方法論の変更その1(今後の研究とキャリアについてメモ)

この前帰ってきた査読のコメントについて先生と話し合い、今後の研究・キャリアの方向性を変えようと思っているので一応メモ。ひっくり返るほど長い(上に書き切らなかったのでその1とする)。

査読コメントについて

五月一日に論文を投稿して、六月末に査読結果が返ってきた。めでたくリジェクトだったわけだがコメントが割と厳しめで、しかしこれが初めての論文投稿だったので、こんなものなのかどうかわからなかった。

指導教員の意見を聞いてみると厳しいと言うよりかは攻撃的?(hostile)なもので、こんなものは先生ももう何年も受け取っていなくてビックリしたという。そう言われるとコメントの読み方も何だか変わってくる。論文投稿をうまくやるのは慣れが必要だなと思った(いろんな意味で)。

要は分析方法が気に入らなくて、というかそもそも音楽の演奏という豊かで「特別」な人間の行動を実験パラダイムにのせる考えが気に入らないらしく、このような研究がされていることが腹立たしいというような感じであった。そこで私は改めて何で実験をするのか、何で生の人間の行動をもっと観察しないのかということを考えることになった。

なぜ実験するのかの私の理解

実験をするということは、理論に基づいた仮説(予測)があり、とても制限された状況を人工的に作って人間の行動を計測して、仮説が正しいかどうかを確かめるという営みである。どんな心理学実験も、緻密な仮説と予測がある限り、実験参加者の行動は制限され、日常生活のように自由に振舞うことはできない。例えばコンピュータの前に座らされて、目の前の画面に○○が出たら→のボタンを、△△が出たら←のボタンを押してください、といった具合である。何で→ボタンなのか、「右」と口頭で答えたり、体全体を使ってジェスチャーしたりしてはいけないのか、色々疑問はあるが実験によっておおよそ行動は制限される。

理論があって仮説が出るということは、人間の行動モデル(暫定)を構築して、それが正しいかどうか確かめるために実験をすると理解している。モデル化するので当然実験室で計測される行動は日常生活のそれとは程遠い。だから実験室で観測されることは実際とかけ離れている(the lack of ecological validity)と批判されることもしばしばあるが、モデル化するからこそ見える人間の普遍的な行動パターンみたいなものが明らかにされるわけである。個人差を考え始めたら、みんなそれぞれ違って結局人間(および生物)の普遍的な事実については何もわかりませんで終わりである。

意図によってコントロールしづらい行動

とはいえ何かこの考えにもモヤモヤするものがあって、私の研究の場合はこれまでに私が心ときめいた心理学実験と何か違う気がしていて、それが何かずっと考えていたが、このところ一つの可能性にたどり着いた。おそらく計測している行動が意図的か意図的でないかによって実験の意味が異なるのではないかということだ。

私が今まで心ときめいた心理学実験というのは、おおよそが人間が意図的にコントロールしにくい行動について研究しているものばかりだと気づいた。私の指導教員の研究だと、人間は他者が隣に座っている状況で一緒に課題をやった時、自分の課題には関係ない場合でも他者の存在を無視できないということを示した。他にもステレオタイプの研究では、口では「ステレオタイプ(偏見)を持っていません」と答える人も、実は偏った反応(欧米での典型例は白人=良い、黒人=悪いという連想)をするということが示されている。基礎的な知覚(特に視覚)実験はほぼ意図的にコントロールできることが少ないだろうから、大体面白いなと思う研究が多い。

上にあげたような特定の課題に対しての反応(例えばボタン押し)などをさせて、反応時間を記録したりするものが多い。「なるべく早く正確に反応してください」と言われることも多く、つまり考えて行動が変えることがないように工夫されているのである。

意図によってコントロールできる行動

一方で私は研究対象は「教える」という意図的な行動である。意図的ではないが結果的に何か教えてることもあると思うが、私の研究では先生が生徒に対して何か教えるために行動を変えることを指すこととする。

意図的な行動というのは、教えることだけでなくて、例えば誰かと協力する、助けるなども含む。人間ほど高度に相手の気持ちを推測したりしながら意図を持って行動する種族は少ないので、こういった行動は人間特有と思われがちである(他の動物は協力したり助けたりしないのかということは議論の余地がありすぎるのでここでは扱わない)。

実験心理学者が研究するとなると、意図的行動を実験パラダイムにのせましょうということになる。つまりそれは私の理解だと理論をもとに人間の行動をモデル化して、仮説(予測)を立ててそのモデルが正しいかどうか確かめると言うことである。

意図的にコントロールしにくい行動に関しては、多少環境が変わったりしても一定のパターンを示すことが多い(=モデル化しやすい)。例えば基礎的な視覚処理は自分の意図によって変化したりしない。もちろん気分によって世界の見え方が異なるということはあると思うが、目の前にあるマグカップを意図的に曲げてみせたり拡大したりすることはできないはずだ(できるとしたら幻覚の部類に入るだろう)。だからこそ私たちは信頼性のある視覚情報を頼りに生きていけるわけである。

