見出し画像

映画『バビ・ヤール』レビュー ウクライナの黒歴史、ロズニツァの歴史観

先に断っておくと、セルゲイ・ロズニツァ監督『バビ・ヤール』はかなりの超絶難易度を誇るドキュメンタリー映画である。状況説明のためのキャプションなどは必要最小限しか存在しないし、ましてや親切丁寧な歴史的背景の説明だの、ナレーションだのは一切ない。たとえばだが、ナチスドイツがソ連軍をキエフから追い出し占領したその後に、だしぬけにキエフの建築物が次々と爆破されるシーンが差し込まれる。その破壊規模は尋常ではなく、マイケル・ベイが監督したのではないかと思われるほどで、少なくともガス爆発のような事故ではなく人為的なものだ。このシーンを見て「なんで占領後なのにこんな大規模な戦闘?が起きてるんだろう? それともナチが爆破してるのか、それなら猶更なんで真似するんだ?」と素直で単純な私は思わず劇場で首を傾げた。が、それは実はソ連の秘密警察NKVDが設置した爆弾によるものだった、ということを公式パンフレットや他人の書いた記事で知った始末である。尤も、これも決して突飛な話ではなかったりする。現代の戦争においても、割と常套手段なのだ。占領された後に証拠隠滅を図ったり、あやよくば乗り込んできた占領軍や市民にいたちっぺの如く打撃を与えるためにブービートラップやIRDを残していったりする。尚、現在進行形のウクライナ侵攻でも同様の被害が見られている。で、爆発の件は『バビ・ヤール』の不親切なほんの一例。そんな映画なものだから「自分の頭で考えるか、おうちに帰ってネットとかで調べろや、プギャ」というロズニツァの試す声がこちらに轟いてくる気がする(被害妄想)。

冗談はさておき何が言いたいかいうと、本作を見るにあたり、観客に求められる知的水準が著しく高いということだ。マジなのだ。別に皆さまにマウントを取りたいとかそういう訳じゃなくって……まぁこれはロズニツァ作品全体に言えることでもある。スターリンの『国葬』とか、噴飯もののインチキ裁判の顛末を描く『粛清裁判』なんか、まさにそうなんです。私は偶然ソ連の文化に関心があったり、偶然にも私はワシーリー・グロスマン(本作『バビ・ヤール』でも氏の認めた小説『人生と運命』からの引用あり)やソルジェニーツィンの文学作品を事前に読んでいて、それなりの知識があったからなんとかついていけたものの、そうであってもかなり見ていて頭をフル回転させないといけない。この『バビ・ヤール』においても例外はない。最低限でも、「WW2の独ソ戦において、その緩衝地帯にあるウクライナやポーランドといった東欧諸国は、両国のエゴのせいで本当に多大な迷惑どころか、永遠に消えない傷を被った」ていどの知識は必須である。また、そうした歴史への深い関心が求められる。逆に今あなたにそれがなければ、別に無理して背伸びをして見る必要はないよ、という訳である。そういう最低限の装備があり、かつロズニツァのそうしたストロングスタイルな作風を知ったうえで「この映画から私は何かを学ぶ為に見るのだ」という断固たる意志があなたになければ、とてもじゃないが私は奨める気もおきない。

意のままに操られ、人生を牛耳られる《群衆》にならぬために。セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー三選を見て|佐藤厚志|note

こうした異常な大国に挟まれたウクライナのような国は、戦争のたびに主権がコロコロと変わっていく。で、本作で描かれるのはまさにそれなのだ。共産主義だったはずの自国が、ある日、反ユダヤ主義をかかげる国に併合されている。かと思えばソ連がまたナチを追い返してしまう。そのたびにウクライナの人々はその占領軍を歓迎し、花を手渡し、彼らのボスのポートレイトを掲げる。ともすれば世間のこうした掌返しともとれる現象は、たとえば映画化もされたイェジー・コシンスキの『ペインティッド・バード』でも描かれる。『ペインティッド・バード』のラストではソ連兵がまるで連合軍の「解放軍」のように描写されているが、『バビ・ヤール』でもナチスの戦争犯罪者をソ連が人民裁判にかけるシーンが登場する。しかしロシアもまた、ポグロムを行ってきたという事実を踏まえれば、その光景はかなりグロテスクである。ロシアは自らの行いに対し総括をしてきただろうか?

【映画レビュー】異端の鳥 評価:◎|佐藤厚志|note

ペインティッド・バード (東欧の想像力): イェジー コシンスキ, Kosinski,Jerzy, 成彦, 西 + 配送料無料 (amazon.co.jp)

私もつい最近知ったのだが、『バビ・ヤール』はどうもウクライナ本国では受けが良くないらしい。詳細は下記記事を参照願いたいが、理由は本作を見た人あるいはここまで拙文を読んだ人ならさもありなん、という感じだろう。ロズニツァの言っていることが正しいか間違っているかは別として、頭ごなしに「ウクライナ人はみんな酷かった」と言われたら、まぁ大抵の人は怒るだろう。我が国でも太平洋戦争での諸外国での振る舞いを指摘して、「昔の日本は酷かった」というだけで烈火のごとく吹き上がって人たちがいるくらいだから、まぁ別に驚くことではない。ちなみにロズニツァその人の不遇はとどまらず、ウクライナ映画アカデミーを除名処分されている。その経緯についても、下記で詳しくまとめられている。

