なりたい私が霞むとき

私は小さい頃からなりたい自分が割と明確にあった方だと思う。とはいえ、それは具体的なロールモデルとしての大人が周りにいたわけでもなく、ありがちな「職業」への憧れがあったわけでもない。

五歳の時に幼稚園に通っていて、お絵かきをする機会がたくさんあった。私は絵を習っていたわけでも何でもないが、並の女の子としてお絵かきが好きであった。風景や物体を描くというよりは、架空のお姫様の絵などを描いていた。

ある時、友達がとても画期的な目の描き方をしているのを見つけた。今でいう、いわゆる少女漫画に出てくるような異常に大きい目の中に星が入っているようなものだったが、それまで目は黒く塗りつぶした丸に睫毛を生やした程度の簡単なもので済ませていた私にとって、この描き方はとても刺激的であった。幼心に何の疑いもなくすぐに模倣して、その友達に嫌がられたような気がする。私はそんな創造的な絵の描ける女の子になりたかった。

そのあと小学校を経て中学校に入ると、友達と頻繁に手紙の交換をするようになった。すると中にはとても可愛い字を書く子がいて、私も同様可愛い字が書けるようになりたくて試行錯誤した。中学校が終わる頃には京都で高校生活を送ってみたくて、結果自分の望んだ形ではなかったが、京都の女子校に通うことになった。大学は引き続き京都で過ごして、一人暮らしをし、やりたかったパン屋さんでのバイトも経験した。

もちろん願ったり想い続けただけで叶わなかった夢は山ほどある。しかし常に何かなりたい自分へのイメージはあった。それはこういうことができる私、こういう場所にいる私、といった私自らが欲しいものを手に入れていく過程であった。

京都で大学生活を追え、夢だった雑貨(と本)のお店で働くことができてから、私はなりたい自分が霞み始めた。その後イギリスに留学して修士号を取得し、今はハンガリーで博士課程に在籍しているが、それまでのなりたい私を手に入れている過程かと言われるとよくわからない。実際、一度もヨーロッパに住みたいと思ったことはないし(旅行したいとは思っていたけれど)、研究者になりたいとも思ったこともない。

結局何か言いたいことがあるわけではない。こう書くことによって、だから年単位でやる気がないしモチベーションも低いのだという言い訳にしたいのかもしれない。今はなりたい私というものが霞んでいるが、強いて言えば自分のお店を持ってみたいというぐらい曖昧なもので、今の経歴がどう活かせるのかもわからない。

今手元に残ってる私の属性といえば、ヨーロッパに住んでいる大学院生で、たまにピアノを弾いたりする女ということである。改めて書き出してみると別にそんな悪くないじゃんとも思うわけだが、どれも別になりたい私として手に入れたものではないのでなんかしっくり来ない。お店を持ちたいなら、じゃあなんで雑貨屋をやめたんだという話になるが、あの時にやめたことは全く後悔していない。

小さい頃は単純だった信じる力がどんどん無くなってきている気がする。無邪気に自分の気持ちを信じれるあの頃に戻れたら、どれだけ人生楽だろうと思う。結局なりたい私が霞んできたのも、アイデアが出ても本当にそうだろうかというメタ的な疑問の目が常に付き纏って、そうなりたいとシンプルに思えなくなったということだろうか。