一方意図的な行動というのは、当たり前だが自分の意図次第で行動をまるっきり変えてしまえるので、パターン化しづらい(=モデル化しにくい)。人を助けるということ一つ考えても、誰が誰を助けるのか、この二人は今後交流するのか(もう会うことはないだろう旅先の人なのか、毎日顔合わせる同じ村の人なのか)、金銭的なやり取りは発生するのかなど色々な条件によって、人々がどのように行動するか全く変わってしまう。

実験するからにはそういった条件をかなり限定してモデル化するわけだが、視覚実験のように厳密に物理的条件(例:部屋の明るさ、モニターと実験参加者の距離)を限定するのとは異なり、多くは仮想の社会的状況(例:教える、協力する、助ける場面)を作り出すので、極端にいえば現実にはない人工の状況設定下で実験することになる(厳密に言えば全ての実験がそうなのだが、それはとりあえず置いておく)。

実験室での「教える」行動

私の研究分野に戻ると、先生が生徒に「教える」とき、どうやって行動を変化させているのかと言うことを、音楽の技術伝達に焦点を当てて調べている。実験するときには「こういう状況を想定して教えてください」と想像してもらったり、生徒のレコーディングを聞かせてこの人に教えてくださいと言ったり、目の前に生徒を連れてきてこの人に教えてくださいと言うなど、様々な「教える」環境を作り出して、教えてもらうようにお願いする。

言語を使わない行動実験の分野だと、何を教えるかによらず教える時の行動パターンは決まっていて「ゆっくりする」とか「何回もする」とか「動作を強調する」などが知られている(まぁ感覚的にそうだろうなと気がすると思う)。言語的指示が使えるようになるとさらに複雑になるのでとりあえず考慮に入れない。音楽だったら数値化しやすい音の変化とか、体の動きとかを計測するのが王道のやり方だ。

しかしながらこの人工的に作り出した環境で「教えてください」とお願いして実験参加者に何か行動を変えてもらうのは、本当に人間が何かを「教える」行動の研究になるのだろうか?先ほど、何を教えるかによらず教える時の行動パターンは決まっていると書いたが、これらの研究は実験という仮説検証から始まったのではなく、元々は自然状況での観察から浮かび上がったパターンであり、のちに実験に起こして仮説検証されていったという流れである(と思っている)。だから始まりはもっと質的な哲学・人類学的なところに源流がある(よく考えたら科学的方法論は最近のことなので、どの分野もそうといえばそうなのだが)。

数値ではわからないこと

実験の良さは人間の行動をモデル化して、仮説(予測)を生み出すことによって、普遍的な人間の行動パターンを見つけ出すことだと思っている。私はずっと実験心理学の分野にいるから、これが当たり前に価値のある物だと思っているが、ふと簡易なモデル化をすることによって無視をする膨大な情報量について考えたりする。

意図的にコントロールできるものであろうができないものであろうが、人間の行動を実験パラダイムにのせる場合は、相当な情報を無視している。むしろ実験をするからには、いかにセンスよくほとんどの情報を無視して必要な物を取り出すかが大切になる。しかしながら社会的な要因が多分に入る意図的行動の研究においては、情報の無視という行為がかなり致命的な気がしている。本当に存在しない仮想空間の中で、意図的に行動させて、それって一体なんだろうか。

物づくりをしている人からすれば、別に現実に存在するかどうかなどはあまり重要でないと思う。例えばAIを作るときに、必ずしも人間と同じように振舞わなくたって、目的を達成すればそれでいいはずだ(人間と同じ認知様式を取らなくてもかまわない)。しかし、私は一応「本当に存在する」人間の行動を対象に研究しているわけだから、やってることが実は世の中に存在しない現象であると困るわけだ。ここを解決するのに、果たして実験だけでいいのかと悩んでいるわけである。結論からすると明らかに実験だけでは足りないと思うし、じゃあ質的研究の文献を読むだけで解決するかと思うと、私の回答はNOである(私にとっては文献を読むことだけでは満足できない)。

自分がこんなことを今更考えているのが結構おかしくて、そもそも学部生の教育課程では半分実験、半分臨床(セラピー)の勉強をして、その頃は臨床系の思いっきり質的な研究を見て、「あれは個人差に注目しすぎるし、セラピスト(観察者)のバイアスがかかりすぎて、これではダメだ」と思っていたのである。今更ながら質的研究の良さがじわりじわりとわかってきた(研究分野にもよると思う、そんなことを考えなくてもいいような分野で実験をしていたら実験至上主義になっていたかもしれない)。

*****

まだ言いたいことの半分も書いてないのだが、長すぎて全然まとめられる自信がなかったので、とりあえずこのあたりで。