六月十五日・十六日・十七日@ブダペスト

六月十五日

今日は特に何もない日だが、大学が正式にオープンして一応学生も必要であれば登校して良いことになった。必要というのが曖昧で、授業はないので授業のために行く必要はないのだが、私だったら実験のセッティングでラボに行きたいし、家の不安定なWi-Fiじゃまともに働けないのでという理由でもいいのかもしれない。

ともかくそのつもりでラボマネージャーにもその旨を伝えていたが、なんだか大学内でもルールに対する解釈が部門によって異なるようで、一番厳しい基準だとラボマネージャー経由で「いつ・どこに・何時から何時まで」を大学側に細かく伝えていなければならないことがわかり、その手続きが行われてなかったので申し訳ないけど今日は大学に来ないでと言われる。別に急ぎの用事はないので構わない。

お昼は他大学の学生と恒例の輪読しつつほぼお喋り会をする。お喋りと言っても割と日常のことから派生してアカデミックな内容になっていくので、これはこれで楽しい。唯物論的な立場をとるJ.J.C.スマートのチャプターを読むが哲学者の言ってることはいまいちよくわからない(大まかにいえば心は生理学的反応(要は脳)から派生して生まれたものであるという考えのことだと思うが、それに至るまでのロジックが理解できていない。またいつか読み返してみたい)。次回は二人とも最近気になっているアブダクションについて考えてみることにする。

夕方は歩きに行きに出るが、最近世紀末のような雨が降ってなかなかまとまった時間歩くのが難しくなってきた(亜熱帯地域に住んでいるようである)。

六月十六日

久しぶりに髪の毛を切りに行く。遡ってみると前に切ってからたかが四ヶ月しか経っていなかったが、なんだか相当昔な気持ちになった。美容師さんと話すと、約二ヶ月ほど完全にお店を閉めていたようだが、むしろ常に休みがない状態で働き続けていたので、結果的にはよかったということだった。それは割とどの職業の人でも当てはまるのではないかと思う(もちろん職を失ってしまった人はそれどころではないと思うのだが)。

久しぶりに大学に来る。入り口のセキュリティーガードに「今日予約してるのですが」というと「久しぶり!勝手に入っていいよ!」と言われて拍子抜けする。やはりルールに対する理解は各所違うようだ(つまり私の学部のある建物は緩い)。

ラボにいって、引越しに際してまだ移動させて欲しくない実験に使う物品をチェックして自分の名前を書いておく。久しぶりにiMacを起動させてみるが別にそこで作業しやすいわけでもないので、適当にSNSをやったりして終わる。ラボマネージャーと遭遇し、一言二言交わす。元気そうである。

別にこれといって何もしてないのだが、本当に三ヶ月ぶりに通学みたいなことをしたので、それだけで妙に疲れてしまう。体力的にというよりは気疲れだろうか。もう前のような普通の生活にならないのかもしれないが、それにしてもある程度日常を復活させなければならなくて、その方法(というか折り合いの付け方)は各個人の判断によるんだなと思う。

一応まだ家で作業することが推奨されていて、できれば大学に来ない方がいい。けれどもう三ヶ月も家に引きこもっていて、家でできることが完全にないわけでもないが、流石に精神的に辛い。大学に居ても前のように誰かと喋るわけでもないのだが、今日来てみて心が随分軽くなった。やっぱり家が狭すぎるのだろうか。何が理由なのかはいまいちよくわからない。

大学に行くということだけでなく、家で過ごす以外の全ての行動に、何かしらに理由づけがいるようになってしまった。正解も不正解も(程度の差はあれど)多分、ない。自分で自分の正解と不正解を作らないといけない。ワクチンがまだ開発されていない今の段階では、なるべく人との接触を断つのが正義なわけだが、例えばカフェやレストランのイートインはやめておいたとしても、テイクアウトなら許されるだろうかとか、どれぐらいの頻度で買い物に行くべきなんだろうかとか、川縁であれば友達とあって話をしてもいいだろうかとか、昔だったらいちいち何の正当化もいらなかったことに対して、周りの目を気にしながら何かと理由を考えている。外に出るということは、その正当化の頻度が増えるわけで、それが今日の気疲れに繋がってるのかもしれない。

