十二月二十九日@ブダペスト

今日は久しぶりに一人の土曜日。思えば十月から十二月まで、四人ほど滞在者迎えていたので、久しぶりにゆっくり一人となれる時間かもしれない。とはいえ、年始二日からまた学会にくる友人を迎えるのであるが。

朝ゆっくり起きて掃除をする。フローリングのモップがけをしてもいいかと思ったが、どうせまた人が来るのでその後にすることにする。掃除機をかけ、窓をふき、水場のカルキを除去する。部屋が広いので、これだけでも結構疲れる。

市場に行って買い物をする。卵を買おうと思ったが今日はおばちゃんがいなかった。行くのが遅すぎたのか、年末でそもそも来ていなかったのか。

昨日、実験刺激の画像を作りなおすのにpythonで書けばいいのではないかということに気づき、そんなにすぐ書けた訳ではないが二時間ぐらいでプログラムを書き終える。そもそもなぜ最初に作った時にプログラムで書くと言うことを思いつかずにPhotoshopで地道に似たような画像をたくさん作っていたのか、今考えると理解しがたい(多分早く終わらせなきゃと思い、確実にわかる解決法がそれしかなかったからだと思うが)。

そもそもMaxという変わったビジュアルプログラミング言語を使って実験を走らせていなければ、わざわざ実験刺激の画像など必要することもなく、試行数ごとに文字や数字を変えて画面を提示すると言うことなど、普通の心理実験で使われるような言語(Matlabとかpython)だとなんてことないのだが、この音楽制作のために作られた言語では、そう言う簡単なことがどうしたらいいのかよくわからない。不可能ではないと思うが、まあ知りもしないのに文句を言うのもよくない。

それより一つだけRで分析した方がいいものがあるが、一度始めるとpythonがやりたくなって他の画像も作り替えたりして時間がなくなる。私は何歳になってもやりたいことから先にし、やるべきことは後回しにしてしまう。好きなものは最初に食べるタイプである。

作業しながら墓場のラジオというポッドキャストを愛聴していたが、今年で終わるとのこと(しかしまた来年Season 2で帰ってくる)。最後のエピソードは「終わり」について話していた。

自分のことを考えてみると、私は終わらせるのが苦手だ。SNSは突然やめるし(それにより多くの人間関係を強制的に終了させるし)、ブログとかHPも作っては途中で嫌になって消去するし、モノも必要ないと思ったらすぐに捨てるか寄付する。

だいたい終わらせる時に一つの理由はないし、なんだかとても嫌になってやめる訳だが、これがいつも発作的に起こるので病気ではないかと思ったりする(が、先ほどの墓場のラジオのMCしぶちゃんも、どこかのエピソードで同じ気持ちを語っていたので、それなりに同じ病の人はいるかもしれない)。

しかしながらこのnoteは100記事以上書いたが、まだ消そうと言う発作は起こらない。というのもポッドキャストで言っていたような終わりが明白に決まっているからかもしれない(博士課程の間だけ)。

何事にも終わりは来るが、いつ終わりが来るのか考えていない(あるいはわからない)ことが多い。自分も発作で何かをやめることが多いだけで、計画してこれはこうやって終わらせようとか考えたことがない。

いきなり終わらせることはもしかしたら真摯な態度ではなく失礼なのかもしれないし、できれば計画的に終わりを考えれるようにもなりたいと思ったりするが、それでもしかし終わりを考えながら何かするのも、なんとなく有機的でないと言うか、動的でないというか、あんまり性に合わない。

不思議と縁があれば何事も繋がるもので(と言うか繋がると言う風に勝手に解釈できるもので)、いつも何かやめる時には、縁があればまた出会うとなぜか固く信じて、期待しているからかもしれない。