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『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』感想 過去と伝統を否定するヒーロー ※ちょっとネタバレ注意

ある俳優の死とその主演映画。といえば『ワイルドスピード』シリーズのスカイミッションのラストを思い出さずにはいられない。故ポール・ウォーカーとかなしみに暮れていたファンにささげられたあのシーンは、ワイスピにさほど興味のない私でさえも、未だにちゃんと覚えているほど出来がよかったのだから。それは単なるファンサーヴィスを超えて、喪失感でいっぱいの人々へのケアにもつながっていたのではないか、とも今思うのである。

ウォーカーの死後、合成映像で作られた別れのシーン。男泣き必須。

ブラックパンサーことティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)の病死から1年がたった。本作の主役である妹のシュリ(レティーシャ・ライト)をはじめワカンダの人々は、喪失感から抜け出せないでいた。また、守護神を失ったワカンダも、各国との衝突が絶えないなど苦難の日々が続く。そんなある日、アメリカ海軍とCIAが運営する海上プラントが海底帝国タロカンを名乗る軍団によって襲撃される。アメリカは暗々裏に海底に埋もれていたチート鉱物ヴィブラニウムを発掘しようとしていたのだが、どうやら帝国はその手に渡り悪用されるのを阻止しようとしたらしい。思わぬ敵の出現に対応を迫られるアメリカ、そしてワカンダも不本意ながらその戦いに巻き込まれることになり……。

なんだかお話がちっともマーヴェルらしくないなぁ、なんて思って見ていたのだが、案の定他のヒーローたちは全く出てこないし、ポスクレにも登場しないのはちょっと意外だった。そもそも冒頭のティチャラの葬儀にも、アベンジャーズの面々は参列していないのである。なんと薄情なことだろうか。時に拳を交えたり、サノスみてーな大悪党と一緒に闘った仲だろうが……。兎に角、MCUフランチャイズの作品というより、単体の企画、という感じがする映画だった。その為か単体で見ても十分楽しめるっちゃ楽しめるので、他のMCU作品よりも敷居は低いかもしれない。

監督は前作のライアン・クーデラーが続投。ということで至る所ちりばめられた美術や音楽は言うことなし。高い美意識で構成された映画といって過言ではない。新たに登場する海底帝国の世界観も面白く、彼らの由来である中南米文化+キャメロンの『アバター』みたいな取り合わせで、ブラックパンサーの世界に新たな彩りを付与している。

だが、私のこの映画の評価は実はそう高くない。というのも見終わって随分モヤモヤしたからである。つまらなかったという意味ではないのだが、私が求めていたもの、楽しみにしていたものとは違うものが提示された、と言ったところだろうか。松屋に牛カレーを喰いにいったら、結構本格的なインドカレーが出てきたみたいな具合に。いやなんか変なたとえだけど。

その主な原因は冒頭にも述べたが、マーヴェルらしくない=ウェルメイドなヒーロー映画らしくないことが挙げられる。というのも映画の3分の2くらいはヒーロー不在のまま映画は進行するからだ。ブラックパンサーってタイトルなのにブラックパンサーでてこないのマジうけるというやつだ。まぁある意味「誰が、どんな風にブラックパンサーを継ぐのか」というミステリ的な見どころがある。前作は、既でティチャラがブラックパンサーに内定した状態ではじまったので、前作で描けなかったブラックパンサー誕生秘話を、丁寧に描いたものともとれる。

ブラックパンサーがいないからといって面白くない訳ではない。私は親衛隊のオコエをはじめとするスキンヘッドのお姉さま達が好きなので、序盤からの彼女らの暴れっぷりも見てて楽しかった。のだが、本心ではやはり主役に出てもらわないとなぁ、画竜点睛を欠くみたいな思いを抱かずにはいられない。

待ちに待った肝心のパンサー登場なのだが、本来であれば相応の感動やエモーションを伴うはずなのに、敢えてそうしたものをスポイルしたようなあ映像になっている。これは演出力不足などではなく、恰も、ヒーローなんてそんなものですよと言わんばかりの冷め方を覚える。

ブラックパンサーは、ワカンダの伝統によって支えられたヒーローである。その継承条件なのだが、ルールに則った儀式を行わねばならず、また妙なクスリを飲んで必ずご先祖様の助言をもらわないといけない。

ところが、この映画はそのルールを否定する。ブラックパンサーの継承者は死後の世界など信じていないので上記の儀式も「くだらない」と一蹴してしまう。映画のあちこちにみられるが、そもそも世間一般の「伝統」的な何かをディスるような脚本なのだから。というのも、元々ヴィブラニウムという物質がワカンダ以外の海域から見つかったのがこの騒動の始まり、とあらすじに書いた。ところがワカンダに語られる「伝承」によればヴィブラニウムは国内にしかなかったはずなのだ。つまり「伝承」はとんだヨタ話だった訳だ。

この方針は、20年に逝去したチャドウィックボーズマンその人の扱いにも当てはまる。この映画ではほんの数秒の回想シーンを除いて、彼の姿は出てこないからだ。先に書いたワイスピの例とは全く正反対で、何が何でも、氏の偶像化を避けようとしているとしか思えないのだ。

これは本作に限らず、MCUのフェーズ4全般にいえるのだが、ヒーローの過去の清算や決別といったテーマを取り扱われている。例えばディズニープラスで配信された『ファルコン&ウィンターソルジャー』では、偉大なキャプテンアメリカの栄光と現在の自分とを比較してしまい、悩みながらその盾を受け継ぐサミュエルのストーリーが展開する。またそれと並行し、洗脳されていたバッキーバーンズの過去の犯罪がクローズアップされ、彼なりの贖罪が描かれた。古いやり方や価値観のままではいけない、刷新しなければならないという思いが伝わる。

余談だが、それとは対照的にフェーズ4はドラマシリーズを中心に、先輩に負けず劣らずの新人ヒーローたちも数多く出てきて、フランチャイズに明るいムードをもたらしている。何よりそこに世代交代の感が現れていることに気が付く。ジェンダーロールや人種や宗教を超えて(個人的ナンバーワンの推しはミズ・マーベルだろう。パキスタンにルーツをもつムスリムのアメリカ人で、ドラマでもその暮らしを丁寧に描いていたりする。かなり面白いのでお勧めしておく)

つまり本作も例に漏れず、過去の伝統でがんじがらめになったブラックパンサーとの決別としての映画なのである。本作のそのやり方ときたらとても寂しくて、過去のブラックパンサーファンなら悲しいものかもしれない。映画を見終わってそこに残されたものは、ボーズマンという名優との決別でもあり、また過去のヒーロー像との脱却を目指すべくもがき苦しむ人々の姿だ。オルタナティブの創出、までは至っていないものの、その成果はちゃんとラストに反映されている。暴力沙汰で得られるカタルシスとは無縁で、その静謐に満ちたラストにある意味で驚愕するだろう。

脚本は細かいところはかなり行き当たりばったりで、書いてきたとおりかなり実験的な面もある。しかしながらヒーローものの「現在」を知るうえで、本作は必見なのではないだろうか。

とはいっても、私は映画の中でなら暴力沙汰も全然おk、な人種なので本作の大人しさにはやや不満で物足りなさを覚える。予告のあのパッションはどこいった? もっと暴れていいのよ、と思わずにはいられない。取り合えず今後のフェーズ5に、そして今後登場予定の征服者カーンとの全面戦争に、まぁ色々期待したいところである。


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