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哲学の向かう先〜天か地か〜

哲学の先駆者といえば
古代ギリシアのソクラテス、プラトン、アリストテレスが代表的ですが、プラトン、アリストテレスの思想は対極的にあることは有名です。

アテナイの学堂という有名な絵画では
プラトンが天を指差し、アリストテレスが地を指し示すというのがありますね。

アテナイの学堂[ラファエロ、1509-1510頃](パブリック・ドメイン)

二人の思想の対比について
カッシーラー『象徴・神話・文化』の中では、
ゲーテに下記のように語らせている。

 みまかり浄められた魂がしばし此の世に留まりたいとの思いにかられている、といった趣きでプラトンは世界を相手にする。この魂にすれば世界はすでに自明のものゆえ、あらためて識るには及ばない。むしろ己がたずさえ、世界がかくも乞い求めているものを親しく分かちあうことこそ願わしい。深きに徹するのは、窮め尽くすためよりはむしろ己の存在で満たすためであり、高きを指して昇るのは、己の由り来れる源に再び帰一することに憧れるためである。……これとは逆にアリストテレスはひとりの人間、ひとりの建築家として世界に向かって立つ。何といっても彼はこの世界に在るのであり、ここで活動し製作すべきなのだ。彼は大地を調査してゆく。しかしそれも建築用地を見つけるまでのことだ。……彼は己の建物のために途方もない境界線を引き、ありとあらゆる方面から材料を調達し、それらを組み立て、一層また一層と積み上げて、規則正しい形をとりつつピラミッドのように高く登ってゆく。しかるにプラトンはあたかもオベリスクのように、鋭い火焔のように天空を目指す。このように、美事なものではあるが容易に両立しがたい特性をそれぞれに代表する者として、いわば人間性を二分する二人の人物が現れたとなれば、……いきおい世界は……一方か他方かのいずれかに身を委ね、そのいずれかを師匠として、教師として、指導者として承認することを強いられるのである。(ゲーテ『色彩論史資料』、カッシーラー『象徴・神話・文化』神野ほか訳61頁より)

プラトンとアリストテレスのこのような対立が
合理論と経験論、観念論と実在論などの対立の軸となっているという。

哲学をやるということはこの二分法からは免れないのではないかと常々思いながらやってきたところはある。まだ答えは出ていない。

ところで、観念論と実在論といえば、
知人が哲学イベントカレンダーというサイトをやってまして、
明日はなんと大学院時代の友人、内坂翼さんがロックの話をしてくださるようです。


これは楽しみですね〜。
今回紹介した、プラトンとアリストテレスの対立の一片でも掴めたらと思いますねえ。

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