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映画『ミスター・ランズベルギス』批評 議論強国リトアニアの独立近代史


公開初日の昨日、本作を鑑賞した。都内の天気はあいにくの曇り。渋谷イメージフォーラムの前にはいかも映画が好きそうな御仁が屯している。本作を配給するサニーフィルム代表の有田さんがいたのでちょっとだけ挨拶させてもらい、ただ時間も差し迫っていたのでいざ劇場へ。しかし一抹の不安が。なにしろ、計4時間の長丁場なので、途中10分の休憩時間はあるとはいえ、間違いなく私の尻は悲鳴をあげるだろう。しかし気合は入れてきた。のりきってやるさ、ということでいざ鑑賞。

色々思ったことはあるのでそれは後にしておくとして、先だって感じたは「リトアニアの人、なんかむちゃくちゃ議論強くね?」というものである。独立したリトアニアの初代国家元首にして、本作で主にスポットをあてられるヴィータウタス・ランズベルギスその人もさることながら、名も無き市井の人々ですら相当レベルが高い。たとえば、ロズニツァは作中でこんな映像を採用している。リトアニアの独立をめぐりそれに真っ向から反対するソ連との一触即発のムードの中、リトアニアの地を訪問していたゴルバチョフが、視察か何かでやってきた工場の中で、とある工員とリトアニア独立について議論する、みたいなひと幕があるのだ。訪れた先々で、ゴルバチョフはマスコミや市民に対して寛大な宗主国の指導者様、みたいな態度で接する訳だ。だが、驚くべきことにその工員氏はその最高指導者に対し全く引けを取らない。それどころか、「(リトアニアが望む)独立とは何だ?」というゴルバチョフが放った質問に対し、言い淀む様子もなく、毅然とした態度で、明快かつ簡潔にこう答えてみせる。

「他国に干渉されないことだ」

これは、当たり前といえば当たり前の事かもしれない。しかし当たり前だからこそ、逆にいざ突然問われたら意外と答えるのが難しい、そんな質問なんじゃないだろうか。まして相手があのゴルバチョフなら、である。ゴルバチョフが使っているのは議論におけるテクニックの一つで、それまでの話の腰を折って「そもそも○○とは何だ?」と聞くことで、相手がどのていどその言葉の意味に通じているか、ちゃんと理解しているかを問う作戦がある。もし理解に乏しい回答が帰ってきたり、逆にとりとめもなくダラダラとしたものだったり、答えられなかったりした場合、いくらでも反撃が可能だ。工員氏の回答次第では、論理の矛盾や穴を指摘され、「だったらそもそも独立なんておかしいだろ」と話をもっていかれたかもしれない。

ちなみだが、その後何かゴルバチョフが何か言っていたのかは定かではない。ロズニツァはここから先を編集によってばっさりとカットしているからだ。案外気の利いたジョークくらい言っていたのかもしれないが、それは闇の中である。ロズニツァいじわる。

とまれ、彼は臆することなくそれに答えた。まずそれに深い敬意を私などは覚えてしまう。仮に小心者の私があの場であんな質問をされたら、工員氏みたく毅然としていられたかどうか。その工員は働き盛りの、当時のランズベルギスと同じくらいの年齢、という印象を受ける。それなりの経験を積んでいるからこそ、ああいう場慣れした、当意即妙の答を放つことができたのもしれない。

また、「リトアニアの独立」という目標に対して、確固たるコンセンサスが国内で維持されていたという点があげられるのではないか。ランズベルギスが語るように、ソ連はあの手この手でリトアニアの分断を煽ってきた。その争点が「独立とは何か、どこまでが独立か」という言葉の定義の問題だ。この映画の前半は、その定義をめぐるランズベルギスの戦い、定義のための手続きを描いたものともいえる。「寝た子を起こすな」「ソ連側に妥協しよう」みたいな意見がソ連のシンパや内閣から噴出する中、あくまでランズベルギスの掲げる考えは一つ。一切の妥協無し、つまり完全な主権の回復、自由を目指すものだった。そういう考えは市民の人々にも広く敷衍して、受け入れられていたのだろうと思われる。

また主権を承認するか否かをめぐる話は、古くは独ソ不可侵条約の秘密議定書まで及ぶ。詳細は省くが、その原本のありかをめぐる顛末も、どこか歴史ミステリーめいた挿話も興味深い。