とにもかくにも、ロズニツァはそうした先祖のふるまいに業を煮やしている。それはインタビューなどでも仄めかされている。目の前で容易く実行されているユダヤ人の虐殺に、ウクライナ人は誰も異議を唱えなかったと、彼は主張しているのだ。そうした彼の主張を踏まえたうえで『バビ・ヤール』を見て、一つ気が付いたことがある。それは、ロズニツァの歴史観についてだ。たとえば本作において、恰もウクライナ全体が反ユダヤ主義、全員が虐殺に加担し、賛同ないしは追従していた、かのように彼は描写する。それは当時のウクライナ人全員が罪を犯し、罰を背負うべき存在であるかのように、である。この虐殺に関するロズニツァの怒りの矛先は、ナチというより傍観者としてのウクライナ人に向けられている。映画の尺度やロズニツァが選択したカットが、それを証明している。勿論、この場合は被害にあったユダヤ人は除く。

確かに殆どの人間がそうした支配者の言いなりになり、阿諛追従していたのだろう。それは私も同感だし、何よりも歴史が証明している。そういう意味においては、ロズニツァはウクライナの触られたくない部分を、容赦なく映画として描き出すことに成功している訳だ。まして現在戦時中の国の黒歴史なのだ。反ウクライナのプロパガンダと見られても無理からぬことかもしれない。しかも公開されたのは2021年。この絶妙なタイミングで、彼は敢えて公表に踏み切った。何故だろうか。以下は配給されたサニーフィルムより発行されたパンフレットより、ロズニツァ本人の言葉を引用する。このパンフレットには毎回豪華な執筆陣(大学のせんせ、文化人)が軒を連ね、あーだこーだと論じているが、本作に限ってはロズニツァその人のこの証言が最も興味深く、またひどく謎めいている。

私たちは真実について学ぶ必要があります。歴史を認識することこそ、歴史の抹殺に対する最大の防御であります。旧ソ連の後継者ともいえる国々が、現在おかれているソビエト/ポストソビエトの沼地から抜け出す唯一の方法でもあります。

BABYYAR.CONTEXT パンフレット ディレクターズノートより

また、『バビ・ヤール』の公開は自国の「反ウクライナ的言論への封殺」に対する、ロズニツァの挑戦だったのではないか、とも私にはとれるのである。これは先に挙げたUFAのロズニツァ追放騒動にも因んでいるのだが、戦時中の国家では国家高揚のプロパガンダが歓迎される反面、自国を貶めるような黒歴史は徹底的に排除される傾向がある。これは政治的な圧力もそうだし、マスメディアや、民衆の側にも拒否反応が見られる。そうした動きは、まさに本作のテーマでもある「歴史を抹殺し、忘れ去る」そのものではないだろうか。これは、ナチやソ連を無条件で迎合し、戦争犯罪に加担し、バビ・ヤール渓谷を埋め立て、まるで無かったことにしたウクライナの人々。この映画は過去と現在、両方のウクライナに対する告発としての映画なのではないか。

して、ロズニツァは、かなり純粋で正直な人物なのだろう、と私はなんとなくプロファイリングしてしまう。だからこそ、この時期に、空気も読まず、こうした生まれ故郷の暗部を抉りだしたとか言いようのない映画を作り出し、改めて世間へ問題提起したのだ。ロズニツァは自らの故郷に問うているのだ。「あなたたちは、またナチやソ連みたいな宗主国が現れたらその言いなりになって虐殺や戦争犯罪に加担するのですか?」、と。

しかしその一方で私はこうも思う。例外の存在はなかったのか、と。そう考えると、上記のロズニツァの史観は随分極端なものののように、私は思えるのだ。ロズニツァは自身の主張を強調するために敢えて、そうした例外に目を背けているのではないか、という懸念を私は持っている。当時、困っている人たちに、ひそかに手を差し伸べた人だっていたのではないだろうか。この記事を書くにあたり、色々私も手の届く範囲で調べている。今のところ成果はないが、もし見つかったら追記という形で報告したい……。右に倣えで、全員が支配層の方針に従うなんて逆に不自然だし。

さて、ここからは苦言を呈することになる。というのも、ロズニツァが本作を作るために各所から収集したアーカイヴには、戦禍がもたらすおぞましい惨状が随所に記録されている。それ自体は、映画の作り手にあれこれと物申すつもりはないし、作品の貴賤に全く関わらない。寧ろ、フィルムの復元に労力を費やしたスタッフには賞賛の言葉を送りたいほどだ。私が文句を言いたいのは、それとは別の次元である。というのも、本作のレーティングはGらしいのだが、映倫職員はそろいもそろって怠け者なのだろうか。私の感覚でいえば、少なくとも本作にでてくる映像は、絶対に子供には見せたくない、そう感じるものばかりだった。まだ判断力の無い未成年に見せれば絶対に悪影響を及ぼすほどの、そんな光景が広がっている。甘く見積もってもPG12、私個人としてはR18でもおかしくない。特にクライマックスにおける処刑シーンは、大のおとなの私ですら身を竦め、トラウマになりかねないほどの、本当の恐怖と残酷が待ち受けている。それは作り物でもなく、本当に目の前で人がじわじわと殺されていく。多分『バビ・ヤール』を進んで見に行こうというキッズの世代はそうそういないだろうけれども(実際、今日私が見た時間帯の客層は30~50代くらいだったけれども)……しかし、そのあたりの配慮が、ポンコツ映倫から配給会社、劇場サイドにいたるまで全くされていないのが、妙に違和感を覚えてしまった。自分たちが何を世間に公開しているのか、関係者はこの映画を改めて見返して自問すべきである。もしかしたら私が過保護で優しすぎるのかもしれないが、それでも今日目にしたあの光景はそれほどまでに尋常ではないのだから。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?