研究をしたい理由(2019年版)

一月に入ってから早速学会のお手伝いをしたり、予備実験をはじめたり、先生やポスドクの人とディスカッションを楽しんでいる。本当にこれは自信の問題で英語力がいきなり上がったわけではないと思うが、なんとなくみんなの喋ってる内容がわかるようになってきて、論文を読んだり質問をするのが楽しくなってきた。

二年前にイギリスに行き、今年で三年目のヨーロッパ生活。もともと英語を特に勉強せず、研究のバックグラウンドもないまま、社会人を経ていきなり学術業界に戻ってきたので、英語およびアカデミックな考え方に慣れる(習得)するには時間を要すると思っていたが、本当に年単位での成長で、全く直線的な学習ではない。ああ今日はとてもわかるなぁという日もあれば、全く理解が追いつかない日もある。

イギリスで修士を始めた時は、まるで自分が見えないカプセルの中に閉じこもっているようで、言葉が私の表面上でツルツル滑って私には入ってこない感覚を持っていた。幸い、私が入った修士課程は研究に重きを置いておらず、学生の様々なバックグラウンドを踏まえて、再び基礎から学べるコースだったので、留学生であっても英語で課題をこなすのが不可能なレベルではなかったが、それでも授業を理解するのにかなりの時間がかかった。

しかしながら三年も海外に暮らしていると、頭が悪くても人間はどうも環境に適応しようとするそうで、だんだん考えてることも英語で出てくるようになるし、日本人的な感性も失いつつある。最近ではだんだん恥の感覚が消えてきて、これが良くも悪くも成長に繋がっている気がする。どれだけ考えがまとまってなくて、文法がぐちゃぐちゃでもあまり抵抗なく喋り始めるようになったし、今日も輪読会の発表でまともに説明できなかったが、それでも堂々として特に自分の不出来を恥じることもなくなった。決して自慢するようなことではないが、去年の失敗を恐れて何もいえなかったよりはまだましだと思う。

研究はといえば、まだうまくいってるともいってないともいえないが、とりあえず少しずつ進み始めているなという気持ちはある。加えて、今年からブダペスト内で同じ音楽の研究をしている人々を集めて輪読会を企画し、研究の輪も広がり始めてる。もともと音楽の研究が盛んなラボではないのだが、特に新しいポスドクが加わってから加速的に、音楽の研究グループが形作られてきた気がする。

最近ノートを書かなくなったのも、忙しかったわけでもなく、考えてたことがなかったわけでもないのだが、なんだか煮え切らず、しかし何か書いてみたい気持ちはあるので、ここあたりで今思ってる私が研究をする理由でも書いてみようと思う。

内容より方法に興味がある

こう言うとほとんどの博士学生は信じられないかもしれないが、私は特に(内容的な意味で)興味を持った研究課題がない。今いる学部は認知科学で人間を対象にした学問分野だが、そもそも科学的手法で人間を理解するということに疑問を抱いている。おそらく学部一年生あたりにとった文学部での科学哲学の授業がきっかけだと思うが、科学とは何かと考えた時にその定義はよくわからないし、自然科学(特に物理学)が使っていたような科学の「方法論」をそのまま人間の科学的研究(つまり心理学)に当てはめて、実験したら何かどうも人間の普遍的な何かがわかるような結果がたくさん出てくる。その結果の再現性が低いなどは散々議論されているが、それでも確固たるエビデンスを持って、何か人間を説明するような現象やメカニズムが解明されつつある。

はて、これは何なんだということが私が長年理解できていないことだ。このことは、私自身が問いを確立していないのもあって、曖昧なまま喋ってもあまり人に理解されないのである。人間を呼んできて、なんらかの条件設定をして、行動を測定して、その行動を平均化して統計的手法で分析すれば、何か結果が出る。それは人間の何かを説明してるように見えるし、そういうことだということで研究世界は回っている気がする。実際尊敬する心理学者(特に実験心理学者)たちは、とても単純な実験操作で人間の行動を美しく説明する研究などもあって、惚れ惚れとしてしまう。

しかしながら物理学と違って、実験結果を厳密な意味で予測することはできないし、いくら計算科学が発達して人間の認知や行動の数理モデルがあるとはいえ、物理学と心理学では測ってるものがあまりにも違いすぎる。(ここまで書いて物理学の研究手法を知ったように書いたが、物理学の事情もよく知らないと気づく。が、とりあえず前に進むことにする。)

