存在し得なかったかもしれない欲求

取り止めもない思考をメモ。私はよくSNSに疲れる。ここでいうSNSはTwitter、Facebook、Instagramのような大手のものではなく俗にいうFediverseという分散型SNSのことであり、私が大学院に入り直してから長らくお世話になってるオンラインの社交場である。

疲れると書いているが、海外で一人博士課程に進学するにあたって孤独感を救ってくれたのはこれらのサービスであり、そこにいる人々だったのでFediverseを全く悪くいう気もないし、これからも使っていきたいとは思っているものの、使い加減が難しくて疲れることが多い。特に精神状態が悪い時ほどよく使用してしまい、自己嫌悪になる(ちなみに特に誰かと揉めるといったような、人間関係の問題に発展したことはない)。

FediverseはTwitterのようなものという人もいるし、全く別物だという人もいるし、何を持ってFediverseというのかは私も今でもわからないが、個人の認識ではチャットサービスである。ただ、LINEやWhatsAppなど自分の既に知っている人とコミュニケーションを取るためではなく、そこにいる(ほぼ)匿名の人々と気軽に話せる場所だ。自分の現実世界とつながりがない、利害関係のない新たなコミュニティがそこにはある。外見や学歴や年収や、なんなら年齢も性別も晒さなくていいので、自分の社会的に纏わらなければならないものを一旦下ろしてみんな対等でいられるようなところだ。

ということで私がこれを使いすぎている時はつまりコミュニケーション欲が満たされていないのだなと長年思っていた。確かに留学し始めてから基本的に日本の家族や友達とは(帰国しない限り)一切会うことは出来ないし、こっちにきてから以前と同じような交友関係が結べているかというとそういうわけでもないので、人と心の底から話し合える機会が少ない結果、こういうサービスやそこにいる人々を求めてしまうのだろうということである(しかし書きながら思ったが、そこにいる匿名の人々と心の底から話し合ってるわけでもないので、実際はコミュニケーションの量は増えているけど質に厚みがあるかと言えばそうでもないかもしれない)。

寺田寅彦や朝永振一郎の留学中の思い出や日記などを読んでみると、その頃当然SNSは愚か電話さえ自由にできる時代ではなかったので、その頃の暮らしを想像すると私とは比べものにならないほどの孤独感を味わっていたのだろうとゾッとする。

じゃあどうしていたのかというと、書いてあることから読み取れるにまず日本との手紙のやりとりをしたり、時に仲間と会ったり(仲間は現地の人だけなのか、日本人同士の場合もあったのかはよく覚えていない)、旅行したり美術館に行ったり公園を散歩したりといったようである。他にも何か気晴らしはあったかもしれないが一応研究をしに行っているので、本業からかけ離れたことをしているとは思えない。

私がこの時代に留学するようなエリートであったとしたら、孤独感をどう拭っていたのかと考える。今はSNSがあるからまだ毎日誰かと喋れるけど、それがないなんて地獄だと思うと同時に、そもそもSNSがなかったとしてこんなに誰かと喋りたいという欲求は現れたのだろうかとも思う。

つまりとある環境下では、たとえ個体が特定の性質を発現する可能性を持っていたとしても、発現しない場合があるのではないかということである。環境と遺伝子の話は前から興味があり、とは言えまだよくわかっていないので何もエビデンスに基づいたことが言えるわけではないのだが、簡単に言えば一卵性双生児でも全く異なる場所で育てれば喋れる言語も異なるし、性格も違うかもしれないということである。

この記事は直感的に私の言いたいことの例が書いているので引用したが、具体的な環境と遺伝子の関係については議論されていないので、そこらへんのメカニズムについてはちょっと置いておく。物理的な要因(基礎疾患など)の発現はまだ想像しやすいけれども、心理的な要因(人格など)が一つ一つの遺伝子と対応関係があるのかどうかも知らないので、余計に想像がつきにくい(鬱病などの特定の精神疾患と遺伝子の関係の研究はたくさんあると思う)。

先ほどの話に戻ると、つまり私はSNSがなかったらそもそもこんなに喋る私もいなかったし、喋りたいとも思わなかったし、もしかしたら孤独感も感じてなかったかもしれないということである。なんとなく私はどこにいてもお喋りな人間で、おそらくどこにいても孤独を感じがちだと思っていたが、もしかしたら場所が違えば、時代が違えば、同じ遺伝子でも全く異なった私であったかもしれない。

私よりももっと下のZ世代はこれまでにないほど他者と繋がっているにもかかわらず、どの世代よりも孤独だというような話はよく聞くが、これももしかしたらそうかもしれない。いちいち繋がり、いちいち評価されるような場所に常に置かれると、まるで自分以外の人がすごく満たされていて、自分は全く何もないような錯覚に陥ってしまう。昔だったら物理的に会える、近い関係の人の生活しか知らなかったのに、今では会ったこともない人々の生活まで全て見てしまうから余計にしんどい。

SNSの悪い部分が議論されることが多いように思うが、良い部分もたくさんあると思う。しかしながらこのせいでかつて人類が経験したことのないような孤独感を感じているのも正しい気がして、じゃあ私はその中で生きているのだからどうやって向き合っていけばと考えるとなかなか鬱々としてくる。

というかそもそも向き合わなくてもいいのかもしれない。日本に一時帰国していた時は常に近しい人と一緒にいてどうでもいいことを笑いながら話していたから、私のことをそんなに考えることはなかった。一人でずっといるとこんな感じで夜カタカタとパソコンを開いて、ただどこへもつながらない思考が生まれるだけな気もする。