
無名から中南米でプレーするまで
みなさん はじめまして!!
アツシです
今回は僕のような無名の日本人選手が中南米のプロサッカーリーグでプレーするまでの道のりを書いてみました。
このnoteは
・ヨーロッパより中南米の
サッカー情報が知りたい!!
・中南米サッカーに挑戦したいけど、
どうしたらいいのかわからない....
などの方にオススメのnoteです
このような感じの内容になります。
僕はガンバ大阪門真ジュニアでサッカーを始めて、そのままジュニアユースに上がりプレーしていましたがユースには上がれず、その後高校サッカー部には入らず、大阪府枚方市の枚方フジタSCで高校3年間を過ごしました。全国大会とかにも出たこともない無名な存在でした。そんな僕がどのようにして中南米でプロサッカー選手になることが出来たのか、裏話も含めて全てをnoteに書いたので是非読んでみてください。
✅転機が訪れる南米サッカーとの出会い
高校卒業後は普通に大学に進学して、その年には南米でコパアメリカ2011が開催されていて、テレビで見る個人技のレベルが高い南米サッカーの虜になりました。
その時のパラグアイ代表の戦い方が粘り強く勝つサッカーをやっていました。
僕は決して個人技はテクニックだけではなくパラグアイのサッカーのような球際の強い部分や肉弾戦もある意味で個人技だと思いました。
そして19歳で南米に行くのと、大学を卒業してから22歳で南米に挑戦するのと、どちらが良いか考えたとき出来るだけ早い方が良いと判断して、思い切って大学を辞めました。それまでの自分は友達や周りに合わせていたのもあったので、そんな自分を変えたいという思いもありました。
そしてアルバイトをしてお金を貯めて、サッカー留学機関を通じて、パラグアイに行きました。
パラグアイ編
✅1ー1.人生初の異国の地でサッカー挑戦
パラグアイに着くと人生で初めて見る異国の地は日本とは異なる景色がそこにはありました。
僕がパラグアイで最初にプレーすることになったクラブはアトレティコ フベントゥという
4部リーグのクラブでした。
パラグアイは1部〜4部まであり、1部がプロで2部はセミプロ、3部、4部はアマチュアです。
練習着などは支給されますが契約金はなく
僅かな勝利給と“チパ”というパラグアイのパンが与えられる感じでした。
フベントゥでは開幕戦から左サイドバックの
レギュラーを確保してプレーすることが出来ましたが、実際に異国の地でプレーしてみると言葉の面で苦労する部分もありました。
最初は辞書を持ちながら練習に行っていましたが
1か月ちょっとしたら辞書を持っていかなくても日常生活に支障がないくらいは話せるようになりました。
パラグアイに行く前にテキストや教材などを買ってスペイン語の勉強をしていましたが、あまり勉強したことが活かされてないなと思いました。
なぜならテキストや教材に載っているのはスペインのスペイン語だからです。
スペイン語と言ってもスペインのスペイン語と南米のスペイン語はスペイン語という部分では共通していますが単語や動詞の意味が多少違ったり、話し方も違うので時々通じないことがあったりしました。
パラグアイ人はスペイン語の他に原住民族の
グラアニー族が使っているグアラニー語を混ぜて話すのでとても苦労しました。
リーグ戦ではパラグアイの首都アスンシオンの“チャカリータ”というスラム街にあるレシステンシアというクラブとの試合で僕はサッカー人生で初めてレッドカードになりました。
なぜレッドカードになったかというと相手の挑発に乗ってしまいアフター気味のスライディングと肘打ちです。今思うとまだ未熟でした。
注意
パラグアイの”チャカリータ“というスラム街はマジで危ないので行かないようにしましょう!!
シーズン通して退場で出場停止になった試合を除く全ての試合にフル出場しました。
そして2シーズン目は代理人に上のカテゴリーでやってみたいという気持ちを伝えました。
✅1ー2.手応えを掴んでステップアップ
そして2部リーグの
ヘネラル カバジェロ ZCに移籍しました。
ステップアップした感じで嬉しかったです。
ですが4部から2部となると選手達も明らかにレベルも違います。
首都アスンシオンの郊外にあるクラブで1部リーグてプレーしていた選手や、メキシコのクラブ アメリカで得点王だった元パラグアイ代表10番カバーニャスなどが在籍していました。
日本はウォーミングアップ、ボール回し、シュート練習を経て紅白戦になるのですが、パラグアイではシュート練習などはあまりなく、アップしたらすぐに紅白戦をやる感じで実践的なメニューが多かったです。
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