研究をしたい理由(2020年版)

去年も年始の初めに研究したい理由を書いていたので、去年と比べながら今年も書いてみようとおもう。

去年の三分の二は二年生で、三分の一は三年生だった。実験は思っているよりも進みが遅く(データ収集はアシスタントのおかげ全く困ってないのだが、そもそも実験するまでのプログラムを書くのが遅い、実験が終わってからは分析のプログラムを書くのが遅い)、それにあいまってモチベーションがどん底に落ちていたので頑張ろうとすら思えずただただ辛い一年であった。

正直何個も実験をして全てヌル(統計的に有意な結果が得られない)の人々と比べると、私なんかは実験の性質上すぐデータも集まるし、実験あたりの従属変数が多いので何かしら結果も出やすいし、もっとやればいいのにとにかくモチベーションが低いので、慣れないプログラミングのことを想像するだけで吐き気がするので、なかなか研究を進めることができなかった。なんとかプログラムを書き上げてもどこかで間違えてるんではないかと思って、それはまるでドアの鍵を閉めたかどうか確認するかのように、強迫的に何回も自分の書いたスクリプトをチェックしてひたすら同じところで止まっている状態である。

また文献も全然読んでないので、知識が深まったとも思えない。まさに最低という感じである。根本的に知的好奇心が足りない気がする。そりゃそうだ、別に研究したいという動機でここにいるわけではないのだから(後述)。とはいえ、このままではまずいというか自分で納得できない状態である。

プー太郎(プー花子?)と言われてもしょうがないような状態だが、まだ大学院を追い出されていなくて、一応オフィスに机はある。今年も研究したい理由を作って一応自分のやっていることを正当化しておこうとおもう。

(続)内容より方法に興味がある

私の分野は認知科学だが、認知科学といっても広い。その中でも私がやってるのは認知心理学で、ずっとこれをやり続けて学部の時の専攻から何一つ変わっていないのである。なのでどの分野の人?と聞かれたら心理学と答えるのが妥当だと思う。

学部の時からのキャリアを考えると、心理学をやって大体八年目というところだろうか。学部の始めの方は専門科目がなかったので一般教養程度の知識しかなかったが、それでも神経科学とか心理学周りの授業は取っていた。

こんだけ長くやってて変だが心理学の研究内容というよりは、方法論に興味がある。詳しい動機は前年度のブログに書いた通りであるが、もう少し拡大して心理学者の社会的な枠組みの中での行動にも興味が出てきた(例えば学会とかミーティングでどういう交流をしているのかとか)。公式な集まり以外に、講演会後のディナーとか(同僚同士だと)休日の集まりなどに少しずつ顔を出すようになったとは思う。

興味の幅が広がったのはやっぱり学部の哲学(中でも科学哲学とか文化研究)の人々と交流すると、単純に方法論だけではなくてコミュニティに属することにも科学の意味があるようで、そういう部分にも目が向くようになってきたのだと思う。そう考えると独立研究者というのは理論上可能であっても、現代の研究者(特に科学分野)の像とは合致しづらいと思った。

しかしながら自分の研究が進んでいないのでこれといって科学哲学の文献を読むこともなく、ただだらだらして特に昨年と知識レベルでは何も変わっていない。このモチベーションすら下がっている。

ただただ人生に向き合う訓練

一応自分の意志で選んで博士課程のプログラムに出願し、合格してここにいるわけだが、もはやこれは人生の試練なんだと思うようになってきた。全く私に向いてもないし、私自身学問に強烈な興味があるわけでもないが、ここが私の当面の居場所なんだと思う。今までこれと言って何か真剣に物事に取り組んできたことがなかった私の人生の課題なんだろうなと考えるようになった。

別に全ての人間が何かに向き合う必要もないが、私は人間関係に興味もないので生物的な人間としての役割(子孫を残す)も果たすことができないし、神様が私が退屈しないように課題を与えてくれたんだろうなと思う。ちなみに私はアグノスティック(神様がいるかどうか知らない立場)なので、本気で神様がいると思っていないが、いてもおかしくないとも思う。

なんだか辛そうなことを書いているが、理不尽な意味で辛いことは全くない。というか生活という意味では、なかなか充実している気もする。先生に怒られることもなければ、自分のスケジュールも自由に管理できる。一応死なない程度のお金をもらって、旅行に行ったりピアノをしたりヨガしたり、ヨーロッパ生活を満喫できる。学部の人ばかりだが友達もいるし、それだけ考えたら何が不満なのかわからないが、博士学生という立場上研究がうまくいってないと人生がうまくいっていないと感じるだけである。

動機とかどうでもいい

日々の研究のクオリティを上げるためにも、あるいは職に応募するときにも、なぜ自分がこの研究をしたいのかと言うことを意識しておくことは有益であり時に必要であろうが、別に本当のところの動機はどうでもいい気がしてきた。

近い先輩が研究者になるべくして生まれてきた人で、自分が研究することに対する疑いもなく、本当に心の底から学問を愛しているが、その気持ちだけで別に研究ができるわけでもないし、職がもらえるわけではない。結局実績と運によって人生は決まっていくと思うので、動機があろうがなかろうがある程度まともなコミュニケーションが取れれば、自ずと研究人生は定まっていくように思う。

ただ動機がある人の方が、確率的に見て努力するし、その結果としてアカデミアに残りやすいと言うのは事実だろう。先に述べた先輩も努力の賜物で博士を出た時点で既に10本以上は論文があったし、そのおかげもあってかヨーロッパの大きな財団から個人研究費を取っている。私はこのまま行ったら博士号が取れるのかすらわからないし、取れてもそのあと職があるかわからないので、ただコツコツ精進するのみなのだが、頭でわかっていても身体が動くかどうかは別の問題である。

去年も今頃も鬱々とした気分だったが(ヨーロッパの冬は日照時間が(日本と比べて)極端に少ないので冬季鬱っぽい感じになりやすいのだろう)、今年は去年よりももっと沈んでる感じである。とはいえ定期的に運動したり社会的な活動(パーティとか)にも参加しているので、本当の意味で精神的にやばいと言う気はしない。

よく考えたら自分に期待しすぎなのかもしれないのと、研究から逃げて直接関係ないことを勉強しすぎなのもある(初期だったらコマンドラインの使い方とか今だったらパソコンの環境設定とか)。

言霊というが、あまりネガティブなことを書くと負のフィードバックが自分にかかってさらにネガティブな行動に出るらしいので、本当は嘘でもできてることを書き連ねるのがいいのだろうが、どうもそういう気になれない今日という感じである。

知り合いの人がどん底のところまで落ちてこれは取り返しがつかないと気づくと、その後やるようになるよと言っていたのを思い出した。今がどん底ならいいが、まだ底が深いようだと嫌だな。