五月二十三日@ブダペスト

今日は十一時から来週の口頭試問のための発表練習@ラボミーティング。朝六時ぐらいに起きて、作ったスライドにあわせて喋る内容を固め始める。何故もっと早く出来ないのかと思うが、これも自分の実力なのでしょうがない。だんだんと自分の状況を受け入れつつある。もちろん朝のジョギングは断念。

喋る内容を書き終わったのが九時四十五分ぐらいであり、そこから一回だけ通しで練習してもう大学に行かなければならない時間。練習で録音した自分の喋りを聞きながら、今日はバスに乗る。「あー」とか「えー」とかが多くて嫌になる。

大学について喋る内容を印刷する。本当は全部丸暗記して望みたかったが仕方がない、今日はなるべくみんなのほうを見ながら原稿を読むことにする。早めにラボミーティングの部屋に着き、準備をすると続々みんなが集まってきた。

私の研究室にはもう一人同期がいて、その子も発表予定だったがどうも準備が間に合わなかったようで当日になって発表しないと言い出した。別に他人のことだからあれこれ言うつもりはないが、彼の自己肯定感の低さがとても気になる。前も似たようなことがあり、自分は準備が出来てないからうまく出来ない、自分は能力が低いから出来ない、などと言って当日突然授業に来なかった。今日は部屋に来たものの結局発表しなかったのだが、自分の能力の低さを見せるのが怖い、そして本当の自分の能力はもっと高いはずだという過信が、彼の挑戦する心を妨げているような気がする。

かく言う私の発表も正直スローペースの詰まりながらであり、途中で原稿がどこいったかわからなくなって時間をとるなど、いわゆる残念なプレゼンだったと思う。それでもいかに出来ていないかを他人(しかも指導教員や研究員)の前で晒すことで、たくさんのアドバイスをいただけるし、本番の頃にはまだマシなものを提供できるのではないかと思う。怖気づいて発表しなかったら、その機会を逃してしまうのだ。

とはいえ、自分の能力の低さを人前で晒すのはかなり勇気がいることである。特に、自分の能力が評価されるような場ではなおさら不安になる。でも結局晒していくことでしか克服できないのである。人間はイメージトレーニングである程度まで登りつめることもできるだろうが、結局どれだけ試行錯誤したかがモノを言うのではないだろうか。

私も学部時代は誰かの前で模擬練習することもなければ、正直ろくに原稿もかかずに発表に望んでいた。卒論の口頭試問だって三十分あったが、ほとんど何も用意せずに挑んだ。自分でやった研究だから基本的にわかっているはずだし、日本語が堪能なので(当たり前だ)何とでもその場で言い表すことが出来ると思っていた。The 過信である。

しかしながら今から考えるに、それは本当は間違えであり甘えだったのかもしれない。発表とはいわばパフォーマンスである。私の場合はピアノを習っているからピアノの演奏を想像するのだが、人前で演奏するのにろくに練習をせずに挑むとは何事であろうか。

来週の口頭試問は博士課程の要件の一部なので、ピアノの演奏を聴きにくるお客さんとは違うが、聴衆は聴衆である。自分が作った曲だからといって即興でうまく演奏できるかはまた別問題。今は英語で発表しなければならず、本当に身体の芯から理解していることしかうまく言葉に出来ないことから、こういうことに気づくことが出来た。

ちょっと物怖じづいている同期を見てこう思うのであるが、これを素直に伝えるのはあまりにも直球な気もするので特に何も言わない。何とかうまく乗り越えてくれればいいなと心の中でひっそり願うばかりである。

発表後はちょっとスライドの修正をしつつ、気が抜けてピアノの練習をして早く家に帰って夜ご飯を食べる。早めに寝る。自分で言うのは恥ずかしいが、我ながら良くやったなぁと褒めたい。