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デルタ航空 296便

旅とは、判断の連続でもある。

空港に着いたその時から、何に乗って街まで向かうのか、今夜や明日の食べ物、このまま旅を進めるのか、それとも引き返すのか。
旅先で選択したその責任は、全て自分に返ってくる。

楽しい決断が続けばよいと願っていても、いつもそうはいかない。

時に、困難に直面する人を目にしたら、助けられる強さを持てるだろうか。

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ホルヘ(Jorge)は、チリ・サンチアゴ(SanTiago)から日本へは数か月に一度のペースで訪問する、若くて優秀なセールスマンだ。
移動があまりに多いので、地上にいる時間の方が短いんじゃないかと冗談を言うと、いつも彼は子供の様に笑った。

ホルヘは日本に滞在すると、国内の移動先でのアテンド(案内)を殆ど断った。
1人で北海道から九州まで移動し、ちゃんと戻ってくる。
英語は流暢だが、日本語はほとんど話せない。

日本の片田舎に行けば苦労すると思うのだけど、それでも自力で移動をすることが好きなのは彼の持つ雰囲気から伝わってきたし、そんな彼のことが好きだった。

ホルヘはわりと無計画なこともするヤツで、ある時トーキョーでウインドウショッピングしていると、突然高性能なロードバイクが欲しいと言い出し、あろうことかその場で全部バラしてくれと店主に頼んだ。

よりによってその店主はかなり頑固な親父で、店がミリ単位で精度よく組み立てた自転車を全部バラすとは何事だと憤慨したが、こちらは保証など無くてもいいからと頼み込み、有り得ないほど大きな段ボールに詰め込んだ。

当然、ホルヘは日本語が出来ないので僕が店主に頼んだのだけど、あれだけ店側に不貞腐れられながら商品を買うという気持ちは、2度とやりたくない思い出の1つだ。

ようやく買えたどデカい段ボールは、電車に持ち込めるような大きさではなく、なんとか僕のクルマにギューギューに詰め込んだまではいいのだが、今度はホルヘが乗るスペースが無い。
すると、彼は僅かなクルマの荷台スペースに入り込み、無茶苦茶な体制で転がり、これならイケると言い出した時、僕は怒る前に本気で笑ってしまった。

それもまだ、これでチリへ直帰するのならわかる。
しかし、ホルヘはその大荷物を担ぎ、中国で仕事をしてから帰国をした。
noteを書くにあたり、何日か探し続けたのだけど見つからなかったのが非常に残念なのだけど、ホルヘは中国のタクシーでは積めないその巨大段ボールを、農民に頼んでボロボロのトラックで移動する写真が送られてきた時、彼の底にあるタフネスさを感じた。

ある年の春。
いつものように日本全国を回り、旅程の最後をトーキョーで数日間過ごすという話になった。
夕飯時に、ホルヘに新しい家族が増えるというビックニュースを聞き、小さなお祝いをした。

その年で28歳になる彼は、彼の奥さんや家族の話をする時が、一番幸せそうだった。

その数日後の3月11日。

日本にいる誰もが忘れないであろう大震災が、東北からこのトーキョーまでを大きく揺らした。
僕達はちょうどミーティングの最中で、ビルの中にいた。

ホルヘはその時、思っていたよりもずっと冷静だったのが今でも記憶に残っているが、よく考えてみたら彼の国も地震が多い

僕は当時、比較的冷静に同僚達を非常口へ誘導したつもりだったが、外に出た時、自分だけが薄着で、片手にボールペンを持っていた。

大きな揺れが収まり、部屋に戻ってテレビを見ると、皆、無言になった。

日が間もなく暮れる頃には、ありとあらゆる通信が麻痺し、地下鉄や路上を走る車は全て止まった。

ホルヘにはホテルへ戻るように伝え、人生でおそらく初めての、一番楽しくない週末を迎えた。
週明けになっても交通網は依然大混乱だったが、少しでも落ち着きを取り戻したい人達の空気を強く感じた。

ホルヘは本来月曜に帰国をする予定で、成田空港は迅速なリカバリーによって再開をしていたが、彼のフライトは一部がキャンセルとなっていた。

週末はホルヘの奥さんや家族達から、連絡が絶えなかったそうだ。
日本の惨状をテレビで見る限り、無理も無いだろう。
そしてホルヘを心配するあまり、出産間際の奥さんの体調があまり芳しくないという話をした。

いつもは陽気で明るいホルヘの顔色が明らかに変化したのは、その悪いニュースを聞いた時からだった。

航空会社の電話は連日回線がパンクし、得られる情報も錯綜していた。
日に日に焦り出す彼を見ていると居ても立っても居られなくなり、僕はホルヘと成田空港へ向かうことにした。

出発ロビーは予想していた以上に混雑していて、全てのチェックインカウンターのスタッフと乗客が、まるで喧嘩でもしているかのような緊迫した状態だった。

大きな紛争や震災が起きれば皆、家族の元へ帰りたいと思うだろう。
時間と共に疲れ果てていく乗客や、何とかしてあげたいと努力する空港職員達、誰一人悪くない人達の姿を見ていると、徐々に気持ちが暗くなっていった。

3日目にしてようやく、アメリカからチリまでのチケットを手配することが出来た。
だが、成田からアトランタまでのフライトがどうにもならない。
幸運にも予約できた人々は歓喜し、いそいそとスーツケースをカウンターへ預けていった。
発券のリミットが刻々と近づく。
横で下を向いたまま、少し涙目になっているホルヘを見るのが、つらかった。

発券のリミットまで2時間切った頃には、ただ静かにその時を過ごした。
無理に変な期待を持たせるわけにもいかず、遥か彼方にいる奥さんの容体を心配しながら、静かにキャンセルが出るのを待った。

その時、先程から後ろに座っていた1人の老人が、ホルヘに言った。

「私のチケットでよかったら、使ってくれ」

僕達はしばらく固まってしまったが、老人は先程から僕達の会話を聞き、憔悴していくホルヘを見て、貴重なチケットを譲ってくれたのだ。
するとホルヘは赤子の様に喜び、老人と共に急いでカウンターへ向かった。

暫くして戻ってくると、なんとか彼とチケットをスイッチ出来たということだった。
老人はアメリカ人だったと記憶しているが、彼は急いで帰る理由もなく、待っている家族もいないと言った。

老人は「慌てずとも、俺は今年中に帰れればいいさ」と両手を挙げ冗談を言うと、ホルヘには「グッドラック」とだけ伝え、騒がしいロビーへ歩いていった。

”飛び乗る”という言葉通りのスピードでホルヘは飛行機に乗る事ができ、無事にチリに帰り着くことができた。

数日後、新しく増えた家族の写真も送られ、ホルヘと過ごした震災の時間が過ぎていった。

そしていつかあの老人の様な、強さを持ちたいと思った。


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