入ると、観光市場とさほど変わらない商品が並んでいたが、やはりどの店員も一切声を掛けて来なかった。
言い方に品が無いかもしれないが、その辺に落ちている空き缶ですら売れるモノなら売ってしまおうとする商魂たくましき市場の人が、だ。

市場は3階まであったが、土産になりそうな品は特に見つからなかった。

先ほどからの違和感を持ったまま2階へ下り、そこでちょっとしたサンダルを買おうと、勇気を出して女性店員に向かって商品を指差した。
すると、さきほど半分寝ていた店主と同じように指でバッテンをした。

これはかいくんの言うとおり、市場はもう閉店なのかと翻訳アプリで画面を見せると、彼女は笑って首を横に振った。
しばらくして、その彼女が何軒か先にいた若い男の子の名前を大声で呼ぶと、少年は僅かに英語が話せた。

しばし彼と身振り手振り話したのち、ようやくここは卸売り専門の市場であることがわかった。

僕が欲しいと思ったサンダルも5足からなら売ってもいいと言われたが、同じ色とデザインのサンダルを5足も要らない。
こちらも少し意地になり、それなら5足分を支払うので1足だけ売ってくれと頼んでみたが、やはり彼も手でバッテンをした。

彼の話によれば、この卸売市場から市内の観光市場へも卸していて、ベトナムで有名な百貨店などにも卸しているという。

僕は、彼らがその流通のルールを徹底して守っていることに感心した。

今は売れれば何でも売るという世界で溢れているし、タクシーも食事もアプリをタッチすれば数分でやって来る。
ベトナムも他の国と同様、いろんなものが自動化されつつあるのに、ほんのちょっとした日用品が1つも買えなかった不自由さが、なぜか少し嬉しく感じたホーチミンの夕方だった。

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