六月十七日

今日はラボだけでもなくオフィスにも行ってみる。当然だが誰もいなくて快適である。街を見渡すと、観光客はまだいないので昔ほどの活気はないけれど、地元の人々はだいぶリラックスして、昔のようにご飯を食べて語らっている人が多い印象である。飲食店の従業員はおそらくマスクをつけなくてはならないのだろうが、適当につけてる人も多く、客もそれを許容しているようなので、そこまで神経質になっていないようである。一方私の大学は政府から目をつけられているのもあって、とても気をつけているし、必然的にそこに所属する我々も気をつけなければならない。

二日来てみて、結局私はやっぱり大学に来た方がいいと思った。めちゃくちゃ生産性が上がるかというとそうではないのだが(多少再適応しなければならないだろうから、そのうち改善されるといいが)、広い空間はやはりよいためかだいぶストレスを感じにくい。天井の高さだけでも倍以上違うし、部屋の広さは四倍ぐらい違うと思う。だからと言って使うスペースは結局パソコン周りだけなのだが。

朝は昼からのミーティングのため、プログラミングに集中する。何でここまで放っておくのかわからないけど、最終的にギリギリにできてしまう快感があるのか、それのせいで今回も放置してしまった。またもやミーティングの三十分前ぐらいにできてしまう(もちろんできなくてミーティングキャンセルしてもらったこともあるのだが、都合の悪いことは大体記憶から消えている)。

お昼はさっき作った実験刺激と過去のものも一通り見せて(というか音声共有で聞かせて)、この中からどれを実際に使うか選定方法などを話し合う。今日は第一だけでなく第二指導教員もいて(二人は夫婦)、特に第二の方が私の研究の遅さにイライラしてる感じがあるので、本当にそろそろ実験を始めないといけないなというプレッシャーを若干感じる。若干感じるものの前のほど罪悪感を感じなくなったので、私も図太くなったんだろうなと思う。

ミーティングの最後に、先生から七月の頭に学部がオーストリアで認可を受けるために専門家が視察に来るそうで(もちろんオンラインで)、その中の一つの項目に学生へのインタビューがあり、うちのラボの代表で出て欲しいとさらっと言われる。出て欲しいというか、そういうのがあるのでよろしくねという感じであった。察するに先生が私を選んでくれたのであろう。

こういうの、選ばれると嬉しい人もいるのかもしれないが、私は結構微妙な気持ちになった。というのも過去の日記にも書き殴った気がするが、前にも新入生の在校生への質問コーナーとかパネルディスカッションに連続で呼ばれたことがあって、何で毎度毎度私なんだと思う。その愚痴を同じラボの先輩(シンガポール人)に行ったら、アジア人だからに違いないと言われ、自分も妙に納得がいった。

というのも、うちの大学は留学生の多さを売りにしてるので、何かと文化的多様性を強調しがちである。簡単なのが、視覚的に色んな人種の人が一緒にいる図を見せればいいのだろうが、今回もまたそれなんだろうなと思う。特に私の学部はほとんどヨーロッパ人なので、私が選ばれやすいのもわかる(もちろん私以外にアジア人はいるが、明らかにこの手の仕事が嫌いそうな雰囲気を醸し出している)。

私はこういう行事が苦手だし、基本的に他人の前で喋るのが英語でなくても苦手である(英語だと尚更なのはわかるだろう、質問の内容が英語の理解力不足でわからないことを考えると毎回ゾッとする)。しかし海外で勉強するというのはこういうことを経験するということなのだろう。とにかく私の下手な受け答えのせいで認可が受けられないということにだけはならないようにしたい(そこまで重要では多分ないと思うけれど)。