慣れに慣れない

十二月に入り、街中を彩るイルミネーション。きらびやかなクリスマスの季節。東京にあるような最新のテクノロジーはなくて、よく見るととても安っぽいんだけど、ここは中央ヨーロッパ。古くからカトリックが根付いているこの地域の歴史や文化が、ここにしかない独特な雰囲気を作り上げている。

美しいイルミネーションを見ながら私はただ泣きたい気持ちになる。それは何も美しさに感動しているわけではない。単純に私はここで何をしているんだという気持ちになっている。何回同じ気持ちになったかわからない。

二年前は初めてヨーロッパに移り住んだ年。冬の暗さと将来の不確定さから不安に押しつぶされそうになりながらも、初めてのイギリスに心躍らせ、クリスマスは滞在中よくしてくれた知り合いの先生のお家に招いてもらった。年明けは韓国人の友達と朝まで喋ったりカフェに行ったりして、お互いの進路(博士課程)に向けて出願書類を頑張って書いていた。その頃、知らぬ間に祖母が亡くなっていた。頑張っている私に気遣ってか、両親はしばらく教えてくれなかった。

去年はハンガリーでのクリスマス風景を見て、一人だけ授業に遅れていて不安とストレスで吐き気がする毎日だったけど、それでもまだワクワク感があった。あと数年はこの土地にいる嬉しさも感じられた。深夜まで論文を読んでも理解できず、授業中に名指しで当てられては何も言えない最悪の日々だったが、何より年末に一度日本に帰った。

さて三年目、去年と同じ土地。今年は日本に帰らないと決めた。同じような景色を見ているだけなのに、美しさが何も入って来ない。目の前にやるべきことが山積みで、毎日コツコツ自分なりに頑張っているけどもう疲れた。歩きながらも考え事をしていて、頭が休まる気がしない。と思えば家に帰ってネットサーフィンしたり適当な動画を見てぼーっとしてしまう。

要するに慣れなのである。働いている頃は、自分の時間が一切持てなくて、仕事自体は楽しいし、(技術的な意味で)難しいと思ったことはなかったが、これでは自分の頭が腐るしもっと考える力が欲しいと思って大学院に入り直したいと思ったのであった。実際頭が腐っていて、ろくでもない片思いに足を突っ込もうとしていた(いや、何回か突っ込んだ)時期でもあった。

働く前は学部生だったが、憧れの京都の地での一人暮らし、授業や実験は楽しかったもののその当時は大学院になんか絶対進まず、社会を知るために働きたいと思っていた。就職活動は全くうまくいかなかったが幸いにも人の縁に救われ、無事大学から出ることに成功した。

大学に入る前はというと浪人時代で、その頃の感情はほとんど忘れてしまったけど、おそらく今までの人生で一番心が死んでいた。こんな自分の考えも反映されない詰め込みの受験勉強から抜け出して、もっと自分らしく生きたいと思っていた。その時過ごした大阪の堀江という場所で出会ったチェコやハンガリーの東欧雑貨に惹かれ、初めて自分の心が強く動かされる感覚を持った。結果第一志望の大学に入れたが、第二志望の大学はハンガリー語学科に出願したぐらいだ。

生き物はその環境に適応しようと努力していると思うが、ある程度世界が予測できるようになるとこのように慣れが出てきて、隣の芝は青いではないが、別の世界が羨ましく見える。なので今気分は最悪だが、ああまたこの感覚かという感じだ。別に昔に戻りたいとも思わない。

本当はこんなことを書いている時間など一秒もないのだが、しかし自分の人生を考えると私は書くことで、私が私であることを保とうとしているような気がしてきた。最近余命があと少しだったらどうするか、ということを考える機会があったが、私は間違いなく今している研究をやめるだろう。世界中を旅して、出来るだけたくさんのものを書いて(描いて)、最後は日本に帰って死にたい。

書いている内容はとことん暗いが、これが私なのである。しかしこんな気持ちも15日までだ。16日からはお客さんを迎えて強制的に休みに入るのである。