議論が強いといえば、上記の工員以外にも、リトアニアの人はやけ議論慣れしているというか、活発に自分の意見を述べる人々の映像が多いことに気が付く。老若男女関わらず、だ。それは例えばデモや集会の場、兎に角人々が集まる場でちゃんと記録されている。相手が政治家だろうと銃をもったソ連兵だろうと、である。中盤、梃子でも動かぬ姿勢を見せる断固たるリトアニアに対して、ゴルバチョフは(ソ連、ではなく敢えてゴルバチョフと書かせて頂く)軍を派遣させ、まずソ連はリトアニアの法治機関を掌握しようとする。その、検察におけるシーンだが、私は吹き出してしまった。会議室でソ連の役人だが何だかがリトアニアのとある検察官の解任を宣言するのだが、それにおうじるように別の検事が立ち上がり「おめでとう、これであなたはソ連の検事ではなくなった。あと私達もソ連ぢゃねーし、(お前らの手先に使われるくらいなら)辞めますんで、じゃあの(意訳)」と言うや、次々集った検事たちが会議場から出ていくシーンは緊迫した空気にも関わらず拍手を送ってしまった。煽りスキルとギャグセンもなかなかいけるじゃないの。

ソ軍が軍事行動を開始し、多くの犠牲者が出てしまう(血の日曜日事件)。ランズベルギスが言うには、ゴルバチョフの指示によって意図的に虐殺が実行されたことを示唆されている。そんな状況においても、人々は逃げながらも兵士や戦車に向かい「リトアニア」「帰れ」の声を上げるのを辞めない。尤もロズニツァは古い映像の上から収録した音響を被せる手法を結構多用する作家であるゆえ、もしかしたら群衆の叫ぶ声は当時のものではないかもしれない。尤もパンフレットに掲載された、当時のヴィリニュスにいたTVの取材班の発言を聞く限りでは、本当だったのだろうとも思う。

なぜリトアニアは武力を用いず、ソ連からの独立を成しえたのか。リトアニアの人々は何故、暴力やテロという手段に走らなかったのだろうか。本作が観客に提示する問いへの答えが、ここにあると私は思う。ランズベルギス本人や歴史が証言するように、ソ連側の混乱や、逆らえない時代の流れが後押ししたという要因も、勿論ある。じじつ、このバルト三国の独立を契機にソ連は崩壊していくのだし。

それだけではないだろう。ロズニツァはこう言いたかったのではないか。国のリーダーにこのランズベルギスという人間がいたからこそ成しえた、と。この映画をみてつくづく私もそう感じるのだ。というのも別に直接話した訳ではないけれども、映像越しにみる彼は政治家としては辛抱強く、手続きや制度を重視するまじめさ、実直さも持っている。しかしいざ交渉のテーブルにつけばかなり強かなんだと思うと、ちょっとお茶目な面もある。そんな具合にランズベルギスは私からみても相当魅力的で面白い人で私も好きになったんだが、個人的にはロズニツァが最後にランズベルギスに投げかけた質問と、それに対して造作もなく放った彼の回答が良い。それがあまりに素晴らしくて震えた。当時のリトアニアの人たちは、こういう人間性に惹かれてこそ彼をリーダーにしたのだなと、わかった。

つまり、いいリーダーを選び支持する国には、相応のていどの高い国民が暮らしている。当たり前の話だ。そして、そういう人々の働きがあってこそ、かの大国からの独立というとんでもない仕事を成しえた。そういう話なんではなかろうか。

以下はおまけ、というか蛇足。

ソ連の経済封鎖によってリトアニア内閣が食料品の値上げを勝手に承認したと知るや、議会に大挙して暴徒化する。たとえ戦時中に近い状況であっても、自国の政府が誤った方策をとったらなら、味方であっても「No」をつきつける。リトアニアの人々は現実主義だなぁ、そこがまたいいのかな、とか思ってたらどうもあの暴徒は反独立派の仕業らしい。パンフレット読んで勘違いしていたことに気が付きました。よくみるとソ連の旗も掲げられてたし。私もまだまだだな、というお話ですた。

ついでに私の尻は平気だった。イメフォの席と相性がいいのかもしれん。

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