社会争って生きること

今日大学に着くまで、聞いていたポッドキャスト。

子どもの頃は誰でも些細なことに疑問を持っていたのに、大人になると当たり前(例えば慣習だから)と思って、改めて疑問を持たなくなったりするというような話がありました。

これ自体はよく聞く話かなぁと思いますが、その中でパーソナリティの柴ケンは知り合いの女の子の変化を語り出します(下に書いてあることはざっと聞いたまとめなので、詳しくはぜひ上のエピソードを聞いてください)。

その女の子は柴ケンさん(当時二十代前半)より年下の女の子で、いわゆる「普通の」同年代の子とは異なっていて、みんなが色恋に浮かれているような様子をくだらないと言い、自分は好きな音楽や漫画などに没頭して(当時女のオタクがまだあまり一般的ではなかったそう)、CDショップで働いていた、すごく感受性の高い個性的な子だったそうです(メイクも個性的だったようなので、なんか古着系とかサブカルっぽい感じかな〜と想像したりしてました)。

このポッドキャストを聞いてる方ならわかると思うのですが、このパーソナリティの柴ケンさんもそういう割と世間に対して一石を投じるじゃないけど、疑問を投げかけて議論するのが好きな方なので、柴ケンさんは年下のこの女の子とすごく意気投合していたそう。

それがある日突然、その子が「私もうやめたんです、最近楽なんです」とと言い出し、聞くと彼女はCDショップを辞めて子ども服屋に転職し、「普通ところで働いて普通の女の子として生きることにした」らしい。理由は「めんどくさくなった」から。そこから彼女は「普通に」結婚をして、「普通に」子どもを産み育てているとのこと。

柴ケンさんによれば、以前の彼女からはまず考えられないような将来で、何があったのかわからないけど、以来自分ともだんだん話が噛み合わなくなってきて、疎遠になってしまったという話でした。

この話を聞いて、頻繁に出てくる「普通」というワードが私の心に引っかかるのですが、この普通を形作っているものは一体なんだろう。彼女の言葉から読み取るに、CDショップは「普通ではなく」て、子ども服屋さんは「普通」であり、結婚や出産は「普通」であり、結婚や出産をしないことは「普通ではない」。

さっきの当たり前のことに疑問を持たなくなる話に戻ると、他人から疑問の持たれない人生というのが、普通を構成する一つの要因になるのかなと考えたりしていました。例えば私は今三十近い独身女性ですが、私が今日本に住んでいて、誰かと付き合って、結婚して、出産すると言ったとしても、「何故日本に住むのか」、「何故誰かと付き合うのか」、「何故結婚するのか」、「何故出産するのか」と疑問を投げかけてくる人はほとんどいないでしょう。

もちろん誰一人同じ人生を歩むわけではないから、明確な社会的な決まりはないけれど、社会からの期待というものは誰しも感じる部分があるように思うのです。この社会からの期待というのが、何によって構成されているのかはよくわかりませんが。

結局普通が何かということは、私も考えていても全くわからないのですが、先ほどの彼女の「めんどくさくなった」という言葉から想像するに、普通ではない人生を生きるためには、どうも普通ではない理由を説明しなくてはならないような気します。

考えてみれば不思議というか、世の中には片方の選択をするには理由はいらないけれど、もう片方の選択をするには理由がいる、そういう類の意思決定があるようです。

社会の期待を「普通」と呼ぶのであれば、そうでない生き方をしていると必然的に社会に争って生きているということになるのかなぁと考えたりしていました。私は別に社会と敵対して生きている意識はないけど。

私の生き方はものすごく特殊という訳ではないけれど、それでも私が「〜でない」「〜しない」ことに対して理由求められることが多く、確かにめんどくさい。しかし、私が普通の女の子になった先にあるものはなんだろう。