意のままに操られ、人生を牛耳られる《群衆》にならぬために。セルゲイ・ロズニツァ《群衆》ドキュメンタリー三選を見て

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■イメフォへいこう

目下新型コロナウイルスが猛威を振るう我が国にて、最後の希望のともしびをかかげるかのように、ロシアの映画作家セルゲイ・ロズニツァ監督の企画《群衆》が組まれている。陽性患者が増える一方で、すでに多数の重傷者と死者も出ている。行政はこのことに関して何かしらの声明を発表したはいいものの、その他は拱手傍観を決め込んだかのような態度をとった。GOTOキャンペーンの撤回、そればかしかまっさきに優先すべきPCR検査も、これ以上の感染を食い止めるためのロックダウンも、その損失を補うべく敷かれる保障制度もなしだ。私たちはもう充分仕事をしたから、あとはお前達国民でなんとかしろ、というわけだ。大した為政者ぶりではないか。一切の決断を放棄した上、日々数百人規模の感染者が出ても心は傷まぬらしい。

危機的状況の中、こういった映画を見に行くのは大変な意義がある。現在は東京都渋谷区のイメージフォーラムと京都の京都シネマの2拠点で公開されている。各県でも順次公開される模様だ。

これは今年公開される映画の中で、特に待ちわびていた企画のひとつだ。早速イメージフォーラムのほうにお邪魔してみた。皆さんにも観て頂きたい作品なのだが、ここでひとつ気をつけなければならない。それはイメージフォーラムへのアクセスだ。通常イメフォに行くとなれば渋谷駅を降りて、宮益坂のゆるやかながらも長い勾配を登攀し、そのまま青山通りを進むルートが一般的だ。イメフォのホムペにもそう書いてある。が、現状渋谷駅前は相当な危険を有しているためこれは推奨できない。何故か。クラスターデモと称してマスクをもつけずに騒ぎ立てる集団あり、注目を集めたいためにカメラを回す動画配信者あり、それに付きまとうファンあり、またそれ以外の有象無象が乱れた日本有数の危険エリアだからだ。今は間違ってもJRを降りてから渋谷駅は利用するべきでない。よほどの用事がない限り。

なので私としては、表参道駅からアプローチすることをおすすめする。とにかく、まずは跋扈する魑魅魍魎から徹底的に距離を置くべきである。表参道駅は銀座線、半蔵門線、千代田線と乗り入れ路線も多く、アクセスしやすい。距離としては少し遠くなるのは否めぬのだが、まぁ散歩する気分でのんびり向かえば良い。道の途中にはハイブラの直営店もあり、個人経営ののんびりしたダイナーやカフェもある。探せば雑貨屋などもある。人通りも大きな駅などに比べたら比較的少なく、人々も節度を保ち、隣の駅の馬鹿騒ぎと比べたら月とスッポンで平和なものだ。もう一度念押しで言いますよ、渋谷駅には基本近づかない方がいい。馬鹿者どもからは距離を置くべしである。

■観光地に訪う人々の空虚を映し出す『アウステルリッツ』

映画『アウステルリッツ』はダークツーリズム(余談だが、私はあまりこの言葉が好きでない。その歴史に関わった人たちに対して、どこか配慮を欠いているように思えるからだ)に訪った人々の姿をこれでもかとばかり詳らかに映し出したドキュメントだ。悪名高き「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」のレリーフが掲げられたゲートにはじまり、収容所の中をめぐる観光客たちの映像が続き、ラストもそのゲートで終わる。ものすごいクライマックスや見る者の感情を破壊するようなシーンは用意されていない。きわめて記録映画らしい記録映画、大人しい知的な作品だが、ある種のリテラシーを持つ鑑賞者には響く作品である。

で、この『アウステルリッツ』なのだが、主役ともいえる観光客たちに対して相当で辛辣でお怒りの様子である。作品が鑑賞者に投げかける「質感」ではっきり判るし、何よりセルゲイ・ロズニツァ監督のインタビューを読めば瞭然である。

『アウステルリッツ』の舞台となる収容所跡は、なんと観光地として大賑わいをみせている。そこに訪う人々は家族連れだったり、楽しげにいちゃつくカップル、あるいはツアー客だったりする。しかもカットソーに半パンといった思い思いの姿だ。まるでどこぞのテーマパークと見違えるほどののどかさに驚きを感じる。処刑台の前で見ている者をぞっとさせるようなポーズをとりながら、シャッターが切られるのを笑顔で待つ人々。収容者たちのための寝床の前で一瞬凍りついた表情を浮かべるが、すぐに立ち去っていく人々。サンドウィッチを齧りながら、ガイドの説明を聞く人々。順路に従って黙々と移動する人々。跡地に設けられたキャプションに目を止めては、何か神妙な表情を浮かべる人々。収容所はあまりに広く、その隅々を歩き回った疲れ果てたのか、へとへとでうんざりした様子の人々。しかし最後はスキップを踏むかのような軽やかな足取りで門を後にする人々。

