五月二十二・二十三日@ブダペスト

五月二十二日

今日は一日何もない日。午前中だけ作業して、午後から友達と出かける予定だったが、午前中特に何もせずに終わった気がする。

午後は久しぶり(二ヶ月ぶり)にカフェに行って友達と待ち合わせ。他学部の一年生の子なのだが、どうも鬱の初期症状のような感じで、あまり調子が良くなさそうなので会って話すことになった。お互い住んでるところがとても遠いので個人的にはZoomでもいいと思ったが、ネットの回線がよくない&パソコンのスペックが低い&仕事の感じがして嫌だと言われて、なるほどなと考える。

思えば私はすごく恵まれていて、街から離れた閑静な住宅街に住まい、ネット回線はたまに悪いことがあるけどパソコンは比較的良いスペックなので家から作業することに不便を感じたことがなかった(そりゃオフィスの方がもっと広くてネットも速くてキッチンも図書室もあって良いが)。

初めてMassolit Books & Caféに行く。本屋さんとカフェが一体になって、買った本をその場で読めるというまぁ良くあるコンセプトのお店かと思うが、実際に行ったのはブダペスト内では初めてだった。まだ店内での食事は禁止なので、中のガーデンに行って話す。普通にお客さんはそれなりにきていたが、一人か二人の小グループばっかりだった。

後輩の話を聞いていると自分と重なる部分があって辛くなってくる。全く分野が違うので学問的なアドバイスは何もできない(し、彼女も欲してない)が、自分なりに今までにカウンセリングに行った経験とか思うことなどを伝える。しかし実際に苦しんでる人に正論というか、一見正しいようなことを言ってもしょうがないので、どうしたものかと思う。

私と一つ違うと言えば重度の睡眠障害(昼夜逆転)があるようで、それが辛さの根元のようだ。私は朝型人間なので夜眠れないことはあまりないので共感ベースで答えるのが難しいと感じた。多少寝つきがよくなることでヨガ、ストレッチ、アロマキャンドルとかは自分もやってるが、そんなのが効く感じでもないので、薬をもらうのが良いのではと思うが、なぜかそうしない。薬に頼ってしまうとやはりそれなしでは寝れなくなってしまうからだろうか、とも思うが特に突っ込んで聞くこともできない。

一通り話した後、顔が明るくなった後輩を見て少しほっとする。よくよく話を聞いていると大学の競争的な環境によって不安になっているだけではなく、故郷に一人残されたお母さんのことなど色々心配事があるようで、まぁこのコロナによって影響を受けている部分が多いなと思う。

うちのラボでも、このコロナに何の打撃も受けてないように振る舞っている人がいる。というか大半がそうである。実験はできないけど溜まってるデータもあるとか、書かなければいけない論文を書くいいチャンスだとか、実験をしようと思えばオンラインで出来るから本当に不可能なことはない、みたいな感じだろうか。その考えはわからなくもないが、それはそのようなありがたいに状況にたまたまいるからであって、決して研究者本人の能力でも何でもないと思う。

しかし自分がいかなる状況にいても、アカデミアでは弱みを見せたら終わりだ。理性な生業だから、感情を見せたらそれは一人の研究者として劣っていることを示しているのと同じなんだと思う。こんな男性的な世界にはもう疲れた(※男性のことを言っているわけではない)。

五月二十三日

今日はいつものお昼定例のオンラインボードゲーム大会。カルカソンヌとキャメルアップを一回戦ずつする。キャメルアップは完全に運ゲーなので練習もクソもないが、カルカソンヌはやっぱり練習しようかなと思う(が、しないだろうなと思う)。

夕方は先輩が久しぶりにドナウ川で集まって遊ぼうよというのでみんなに会いに行く。五、六人ぐらいのグループで川縁に一列に並んで座って談笑した。どうもその先輩の誕生日だったようだ。こんな時に誕生日って何だか盛大に祝わうこともできないのでかわいそうだなと思ったが、先輩はこれはこれで規模が小さい分みんなと話せて嬉しいと言っていた。

家に帰ってからはご飯を食べて、作業しようと思ったのにSNSなどを見てしまって結局夜まで何もしない。やっぱり波があるようで先週頭はすごく作業できたなぁという気がしたけど、後半はボーッとしてしまった。毎日そんなに頑張らず程々にコンスタントにやりたいが、なかなか難しい。

続けることに関しては研究が向いてないなと思う。運動とかピアノとか、もちろん専門性は低いが毎日のルーティーンが鬱陶しいなと思っても始めたらそれなりにできるのに、研究はそんなに没頭することもない。頭を動かすことは可視化されないので、進歩が感じられないだけなんだろうけど。

ほぼ日の山崎努さんの『俳優の言葉。』というインタビューを読む。伊丹十三のことなども書いてある。人々は空っぽだということが書いてあって(伊丹十三がどこかのエッセイに書いていたこと)、改めて本当にそうだなと思う。自分は本当に何もないのに、あたかも何かある(知ってる)かのように振舞うのは辛い。

日記文学のことが書いてあった。私が過去読んだのは朝永振一郎の『滞独日記』と武田百合子の『富士日記』だけだが、私もつくづく日記の方がよっぽどリアルで面白いと思ってしまう。だから小説よりもエッセイが好きなのかもしれない。小説は面白さがわかるまでまだ読んでいないだけなのだが。