どうも科学の方法論というものは、何か不思議なパワーを持ってる気がするのだ。それを知る上で、認知科学や心理学という、まだ若い科学の分野は勉強するのにいいところなのかもしれないという、そんな理由で博士学生として研究してみたいと思ったのであった。科学とは何かを考える時に、まだ若い分野だからこそ方法論が確立されていないところもあるし、自然科学だったら考えなくても良いような問題に突き当たることもあると思っている。

まさにこの科学論を研究対象にしている哲学の方に行かなかったのは、つまるところ自分がまず実践者として体験してみたかったというだけである。あとは実用的なスキル(論理的思考、プレゼンテーション、プログラミングなど)がある程度身につきそうな気がしたから。しかし興味的な意味では哲学の分野の方が近いのかもしれない。

自分の好きに頼りたくない

自分が持っていた典型的研究者の像というのは、生まれながらにして何か興味がある研究対象があって、その好きに向かってまっすぐ突き進むような人である。それは素敵だなぁと思うし憧れるが、私はそうではなかった。

しかし自分はなんだかんだアカデミアの雰囲気、つまるところアカデミアの雰囲気を作り上げているそれぞれの研究者たちが好きだということに最近気づいた。というかずっと気づいていたのだけど、何故か気づいていないふりをしていた。

結局、その事実を認めてからは驚くほど早くアカデミアに戻ってきたが、修士まではよくても博士に行く上では、慎重になりたいと思っていた。博士に行くのであれば、しっかり修了させたい。自分の中の取り決めで、この博士課程を乗り切る上で、私の場合は自分の好きという感情(直感的な判断)だけに頼った理由ではダメだと思っていた。

その中で自分に課したのは、博士に行くのであれば奨学金を出してくれるところにすること(奨学金を出してもらえる程度に、博士課程に進む能力があると一応認められること)。あとは精神的に辛くなった時に、自分の中の不確定の研究が好きという気持ちに軸を置いていると辞めそうな気がしたので、あくまでスキルを身につける修行と思うこと。

とはいえ、なかなか研究活動は辛いもので、こんなに私ほど頑張っていない人でも一体私は何をやっているんだ?という気持ちにはなるが、今のところは、自分の好きを軸にしていないので、修行だなぁと言う気持ちで続けることは出来ている。

他人と研究が似てる問題

と言うことで私がどうやって博士課程一年生の間に研究テーマを決め、計画書を書いたかと言うと、なるべく色んな人と関わりたかったので、私の学部にある四つのラボに、大きくは関わるようなテーマがいいなと思った。学部のホームページを見て研究内容を確認したり、先生や先輩などと話す中で決めたのが、「学習」というテーマ。

私の指導教員の先生は、その中でも人と人とのインタラクションの中でどうやって学習が促進(あるいは阻害)されるのかと言うことに興味を持って科研費を持っていたので、その範囲の中でまだ誰もやっていなかった音楽分野での専門性の技術伝達ということに設定した。

こんな感じで研究課題を決めたので、最近個人的な心配となっているのは、研究内容がちょっとずつ他人と似ているということである。自分の一番初期の研究計画書のアイデアからずっと辿ってみて気づいてたが、だんだん他人の意見を反映して、それはなんだか他人のアイデアをパクっている気がする。

割と大きな研究室にいるので、大きな意味ではみんな同じ関心を持っているし、分業制と言う訳でもないが先輩の流れを受け継いでやっている部分もある。他人の実験計画を丸パクリしている訳ではないので、盗用と言えるわけではないのだろうが、しかしながら実験のアイデアのオリジナリティをどう保つのかと言うことは今まであまり考えてこなかったが、ちゃんと説明できるようにしておいた方がいいヒシヒシとしている。最近だとOpen Science Frameworkなどで、アイデアだけでも先に登録しておくなど色々手続きがあるようだ。自分の「好き」がモチベーションで研究している人であれば、こう言うことは起こりにくいように思う。

とここまで長く書いて、なかなかまとまっていない気もするが、このような理由で自分の研究活動をある種「正当化」しようとしている段階である。来年度も書いてみたい。

最近日本語の文章をまとまって書いておらず、これを書くのにそれはかなりの時間を費やしてしまった。冗談ではなく、言語は使わなければいくら母国語とはいえその能力は少しずつ衰えるようだ。