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映画『ザリガニの鳴くところ』ねたばれ解説

原作がどういう風に表現しているのかまだ読んでないのでわからないんですが、映画では「カイア=イノセントな善人」という印象を持たせるような演出がむちゃくちゃ多くて、これが終盤の伏線になっているんですよねー。こんな人がまさか殺人を犯さないだろうという確信をこちらがもってしまうほどに。幼少時から現在にかけて彼女の人生を振り返るような語りなんですが、これも何故こういう構造を有しているかといえば、「差別され村八分されてきたけど、それでも一生懸命生きてきた。何一つ悪いことはしてこなかった、無罪の女性なんだ」という情報を傾聴する人々に強調し、彼女に過度に同情させるための、映画ならではの心理的なトリックなんです。それは彼女を担当する弁護士に語るという体裁で語られるんですが、弁護士はそれを信じます。で、陪審員たちに「偏見なき目で、彼女を見て判断して欲しい」と人情で訴え、最終的には無罪を勝ち取ります。

しかし……果たしてそこに偏見が一切無かったと言えるでしょうか? フラットな目線で接していたでしょうか。たとえば、この映画では犯行時間にカイアが何をしていたか、敢えて避けられて描かれません。つまり、カイアにとって都合のいい情報しか提示されていない訳です。カイアの人間性は疑うべくもないのですが、だからと言って、殺人を犯さないという理由にはならないし。検察が提出する状況証拠だけでは彼女の犯罪は立証できないが、彼女の無罪を証明する確実な証拠もまたありません。

逆に街の人々は醜悪で、俗物っぽく描かれてます。差別を行う側を、ある意味テンプレっぽい、古い価値観で凝り固まった人を配置することにも意味があると思っています。これも観客へある種の偏見を植え付けるための仕掛けなんですよね。不自然っちゃ不自然なんですよ。テイトや、あの商店の夫婦以外にもカイアを助けてくれた人はいたかもしれないし。まぁ大半はひどい連中なんでしょうけれどもw それもノースカロライナという保守的な土地を舞台にしているからその不自然さが緩和されていて(これもある意味ひどい偏見ですが…)、よく計算されてるなと思いました。人間って不思議なもので、そういうわかりやすいバカを見てるとつい「俺は断じてこういうバカじゃない、一緒にすんな、おれは公平だ」と無意識のうちに反駁する作用が働くものだと思っているんですが、それも結構おちいりがちな、危険な陥穽だと思ってます。

それこそ、私が上の記事の中ですが、訂正した箇所で書いたようにカイア役にはすごく美しい人を起用しているんです。これもある種のミスリードじゃないかと思ってます。マンスプレイニングに関する議論でよく指摘される、しかも派手すぎない、いかにも世間知らずといった美人です。スケベなおっさんがいかにも好きそうな、「おれが導いてやらないとな」と鼻息を荒くするような、です。実際のところカイアは知性も才能もある、自分の意見をもった自立した大人ですけどね。話がちょっとズレましたが、要は映画で典型的な、好感を持たれやすいキャラクター造形なのです。しかしどんなに気を付けていても、私達はつい外見でついその人の人間性を判断しがちですし。そういう思い込みや、ある種の偏見を利用している仕掛けじゃないかと考えます。つまりすべては、観客を「カイアの良き理解者」に仕立てるための、作り手が仕掛けた罠なのです。

で、最後に、所在が不明になっていたキーアイテムのペンダントを出すことで、それがひっくり返る訳です。ちなみに映画を見た人はわかると思いますが、そのタイミングはめちゃ憎たらしいまでにエグいんですよねw そもそもカイアがそれを所持しているのが変です。だって所持しているだけで不利なのに、合理的に考えるならとっくの昔に処分してるはずです。それはいちおう隠してはいるのですが、「いつか見つかること」を前提としている気がしませんか。ここ、色々解釈は可能だと思いますが、とりあえず作り手の意趣返しのためのわかりやすい小道具とみていいと思います。

『ザリガニの鳴くところ』は、端的にいえば女性差別を扱った映画です。構造的に弱い地位に押しとどめられ、世界の目の届かないところで暴力やレイプの被害に合うのは、たいていが女性です。物語の舞台になったのは60年代ですが、現代では解消されたでしょうか。違いますよね? 多少ましになったていどで、そうした被害に常に怯えなければならない現実があると思います。ある評者が『ザリガニの鳴くところ』に関する文章の中で、「カイアの選択に納得できない人は、きっと差別や被害にあったことのない幸せな人なんだろう」と書かれていました。かなり重要な指摘だと私は思います。構造の中では、性犯罪やいじめなど、卑劣な罪は希釈され、時に抹消されることもあります。完全犯罪として成し遂げられたカイアの行為は、やむを得ない自己防衛であったと同時に、そういう既得権益の構造の陰であざ笑っている人間に自分たちの境遇を味合わせる為の復讐だった、のかもしれません。

カイアの愛した湿地には、そうしたくだらねぇ差別構造や偏見が存在しない。そういう意味では究極の自由、フラットな世界と彼女は認識していたのではないでしょうか。上記のように、ラストはカイアの手によって私達に内在する偏見に自ら疑問を抱かせることで、彼女が愛した湿地の価値観を少しだけ追体験させる役割を担っていたのかも、と私は考えます。

原作小説では叙述トリックが使われているということなので、もしかしてクリスティの『アクロイド殺人事件』みたいな「語り手にとって都合のいい情報だけで構成された小説」なのかなー、と想像します(間違ってたらすいません)。一方この映画が凄いのは、映像表現を用いて創出される偏見がいかに浸透しやすいか、という事だと思います。何かの映画評でもちょろっと書いた気がするのですが、映画というのはどんなものでもプロパガンダ的な側面があります。ハリウッド映画業界はアメリカ第4の軍隊と呼ぶ人もいるくらいで、物語を通した価値の輸出にいとまがありません。アフガン紛争やイラク戦争の時などかなり露骨なプロパガンダ映画も作られてます。いかにも悪のような安いレッテルは、魔力のように強力で、大国の都合の良いイメージの流布につながってきました。そろそろまとめましょう。『ザリガニの鳴くところ』は、そうした情報を鵜呑みにしてしまうことの危険を描いた、「映画がもつ魔力について、自省した映画」のようにも感じられるのです。以上おしまい。

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