ここで過去に何があったかくらい知っていれば、そんな無邪気にTシャツ姿で、スマホでパシャパシャやってる場合じゃねぇだろ、というロズニツァの憤りが伝わってくるようだ。映画の解釈をするにあたり妥当な落とし所は、まぁこんなところか。

(私個人としては、その怒りはごもっともと感じる一方、些か見当違いではないかと思わなくもない。来るだけそれはそれは偉いじゃん、ということだ。何しろ世の中にはあの虐殺がなかったなどと嘯く輩もいるくらいだから)

それから一歩先に進むとしたら、ダークツーリズムに限らず、観光という行為に潜む空虚を暴き出したドキュメントなのではないか、ともとれる。彼らは何かに取り憑かれたかのように、広大な敷地をへとへとになりながらあるき回り、収容所の内部を写真に納めていく。その姿は版を押したように似通っていて、一層空虚たらしめている。重要な歴史スポットにきたのはいいが、いざその地に降り立った瞬間手持ち無沙汰となる人間はどこにでもいるものである。たとえば、展覧会にきたはいいが、肝心の絵画より傍らに掲げられたキャプションに目を奪われてしまう人が。旅行先でのんびり楽しむ暇もなくやたら土産物を買い漁っていく人を、あなたは見たことはないだろうか。

敷地の中で、笑顔を浮かべぎこちなくポーズを決めて撮影に勤しむ人間たちは、どう考えても何かを持て余している。わざわざ予算を出してツアーを組んで来てはいいものの、彼らは何をしていいのかわからないのではないか。そこで本当すべきことが、彼らには判らないのだ。判らないが、周りがそうしているのでまるで連鎖反応のように真似をするかたちで、観光客のしぐさに身を委ねるのである。

ロズニツァのカメラは、定点位置からこのやや軽薄ながらも愛おしい人々を、ただ映し出す。時折意味ありげに彼らの顔がバストアップで映し出されたり、意図的にピントが外されたりするものの、それ以外特段変わったところはない。素材の味はそのままにへいお待ち、と料理屋に入ったらなんの味付けもなくそのまま魚や鶏がテーブルにドンと出てきたような、そういった味わいがある(以降、「テーブルドンスタイル」と呼ばせて頂く)。

そうした定点映像が5分おきくらいに切り替わる、そういう映画だと思って頂ければ良い。で、おそらくだがリテラシーもなく暇つぶしに何気なくイメフォに入った鑑賞者は気持ちよく寝てしまうだろう(告白すると私もちょっと寝かけた)。彼はタルコフスキーやアンドレイ・ルブリョフといった同国の古典として扱われる映画作家らにロズニツァは擬えられ評されるが、つまりこの作家の映画の鑑賞にはそれなりの忍耐を要する訳である。

しかしながら、である。手をほとんど加えず、そのまま映し出すという行為がこれほど残酷なこととは思わなかった。もしこの作品に余計なモノローグがあったとしたら、ロズニツァ監督の意図を私は汲み取れなかったかもしれない。最小限度の演出と引き算の手法で作られた非常に繊細な映画といえる。

観光客は、門を通り、ガイドの指示と順路に従って構内を力なく歩き回る。時折ふっとよぎる陰鬱な表情は、死者を偲んでいると思われる反面、恰もその境遇を自身の身に重ね合わせて慄然としているようにも見えるのだ。その様子たるや、まるで収容所で入れられた人々そのものである。

また、彼らは並行して加害者としての役割も演じているのである。映像のあちらこちらに散見される、我々をぞっとさせるような行動をとる。そうした死者を冒涜する行動をとる人々、時代を遡り収容者を虐待し、餓えさせ、精神を狂わせ、やがて死に追いやった加害者の姿を想起させないだろうか。

彼らは空虚を抱えつつ、自身そうと気が付かずに、かつてそこにいたであろう無実の収容者と化し、また迫害者の醜悪なパロディーを演じているのだ。ロズニツァが向ける視線の鋭さによってえぐり出される、《群衆》なるものの本質。それは後続する『国葬』『粛清裁判』にも受け継がれる。

■独裁国家の群衆たちが主役『国葬』、『粛清裁判』

『アウステルリッツ』鑑賞後しばらく日をおき、私は『国葬』と『粛清裁判』を見に行った。私はスケジュールの都合で日を分けたが、重厚なロズニツァ作品を3連チャンで鑑賞するのはかなりしんどかろうと思う。

で、『粛清裁判』その名のとおり、起訴された政治犯たちに問答無用で実刑判決を下し、牢獄送りか銃殺に処す、そのインチキ裁判の様子を当時の映像から再構築したものだ。所謂アーカイヴァル映画と言われる。被告らは1930年ソ連で暗躍していたらしい「産業党」なる反政府組織の首謀者たちとされている。彼らは「産業党」がどのように結成され、諸外国の反共勢力がそれに接触し、その組織が巨大化していくのかを滔々と自白していく。当然そこに彼らの自己批判と反省の念を交えるのも忘れない。時折弁の立つ検察官がダンガンロンパばりの勢いで被告達の国家への罪を断罪し、ある意味このアーカイヴァルの主役である傍聴席に陣取る群衆から拍手喝采をあびる。

と書けばふつーの裁判じゃんと思うかもしれぬが、これが間違い。「産業党」なる組織は存在せず、連れてこられた被告達も9割9部無罪に違いない。被告たちの論述は時に具体性に欠いており、聞いていてこれは犯罪なの?と思われること間違いなしである。彼ら自身の供述によれば「生産性の低下」を促した政治犯らしい。いや、どこが犯罪だよ!というツッコミは入れておきたいところだろう。いちおう、課題や汚点は多かれど治法国家に生きる人間として。

『イワンデニーソヴィチの1日』や『収容所群島』で知られるかの国の文豪ソルジェニーツィンはこうしたインチキ裁判に関し興味深い考察を残している。彼の代表作『収容所群島』の一項目には驚くなかれ、この産業党事件が割り当てられているのだ。映画の主要な登場人物の一人にして、産業党の主要メンバーとされたラムジンについて、ソルジェニーツィンはこのように記す。

そこへ突然ラムジンという拾い物があらわれたのである! そのエネルギーといいい、洞察力といい、申し分ない! しかも生きるためには、なんでもやる用意がある! そしてなんという才能の持ち主! 夏の終りに彼は逮捕された。まさに裁判の直前である。そして彼は自分の役割をすっかりこなしたばかりではなく、彼だとはわからぬように全部の戯曲を書き上げ、関連する資料の山ををわがものにして、どんな名前だろうが、どんな事実だろうが、たちどころにきっと提供することができた。

ロシア文豪らしい婉曲した表現だ。つまるところ、ソ連の当局はでっち上げの自白の内容を、あろうことかその容疑者に考えさせていたのである。ソルジェニーツィン自身、過酷かつ陰険な取り調べを経験し、収容所にぶちこまれた過去を持つ人間であるから散々見てきたのだろう。生きるか死ぬかの選択を当局から突きつけられた時、ありもしない罪を捏造していまう人間たちを。加害者たちは自分の手を汚さずとも勝手に歌ってくれるため、あとは約束を反故にしておしまいである。

既に数多の歴史書によって暴かれているが、ヨシフ・スターリンは自分にとって都合の悪いことをすべて「国家の敵」になすりつけてきた。反共の海外勢力だの、国内の反政府組織だの、その他自分に歯向かいそうなインテリのせいにしてきた。しかもそれらは全てでっちあげなのだ。『粛清裁判』は、そうしたスターリンの国家規模のインチキと、それに唯々諾々と従う人々の姿を垣間見ることができる、貴重な映像資料でもある訳だ。

貴重な資料という意味では『国葬』も負けてはいない。まず映画は国父スターリンの遺体が映し出される。国中が彼の偉業を讃える声で響き渡り、《群衆達》は涙を浮かべ鼻を垂らしながらマロース(酷寒)の中、喪に服したようすで、国父の遺影をかかげ、葬列を組んで死者を悼むのだった。また葬儀場となったクレムリンの「柱の間」と呼ばれるスペースには、参列者が押し寄せ後をたたない。そしてチーフで目元を抑え、夜中であろうとも花を手向けていくのだった。ここまでくると、もはや何かの国をあげての奇祭としか思えない。

この2作でもロズニツァの鋭さ、そして演出は最低限で素材の味を生かす「テーブルドン」スタイルが光る。音声の使い方も同時代のアーカイブから引っ張ってきたりして、これまたかなり的を得た演出だ。なによりわたしが驚いたのは、当時のソ連の広報部あたりが手掛けたとしても、だいたいこういう映画になったのではないか、という点である。一歩間違えばプロパガンダ映画だが、ギリギリのところでそう思わせないのが大したもの。多分誰も指摘していないが、ロズニツァはサンプリングとリミックスの天才なのである。余談だが彼はDJとしても成功を収めれるのではないか。

総評に移りたいと思う。この選ばれたドキュメンタリーの中で蠢く《群衆》たちの姿から、わたしたちは学ぶべき部分がある。わたしたちは、大量殺人者を神のように讃え、涙を流して喪に服すべきなのか。それとも明らかなでっち上げにも関わらず、国家主導のインチキ裁判の結果を疑うことなく受け入れ、剰え無実の被告を「街頭に吊るせ」などと徒党を組んでデモ行進するのか。いや、我々はもうロズニツァが言うところの《群衆》なのかもしれない。これまで多くの歴史を学ぶ機会を与えられてきたにも関わらず、いざその震源地では案山子のように突っ立ったまま、ただただ何もせずにいる《群衆》ではないのか。この三作は、いわば鏡だ。彼の手掛ける映像はまるで鏡像のようで、わたしたちはただただ《群衆》たる己の姿を突きつけられるのみである。

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